第007話 熱だ
祖父の手記を見つけてから、一年ほどが過ぎた。
俺は五歳になり、昼寝の時間に書房へ通っていた。
本当に眠ってしまう日もあれば、ローザや父が近くにいて行けない日もある。
それでも少しずつ読み返すうちに、手記の場所はすっかり覚えた。
棚の下から二段目にある古い本の奥から、黒い革の冊子を引き出す。
背が伸びたおかげで、重い手記も落とさず床まで運べるようになった。
その日の午後、書房には雨上がりの湿った匂いが残っていた。
雲の切れ間から日が差し、棚の端を照らしている。
俺は手記を抱えて床に座り、何度も読んだ二項目めを声に出した。
「熱いと冷たい、動くと止まる、沈むものと浮くものは同じものの多さと少なさ」
動くと止まる、沈むものと浮くものは何が多くて何が少ないのか。
そこはまだ分からないが、今日は「熱いと冷たい」のところで指が止まった。
前世の理科準備室にあった温度計を思い出したのだ。
細い管には赤い液が入っていて、横に目盛りと数字が並んでいた。
冬の水に入れれば赤い液は下がり、湯の入った容器に近づければ上がる。
俺は生徒に温度計を見せながら、手で触った感じだけで決めずに数字を見ろと教えていた。
冷たい水も熱い湯も、同じ温度計で測っていたじゃないか。
俺は手記の「熱い」と「冷たい」を指でなぞった。
祖父が「同じもの」と書いたのは、熱のことか。
熱いなら熱が多く、冷たいなら熱が少ない。
粥も冷めれば食べやすくなるし、湯気の出る鍋に近づけば頬が熱くなる。
別々の現象だと思っていたことが、熱の多さと少なさで説明できる。
俺は思わず手記から顔を上げた。
分かってみれば簡単なのに、この一行を読むのに一年もかかった。
もどかしいが、それ以上に嬉しかった。
去年は俺と同じ疑問を持った祖父がいたことに泣いたが、今日はその祖父の言葉を一つ理解できたのだ。
分かったことを試したくて、手記を押さえる指に力が入る。
前世でも、黒板の説明を聞いただけではうまく実験できない生徒がいた。
俺自身も失敗したことがあるから、理解したつもりで終わりたくない。
俺は「呼び名は人が後からつけた」の行を読み返した。
それなら、火という名前だけで考えるのをやめてみよう。
火は熱いが、熱い石や粥がそのまま火になるわけではない。
火が燃えるには何がいるのか、見たことを順に思い出した。
暖炉では薪が燃えていて、薪がなくなれば火は消える。
厨房のかまどを遠くから見た時も、アニタが薪を足していた。
まず必要なのは、薪のように燃えるものだ。
父の書類を乾かす小さな火は、蓋をかぶせると弱くなった。
前世の理科室でも、ろうそくに瓶をかぶせれば火が消えた。
瓶の中で何が使われたのか、今の言葉ではうまく説明できないが、空気も必要なはずだ。
ただ、薪を空気にさらしておくだけでは燃えない。
火打ち石やマッチで火をつけるか、かまどの小さな火を移さなければならない。
燃え始めるきっかけもいる。
俺は手記の余白に指を置き、三つの言葉を頭の中で繰り返した。
燃えるものと空気と、きっかけだ。
火がつく条件を分けてみると、薪を足す理由も蓋で火が弱まる理由も分かる。
どれか一つをなくしたら、火を消せるのかもしれない。
ただ火を見るだけだった昨日より、確かめたいことがはっきりしてきた。
祖父もこんなふうに、一つずつ分かるようになったのだろうか。
早く試したくて立ちかけたが、周りの本を見て思いとどまった。
書房で火を扱ったら、手記や父の帳簿を燃やしてしまうかもしれない。
俺は座り直し、手記を閉じた。
庭の物置なら、枯れ草や木切れが置いてある。
厨房で火をつける小さな道具を借りられれば、燃えるかどうかを試せる。
ローザに見つかれば怒られるだろうし、アニタも簡単には貸してくれないだろう。
どう頼むかは考えなければならないが、試さずに諦める気にはなれなかった。
俺は手記を棚の奥へ戻し、手前の本をそっとそろえた。
書房の扉を閉める前にもう一度だけ棚を見る。
一年通って、ようやく祖父の文の意味が一つ分かった。
次は自分の考えが合っているか、実際に試してみたい。
明日は書房ではなく、庭の物置へ行こう。




