第004話 洗礼の朝
三歳になった俺は、洗礼の朝、いつもより硬い上着を着せられた。
袖口の刺繍が手首に当たってかゆいが、掻こうとすると母に手を止められた。
「今日は洗礼です。フェルナンド神父様の前で、きちんと頭を下げるのよ」
母の声はやわらかかったが、いつもより厳しい口調だった。
ここ数日、洗礼という言葉を何度も聞いたものの、何をする儀式なのかは分からない。
前世の記憶があっても、この世界の習わしまで知っているわけではなかった。
母は俺の服を整え、ローザは朝から俺の髪を撫でつけている。
二人の様子を見ると、大事な儀式なのだろう。
「坊ちゃま、今日は走ってはいけませんよ」
ローザは最後に俺の襟を直し、少し心配そうに笑った。
この硬い靴では走りにくそうだから、言われなくてもゆっくり歩くつもりだ。
館を出ると、朝の冷たい風が頬に当たった。
父に右手を引かれ、俺は母とローザに付き添われて教会へ向かった。
母は左側で自分の服の裾を押さえ、ローザは少し後ろから、俺が石畳の段差でつまずかないか見ている。
着いた先のオルトナーム小教会は、館よりずっと低い建物だった。
教会の石壁は厚く、扉には黒く光る金具がついている。
中へ入ると、蝋燭の甘く焦げた匂いと、湿った石の匂いがした。
靴底から伝わる床の冷たさに、俺は父の手を強く握った。
同じ年頃の子供が数人、母親らしい大人と並んでいる。
子供たちも静かにしていて、俺も騒がずに待つことにした。
祭壇のそばに立つ老人が、俺たちへゆっくり顔を向けた。
背は少し曲がっているが、白い眉の下の目で、こちらをよく見ている。
父が「神父様」と呼んだので、この人がフェルナンド神父なのだと分かった。
神父は膝を少し曲げ、俺と目の高さを合わせた。
「リュカ・ヴァルトラム様ですね」
「はい」
俺が返事をすると、神父は目尻をゆるめた。
「よろしい。今日は怖いことはいたしません。子供の光を少しだけ見せていただきます」
光と聞いて、俺は揺りかごにいた頃を思い出した。
天井を見上げると、空気の中に薄い金色の流れが見えたことがある。
神父が見ようとしているのも、あの光なのだろうか。
先に呼ばれた子供が、白い石の台に両手を乗せた。
神父が低い声で祈りを唱えると、その子の手の上に光が浮かんだ。
蝋燭の炎に似た橙色の光が揺れている。
見守っていた母親は、胸の前で組んでいた指を少しゆるめた。
父と母も黙って見つめていて、俺は自分の手にも光が出るのかと気になった。
俺の番になると、父は背中を支えていた手を離した。
白い石の台に両手を乗せると、指から腕へ冷たさが伝わってくる。
神父は俺の頭の上に手をかざし、目を閉じた。
「世界に満ちる魔素よ。この子に宿る光を静かに示したまえ」
魔素とは、初めて聞く言葉だった。
空気の中に見えていたあの薄い光を、ここでは魔素と呼ぶらしい。
俺が祈りを聞いていると、神父の手の下で、胸のあたりから薄い金色の光が浮かんだ。
揺りかごから見た流れによく似た色だが、先ほどの子の光よりずっと淡い。
俺は石の台の上で揺れる光を見つめた。
神父が目を開き、その光を見たまま動かなくなった。
「……薄い、金」
父が息をのんだ。
母は俺の肩にそっと手を置いたが、その指先には強く力が入っていた。
「神父様」
父は、普段より低い声で呼びかけた。
神父はすぐには答えず、俺の手と胸を見比べたあと、記録用らしい細い板へ目を落とした。
「体の中の魔素は少し……」
そこで言葉を切り、口を閉じて喉を動かした。
続きが気になるのに、神父は何も言わない。
俺を叱っているわけではなさそうだが、さっき返事を褒めてくれた時の笑みは消えていた。
俺の光に、何か問題があるのだろうか。
「エルノスト様、アドリアーヌ様。詳しいことは後ほどお話ししましょう」
俺には聞かせず、父と母だけに話すつもりらしい。
説明を待っても、父は小さくうなずくだけで、母は俺の肩を抱いたままだった。
神父は俺の額へ指先を近づけ、触れる寸前で止めた。
「怖がらなくてよろしいですよ、リュカ様」
穏やかな声だったが、両親のこわばった顔を見ると、俺の不安は消えなかった。
あの薄い光には、魔素という名前がある。
その名前は分かったのに、俺の光を見て大人たちが黙った理由は、誰も教えてくれなかった。




