第005話 書房の埃
四歳になると、館の中でも一人で行ってはいけない場所を教えられた。
「坊ちゃま、書房は旦那様のお仕事部屋ですからね。お一人で入ってはいけませんよ」
ローザに何度も言われるうちに、俺はかえって書房が気になった。
父の帳簿や母の手紙を横から見て、少しずつ読める文字が増えていたからだ。
よく出てくる名前や数字が分かると、それだけでも楽しい。
リュカやヴァルトラム、エルノストやアドリアーヌといった家族の名前は何度も見聞きするので覚えやすかった。
書房の本棚にも、俺に読めるものがあるかもしれない。
前世で生徒に薬品棚へ触るなと言った時も、かえって棚を見たがる生徒がいた。
今なら、あの気持ちが少し分かる。
その日の午後、父は客間で帳簿を広げ、母は手紙を書くために自室へ入っていた。
ローザは干した布を外して畳むため、裏手へ回った。
マルティンも玄関のほうへ行ったので、俺は昼寝の寝台から抜け出し、廊下に出た。
誰もいないのを確かめてから、足音を抑えて書房へ向かう。
扉は少し開いていて、隙間から午後の日差しが床に差していた。
日差しの中には灰色の埃が漂い、その向こうには淡い金色の魔素の流れも見える。
同じ空気の中にあっても、色も流れ方も違っていた。
俺はしばらく見比べてから、真鍮の取っ手を押した。
重い扉が小さく鳴り、紙と革の匂いがした。
中に入ると、壁に沿って背の高い棚が並び、下の段には帳簿や箱が詰まっていた。
部屋の中央には父の机もある。
俺は背中で扉を少し押し戻したが、自分で開けられなくなると困るので、隙間を残しておいた。
父が仕事に使っている机の上の紙は触らず、本棚へ向かった。
上の段には手が届かないが、下から二段目なら、背の高さがそろわない古い本が何冊かある。
その奥に、黒ずんだ革表紙の薄い冊子が、斜めに挟まっていた。
手前の本を引き抜くと埃が立ち、俺は鼻の下を押さえてくしゃみをこらえた。
声を立てたら、書房にいることがばれてしまう。
引き抜いた本を脇へ置いてから、俺は奥の冊子の端を両手でつかんだが、思ったより重くて簡単には動かなかった。
俺は棚板に片膝を当て、少しずつ引いた。
革の表紙が棚にこすれ、紙が乾いた音を立てる。
腕が疲れてきたので、抜けてきた冊子を両手で抱え、床に座ってから下ろした。
服の腹にも埃がついていたが、今は冊子のほうが気になった。
表紙に金具や飾りはなく、内側の紙に古い字で名前が書かれていた。
ガスパール・ヴァルトラムと読めた。
父や母が古い話をする時に、聞いたことのある名前だった。
マルティンも、書房の棚を拭きながら呟いたことがある。
たしか、俺が生まれる前に亡くなった祖父の名だ。
どんな人だったのかは、ほとんど知らない。
その祖父が何を書いたのか知りたくなり、俺は冊子を膝に乗せて開いた。
古い手記の紙は端が少し波打ち、指で触るとかすかに音がした。
字は父の帳簿より癖が強く、一字ずつ確かめないと読み違えそうだった。
前世でどれだけ本を読んでいても、この世界の文字や言葉はまだ全部覚えていない。
俺は最初の一行を、ゆっくり声に出した。
「同じものが、ある場所では多く、ある場所では足りない」
言葉そのものは分かるが、何が多くて、どこで足りないのだろう。
俺は洗礼の朝を思い出した。
神父は俺の胸を見て、体の中の魔素が少ないと言いかけたようだった。
俺のまわりには薄い金色の流れが見えるのに、体の中では足りないということだろうか。
祖父が「同じもの」と書いたのも、あの光のことなのかもしれない。
何を見てこの一行を書いたのか確かめたくなった時、廊下の遠くから足音が聞こえた。
次の行へ目を向けかけたが、俺は読むのをやめた。
今から続きを読んだら、誰かが来るまでに戻せなくなる。
俺は手記を閉じ、埃のついた表紙が袖にこすれないよう抱え直した。
棚の元の隙間に差し込もうとすると、冊子の角が隣の本に引っかかった。
息を止めて少しずつ押し込み、最後に手前の本も戻す。
元どおりに見えるのを確かめてから、服についた埃を手で払った。
ところが、払うほど白っぽく広がるので、途中で諦めた。
扉の隙間から廊下をのぞくと、足音は別の部屋へ向かったらしかった。
俺は書房を出て、扉を入った時と同じくらい開けておいた。
部屋を離れても、鼻には紙と革と埃の匂いが残っていた。
それでも気になるのは服の汚れより、手記にあった一行だった。
同じものが、ある場所では多く、ある場所では足りない。




