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(十七)覚悟

(十七)覚悟

 竜次の顔に焦燥の色がにじみ出ていた。

(敵は手ごわい)

 水面下を移動して北浅川で水上に浮上すると、ほっと一息ついて心と体を休めようとした。ヤマタノオロチが下流の日野方面へ去っていったのを確認したものの、油断はできない。

 食を摂り、体を伸ばすと昼間の緊張から解き放たれて、どっと疲労が押し寄せてきた。幸い傷は負っていない。

「敵を倒すより、自分が無事でいることが肝要じゃ。無理に攻めて傷を負うな、絶対に死ぬな」と、監物から堅く釘を刺されている。

 巨大マムシが水中に居座っている限り、敵軍は浅川を渡河できない。だから、確実に仕留めることが出来そうな時以外は、無理をするな、と。

 監物の戦略眼は正しい。竜次が浅川にいる限り、八王子城は落ちない。

  ※

 景勝のもとに早馬が来た。夜通し駆けて来た使者は秀吉の密書を持参していた。

「敵方の大蛇は守りに徹しているが、一日も早く退治せねばならぬ。そのためにヤマタノオロチが相討ちになって倒されても苦しからず」

 大蛇対決が膠着戦に終わったことを、秀吉は憂いていた。普段は短兵急に攻め込んで味方の損害が大きくなるのを嫌う秀吉も、今回ばかりは、たとえ損害が出てでも、急ぎ八王子城を攻略せよと、前田上杉両将の尻を叩いている。

 景勝は苦虫を噛み殺した表情で黙り込んだ。もともと口数の少ない男だが、秀吉に急かされて愉快であるはずがない。

友軍の将、前田利家は若いころから長年にわたって秀吉とは仲が良く、最近傘下に入ったばかりの景勝とは信頼度が違う。景勝は、何としてでも、前田勢よりも大きな手柄を立てたかった。しかも相手は北条である。謙信のころから長年戦い続けてきた因縁の宿敵が、今はすぐに揉みつぶせる所まで来ている。

それなのに大蛇が現れて押し返されてしまった。そして攻略の糸口さえ掴めない。こちらにも大蛇が来たと思ったのに、にらみ合うばかりで討ち取ってはくれない。戦線は膠着状態になってしまった。

 景勝は密書の続きに目を落とした。

「ヤマタノオロチに村を襲わせて領民を食い殺すよう、陰陽師から命じさせた。北条は怒って決戦するように大マムシに命じるであろう。そこを叩け」

 景勝はため息をついて、無言のまま兼続に書状を見せた。

  ※

「申し上げます。ヤマタノオロチが領民を襲っているとのことです。川から突然現れて岸に上がり、楢原村の百姓を三十人ほど噛み殺した、とのことでござる。多くの家を壊し、畑も荒らしたとの事」

「何ぃ」

監物は顔を真っ赤にして立ち上がった。楢原村は人家も疎らな寒村だが、ここには寺子屋の師匠たちが研鑽を積む学問所もあった。

「馬、引けぇ」

 小具足姿のまま陣羽織だけ羽織って、少数の従者だけを引き連れて馬を飛ばした。椿丸も手槍を持って主とともに駆けた。

  ※

 すでに大蛇は去っていた。残されているのは、屋根が崩れて傾いた百姓の家と、散乱する人間の手足だけだった。

白髪の老婆が、言葉もなく茫然と血塗れの手足の残骸を眺めていた。すぐ隣には、真っ赤な顔で泣き叫ぶ童がいる。歳のころは七つか八つだろう。

少し駒を走らせると、草むらの一角の草が、道のように薙ぎ倒されている。大蛇が通過した痕跡であるのは誰が見ても分かる。

 楢原村私塾学問所も、校舎の屋台骨が折れて崩れ落ち、貴重な書物が散乱していた。

赤子を背負って井戸の水汲みをしている若い母親の姿が見えた。伏し目がちの顔は、涙を堪えて震えていた。

野良着の中年男が、切株に腰を下ろして地に視線を落としている。その目は、感情を失っていた。

「オロチは何をした」

 監物がたずねるが、男は怯えた目のまま言葉が出ない。

「ご家老様がおたずねじゃ、そのほう無礼であろう」

「構わぬ」

 監物は従者を一喝した。

「さぞ心苦しいであろう。なんとしても村人を助けるゆえ、欲しいものがあれば、遠慮なく申すがよい」

男は何かを言おうとしているが、頭が混乱しているのか、まとまった言葉が出てこない。震える声をかろうじて絞り出した。

「みな…、逃げ出そうとしています。この村も、隣の村も…」

(これでは国が崩れる)

監物の眉間に深い谷が刻まれた。戦さの勝ち負けがどうのこうのではない。治世の根本たる領民が逃散してしまえば、戦国大名の生存基盤など、消えてしまう。

何という卑劣なやり口だろう。慈悲もない。これが天下人のやり方か。人臣最高位の関白とは、天下万民が楽しく暮らせるために働くのではないのか。

 秀吉は元は卑賤の民であったという。ならば卑賤の民の気持ちが分かるはずではないのか。分かっていながら、こういう事を命じるのか。

(許せぬ)

 監物は腹をくくった。

(ヤマタノオロチの息の根を止めるしかない。それが出来るのは大マムシだけだ)

 大蛇対決は、どちらかが倒されるまで戦い続ける事が避けられなくなった。

(もし、大マムシ竜次が倒されれば、八王子城の命運も尽きる。だが、それも天命であろう。これを放っておくことは、人として出来ぬ)

「椿丸。覚悟をしておけ」

 だだそれだけを言った。椿丸は監物の言葉の意味を深くは理解できなかったが、ただならぬ事態になったという事と、主が重い決断をしたという事だけは理解できた。


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