第003話 最初の言葉
二歳になる少し前から、大人の言葉が急に分かるようになった。
父の言う「帳簿」は、机の上にある厚い紙束のことだ。
母の言う「手紙」は、細い筆で文字を書いている白い紙のことだった。
家政婦のローザが「お水ですよ」と言えば、木の杯に入った水をもらえる。
何を話しているのか分かるだけで、館での暮らしがぐっと面白くなった。
ただ、聞いて分かる言葉でも、自分の口ではうまく言えない。
「リュカ様、お水ですよ」
ローザが杯を差し出したので、俺は水と言おうとした。
ところが、出てきたのは「うあ」だった。
ローザは笑って、杯を持たせてくれた。
「はいはい、うあでございますね」
水だと分かっているのに、舌がうまく動かない。
言い直すのを諦めて水を飲みながら、俺は早く普通に話せるようになりたいと思った。
その頃には、ローザに手を引かれ、館の中を歩くようになっていた。
父の部屋へ入ると、紙とインクの匂いがした。
父は机に向かい、帳簿に引かれた線を指で追っている。
黒い文字はまだ読めないが、同じ形の印が並び、端のほうには違う形が集まっていた。
数字を並べて、端に合計を書いているのだろうか。
もっと近くで見たくなり、俺は机の脚につかまって背伸びをした。
指先が机の縁に届き、もう少し伸ばせば紙に触れそうだった。
「リュカ、触るな」
父の落ち着いた声に、俺は手を引っ込めた。
駄目だという意味は分かるが、せっかく紙に届きそうだったのに。
「これはまだ、お前には早い」
父はそう言って帳簿を閉じた。
確かに、この体では紙を破ってしまうかもしれない。
それでも、何が書いてあるのか知りたかった。
父の部屋を出ると、ローザは俺を抱き上げて母の部屋へ向かった。
母は椅子に座り、背筋を伸ばして手紙を書いていた。
細い筆をゆっくり動かすと、まっすぐな文字の列ができていく。
父の帳簿にあった文字より線が細く、飾りのような線も多かった。
「ローザ、封蝋を持ってきて」
「はい、奥様」
ローザが持ってきた小さな箱には、赤い塊と金属の丸い印が入っていた。
母は手紙を折り、溶けた赤い塊を紙に垂らした。
甘く焦げた匂いがする。
母がそこへ金属の印を押すと、赤い丸の表面に家の形がついた。
出来上がった形を見たくて、俺は手を伸ばした。
「熱いからだめよ、リュカ」
母は俺の手をつかみ、紙から離した。
こうして止められるたびに、「熱い」と「だめ」の意味はすぐに覚えた。
触りたいものがあっても、その言葉を聞いたら手を引っ込めるようになった。
昼前、眠気をこらえながら廊下を歩いていると、老執事のマルティンが通りかかった。
父より背筋を伸ばし、ローザより小さな足音で歩いている。
銀の盆に載せた陶器の器も、ほとんど音を立てない。
どうすれば、あんなに揺らさず運べるのか。
俺も真似して木の積み木を運んでみたが、三歩で手から落としてしまった。
床を転がる積み木を見て、中身が陶器でなくてよかったと思う。
「リュカ様、落としたら拾えばよろしいのですよ」
マルティンは積み木を一つずつ拾い、俺の前に戻してくれた。
床の物を手に取ることが「拾う」なのだと、言葉と動きが結びついた。
ローザに手を引かれて廊下を曲がると、厨房から豆と根菜の匂いがしてきた。
扉の向こうで、厨房女中のアニタが大きな鍋をかき混ぜている。
「坊ちゃま、そこは危ないですよ」
アニタは笑って、俺の前に木の匙を一本置いた。
「これなら大丈夫です」
俺は匙を握り、鍋を混ぜる大きな道具と見比べた。
小さいほうを渡してくれたのだが、俺の手にはこれでも少し大きい。
握るだけで手首が傾きそうになり、鍋を混ぜる真似はまだ難しかった。
◇ ◇ ◇
午後、ローザが俺を裏庭へ連れていった。
少し冷たい空気が頬に当たり、靴の底には硬い地面の感触があった。
庭の端で、兄が両手で木剣を握っていた。
赤ん坊だった俺をのぞき込んでいた頃より背が伸び、今は両足をきちんと開いて立っている。
兄が剣を振るところを見るのは初めてだった。
「アルベルト様、少しだけですよ」
ローザが声をかけると、兄は木剣を下げて俺を見た。
「分かっている。リュカは近づけるな」
それから、俺にも言い聞かせた。
「危ないから、そこで見ていろ」
言われたことは分かったので、俺はローザの足元で立ち止まった。
兄が木剣を構え、足を踏み出してから腰を少し回した。
肩、腕の順に動き、最後に木剣がひゅっと空気を切る。
腕だけで振っているわけではないのか。
兄は同じ動きを繰り返したが、二度目は木剣の先があまり揺れなかった。
三度目は、踏み込む足の音が小さくなった。
同じように振っているのに、よく見ると少しずつ違う。
どこを変えたのか知りたくて、俺は兄の動きに見入った。
兄の手にあるものを、俺も声に出して呼んでみたくなった。
「リュカ様?」
ローザに呼ばれても目を離せず、俺は兄の手元を指さした。
「け」
舌が引っかかって続きが出ず、兄が振り返った。
あと一音だけ、今度こそ言いたい。
「けん」
兄は木剣を構えたまま動きを止め、目を丸くした。
「今、剣と言ったのか?」
ローザが息をのんだ。
「奥様! リュカ様が、剣とおっしゃいました!」
母へ呼びかける声を聞いて、俺はようやく、自分の言葉が伝わったのだと分かった。
嬉しくなって、もう一度兄の木剣を指さす。
「けん」
今度はさっきよりはっきり言えた。
兄は困ったように眉を寄せたが、すぐに少しだけ口元をゆるめた。
「そうだ。剣だ」
俺の指す物を見て、兄が同じ言葉を返してくれた。
水の時の「うあ」とは違う。
思ったとおりに声が出たことが嬉しくて、俺は頭の中でも「けん」と繰り返した。
最初にはっきり言えた言葉は、母でも父でも水でもなく、剣だった。
家族には申し訳ないが、兄の素振りはそれほど面白かったのだ。
兄は木剣を持ち直した。
「もう一度だけだぞ」
今度はゆっくり振ってくれたので、俺は踏み出す足から順に目で追った。
腰が回り、肩と腕が動いてから、木剣が空気を切った。
自分でもやってみたいが、匙さえ持ちにくい今の手では、木剣を握れない。
それなら、持てるようになるまで、兄がどう振るのか見て覚えよう。




