第002話 母乳とツッコミ
赤ん坊になって困ったのは、腹が減ると我慢がきかないことだった。
前世なら職員室にしまった菓子を食べるか、昼休みまで待てばよかった。
今の俺は揺りかごから出ることもできず、誰かを呼ぼうとして泣き声を上げた。
「ふぎゃあ」
せめて、お腹が空きましたくらいは言いたい。
舌や唇を動かそうとしても、言葉にはならなかった。
俺の泣き声に応えるように、扉の向こうから足音が近づいてきた。
「リュカ、起きたの?」
リュカという音が、今の俺の名前らしい。
柔らかい声の主が揺りかごをのぞき込み、明るい髪が頬の横へ落ちた。
石鹸と乳の匂いのするこの人が、俺の母親なのだろう。
「よしよし。お腹が空いたのね」
何を言っているのかは分からないが、声は優しかった。
母らしい人はすぐに俺を抱き上げ、背中を腕に乗せて頭の後ろを手のひらで支えた。
大きな手が少し怖かったが、俺の体を動かす時は慎重だった。
空腹が収まったわけではなく、俺は腕の中でも泣き続けた。
「アドリアーヌ」
部屋の入り口から、男の低い声がした。
「無理をするな。人を呼ぶ」
「大丈夫です、エルノスト様。リュカはお腹が空いただけですわ」
会話は分からなくても、呼び合う名前の音は聞き分けられた。
俺を抱く人がアドリアーヌで、入り口の男がエルノストらしい。
入り口の男は、俺の父親なのだろう。
名前を覚えようとしていると、母が俺を胸元へ寄せて乳を飲ませた。
頭の中は30代半ばの理科教師なのに、母親から乳を飲ませてもらっている。
気恥ずかしくてたまらなかったが、口は勝手に乳を吸い始めた。
温かい乳を飲むうちに空腹がやわらぎ、恥ずかしさも少し薄れた。
「よく飲むわね」
母が少し笑った。
「元気ならいい」
ぶっきらぼうな声で答えた父は、部屋に残っていた。
飲み終えると、母は俺を揺りかごへ戻した。
目だけを動かすと、父の手が揺りかごの縁に置かれていた。
長い指の先で爪が短く切られていて、その手がゆっくり俺へ伸びてきた。
俺の頬の前で手が止まり、指が少し震えた。
前世で同僚が赤ん坊を抱いた時も、こんなふうに震えていた。
泣いてもいない俺に触れるのをためらう父は、小さな体を傷つけそうで怖がっているように見えた。
やがて父は俺の頬に指の背を一度だけ当てた。
ほんの少し冷たい指なのに、触れた場所がはっきり分かった。
「小さいな」
「赤ちゃんですもの」
「それは分かっている」
返事の声までためらいがちで、俺は父に少し同情した。
その時、おむつの中が温かく重くなり、布が肌に貼りついた。
自分が何をしたのか分かり、恥ずかしさと不快さでまた泣き声が出た。
おむつを汚したうえに、自分で替えることもできないのか。
「あら」
母が俺の産着に手をかけた。
「今度は替えましょうね」
申し訳なくて泣き声を弱めたが、謝る気持ちが伝わったかは分からない。
母は産着を開き、汚れた布のおむつを外した。
冷たい空気が肌に触れ、俺は反射で足をばたつかせた。
「はいはい。寒いわね」
母は手早く布を替え、産着を戻した。
乾いた布が肌に触れると、ようやく落ち着けた。
「母上、見てもいいですか」
扉の方から、緊張したような子供の声がした。
「アルベルト、静かにね」
「はい」
俺を見に来た子は、アルベルトというらしい。
小さな足音が近づき、揺りかごの縁から男の子が顔を半分のぞかせた。
五歳くらいに見える子で、まっすぐな眉の下の目が、真面目に俺を見つめていた。
この子も家族で、俺の兄なのかもしれない。
「弟ですか」
「ええ。あなたの弟よ」
「リュカ」
兄は俺の名前を試すように言った。
兄らしい子にも挨拶をしたかったが、口からは短い息しか出なかった。
「あ」
「返事をしたのか?」
兄の目が少しだけ丸くなった。
気持ちは挨拶のつもりでも、今の音はたまたま出ただけだ。
俺はもう一度口を動かし、「あ」に近い音を出した。
兄がさらに顔を近づけると、父がすぐ横から兄の肩に手を置いた。
「近すぎる」
「すみません、父上」
兄は素直に一歩下がった。
父の声は低いが怒鳴るわけではなく、兄も母も静かに俺を見ていた。
自分の名前と家族らしい三人の名前を覚えたところで、まぶたが重くなってきた。
乳を飲んで布を替えてもらっただけなのに、もう疲れている。
赤ん坊の体では、起きているだけでも大仕事らしい。
母が俺を揺りかごから抱き上げ、胸元へ寄せた。
布越しに、ゆっくりと一定の鼓動が聞こえた。
その音を聞いていると、腕の中にいれば大丈夫な気がした。
「眠ったかしら」
母の声に、近くから父が答えた。
「眠ったように見える」
「リュカはよく頑張りました」
意味の分からない言葉の中に、自分の名前が聞こえた。
母に優しく呼ばれると、頬まで温かくなった。
前世の死を忘れたわけじゃない。
目を閉じると、まだガラスの割れる音と真っ白になった視界を思い出す。
それでも今の俺は母の腕の中にいる。
父の低い声がすぐ近くから聞こえ、少し離れたところでは兄が息をひそめていた。
ここがどんな家で、自分がどういう立場なのかは分からない。
俺は母の腕の温かさを感じながら、リュカと呼ぶ声を聞いて眠りに落ちた。




