(十八)死闘
(十八)死闘
水柱があがった。
竜次とヤマタノオロチが対峙している。眼光鋭く敵を射抜く視線は、この戦さにかける竜次の執念だろう。一方、水面から浮かび上がった八つの頭の表情は、うかがい知れない。
両者は激しく睨み合いながら、徐々に距離を詰めていった。両軍の兵たちが、川の両岸に対陣しながら固唾を飲んで見守っている。矢弾を放つことさえ忘れて、大蛇の戦いを静かに見つめていた。大蛇の暑くて堅い鱗への鉄砲など、何ほどの援護にもならない事を両軍ともすでに知っていた。
ヤマタノオロチが先に仕掛けた。水面ぎりぎりから浮かび上がるように、大きく開いた口と、鋭い牙を突き出して突進して来た。
ぐるりと回った一つの頭が、竜次の背後から襲い掛かる。
背中に噛みつかれた。
竜次は大きなうめき声を出して体をよじった。噛みつかれた頭に噛みつき返すと、その頭は力なく水面に落ちていった。
だが、その間に前後左右から容赦なく襲い掛かって来る。素早く身をかわしたものの、攻撃を全て避けることは不可能だ。竜次の体には細かい傷が徐々に増えていき、少しずつ体力が消耗していく。
背中と腹からの出血がおびただしい。竜次の鮮血が浅川を赤く染めた。滴り落ちて水飛沫と混じって、薄赤色の霧となって、人間どもの視界を遮った。
血の霧は、竜次のものだけではなかった。ヤマタノオロチの血飛沫もまた、川の水と混じって、霧となって両岸の兵たちを押し包んだ。甲冑が、旗指物が、馬印が、ほのかに赤く染め上げられていく。
両者ともに鱗が剥がれ、切り傷を負いながら戦い続けている。地響きのような二匹の荒い息遣いが人間どもの肝を震え上がらせた。この死闘がいつまで続くのか、だれ一人として分からなかった。
竜次の体力も限界に近い。だが、ヤマタノオロチもまた、手傷を負って体力を消耗している。
(勝たねばならぬ)
この日、この時のために、竜次は二度目の命を閻魔大王からもらったのである。父と母と妻の無念を晴らすために。息子が恩を受けた北条家へ酬いるために。理不尽な天下人の支配する世に抵抗するために。
竜次は思う。今ここで戦わずして、何のための人生か。今ここで逃げたら、その後百年の命があったとしても、その命に何ほどの価値があるというのだろうか。
生きている者は、いつか死ぬ。必ず死ぬ。例外なく死ぬ。ならば死ぬことを一刻でも遅らせることに意味はない。生きている間をどのように生き抜いて、限りある命をどう使うかだ。それこそが、生まれてきた価値ではないだろうか。
竜次は今、戦っている。今ここでヤマタノオロチと戦うことが、了雲が言っていた「天命」なのであろう。
すでに全身に傷を負い、動きが鈍くなってきた。
(死ぬのは怖くない。なにしろ一度死んだ身だ)
竜次は最初の死も、死後の世界も、鮮やかに記憶している。死ぬのが怖いとは思わなかった。
だが無意味に命を失うことだけは何としても避けたかった。ヤマタノオロチに一矢酬いる事で、これから六十余州を支配する関白秀吉の治世を歓迎しない者も存在する、ということを世間、そして後世に知らしめなければならない。
氏照も監物も、竜次と同じ気持ちで戦っていた。室町幕府の関東管領も足利将軍も、まして関白豊臣氏が、いったいどれだけここ関東の民を撫育してきたというのだ。
民のための政治を百年近く貫いてきたのは、北条氏ではないのか。そして、流れ者の椿丸を救ってくれたではないか。
その恩ある北条が、今、天下の兵を引き受けている。天下の主は畏れ多くも、ヤマタノオロチまで復活させて征伐にかかってきているのである。
一つの頭が伸びてきた。その動きを見切った竜次は、いったん大きく迂回して高く伸び上がった。全身の力を込めて、全力で跳び上がった。
眼下に敵の姿が見えた。
竜次は急降下した。
ほぼ垂直に落下した竜次は真上から牙を突き刺した。堅い鱗を突き破り、皮膚の奥深く、筋肉まで到達した。動脈にマムシの毒が大量に注入された。
大蛇の悲鳴が響き渡り、人間たちの鼓膜をつんざいた。ヤマタノオロチは胴体から血を滴らせて激しくのたうちまわった。
大きな水音が激しく響き渡り、白い飛沫が霧となって、両岸はもとより近隣の村まで飛び散った。
動脈に毒を注入した竜次は、素早く牙を抜いて距離をとろうとした。後は、逃げの一手でよい。しかし、硬い筋肉の奥深くまで刺さった牙は、すぐには抜けなかった。
毒を注入したとはいえ、全身に回るまでには時間がかかる。ヤマタノオロチの動きはすぐには衰えない。
牙が抜けずに身動きがとれない竜次の背後から、別の頭が噛みついた。動けない竜次を、複数の頭が袋叩きにした。ようやく牙が抜けた時には、すでに致命傷を負っていた。
竜次の目が霞んで来た。呼吸も苦しくなって来た。流れ落ちる血は止まらない。全身から力が抜け落ちていく。
あれほど激しかった苦痛と疲労が、薄らいでいく。少し楽になったようだ。なんだか眠くなるように、ぼんやりと意識が次第に遠のいていく。
(ああ、俺は死ぬんだな)
不思議と怖くはなかった。それよりヤマタノオロチに自分の毒がどれほど効くのか、見届けられない事だけが心残りだ。
(今度こそ、本当に死ぬんだな)
上杉と直江を討伐出来なかったのが、残念だ。
思い出が、鮮やかによみがえってきた。
理不尽に殺された父母への思い。妻子と首を刎ねられてからの閻魔大王とのやりとりの数々。武州へ向かう旅路での妻の死。
辛かったはずなのに、今はそれさえも懐かしく思われてならない。あの世に行けば、もう一度人間の姿で父と母に会えるだろうか。妻に会えるだろうか。
あの時の、蛇になる、という選択は、果たして正しかったのだろうか。
考えても詮無いことではあるけれど、後悔と諦念と不条理への怒りを内に秘めながらも、生きてゆかねばならなかった。
至らないことだらけの一生だった。それでも自分は精一杯生きた。一度死んでも肉体を変えて生き直し、少しは仇を討つこともできた。
悲しい。心残りではある。だが、仕方がないではないか。
竜次の目に涙があふれた。武州に来て良かった、本当に良かった。蛇になってでも記憶を残して生き直した事に、悔いはない。そう思えた。
やがて竜次はゆっくりと目を閉じた
いつの間にか西に傾いた日が、赤くまぶしかった。まぶしさを避けるかのように、竜次は静かに目を閉じている。そして再び開くことはなかった。
ヤマタノオロチが勝った。
前田、上杉軍の兵たちから大きな歓声があがった。これでこの戦さの勝ちは決まった、と兵の端々に至るまで安堵した。
が、それも束の間の事だった。
ヤマタノオロチが苦しみ始めた。目が爛れ、狂ったように左右に体を揺すり始め、やがて口から白い泡を大量に吐き出し、悶え苦しんで大きな悲鳴をあげた。
その悲鳴は近隣の村にまで聞こえ、その甲高い叫び声は、山寺の鐘の音にも似ていたという。
悲鳴が途切れた直後に三回痙攣し、そして動かなくなった。
両軍の兵たちは、誰もが無言で横たわる大蛇を見詰めるしかなかった。
二匹の大蛇が死んだ。
初夏としては暑すぎる日差しも、すでに西に傾いている。赤い夕陽が、大蛇の死闘の跡を、長い影を引いて照らしていた。




