第001話 揺りかごの天井
最後に見たのは、理科準備室の天井にある蛍光灯だった。
古い金具の焦げた匂いがして、俺は湯気の立つビーカーを下ろそうとした。
その指が滑り、ガラスの割れる音と誰かの悲鳴が重なった。
喉の奥まで熱くなり、生徒の名前を呼ぼうとしたのに声が出ない。
息が止まり、次の瞬間には視界が真っ白になった。
◇ ◇ ◇
次に目を開けると、薄い布の向こうに木の天井が見えた。
蛍光灯はなく、木目のある低い板がすぐ頭の上にあった。
横を見ようとしても首が動かず、頭を持ち上げることもできない。
腕も思うように上がらず、視界の端で小さな手がばたついた。
丸い指が五本ついた、赤ん坊の手だった。
俺は30代半ばの理科教師だったはずだ。
薬品棚の鍵をかけたか二度確かめることはあっても、自分の腕の動かし方で困った覚えはない。
体の下で小さな寝床が揺れていて、俺は揺りかごに寝かされているのだと気づいた。
ここはどこだと聞こうとしたが、口から出たのは頼りない声だけだった。
「ふ、あ……」
いや、俺はそんな可愛い声で質問したいわけじゃない。
もう一度喋ろうとしても口が震え、言葉にならなかった。
代わりに息を吸い込むと、大きな泣き声が出た。
「泣いた」
すぐ近くで女の人が何かを言った。
「よかった……」
意味は分からないが、ほっとしたように声がやわらいだ。
女の人が近づき、俺を揺りかごから抱き上げた。
温かい腕に背中を支えられ、乳と洗った布の匂いがした。
俺は腕の中で、さっきまでいた理科準備室を思い出した。
割れたガラスも、喉の熱さも、白くなった視界も覚えている。
あそこで死んだはずなのに、今は赤ん坊として抱かれている。
こんなことが本当に起こるのか。
女の人に説明を求めたくても、俺の口はまだ泣き声しか出せなかった。
分からないことばかりだが、まずは自分の目で確かめるしかない。
腕に抱かれたまま見上げると、天井の板の隙間から細い日差しが落ちていた。
その明かりの中に、埃とは違う薄い金色の光が混じっていた。
粒というより細い糸のような光が、空気の中をゆっくり流れている。
日差しがそう見せているのか、それとも涙で目がにじんでいるせいか。
目を閉じてもう一度開いても、薄い金色の光は消えなかった。
揺りかごの布が揺れると、光も少し遅れて曲がった。
大人の手が俺の頬をぬぐい、濡れていたことにようやく気づいた。
「大丈夫よ」
言葉は分からないのに、耳元の落ち着いた声を聞くと少し安心した。
死んだことも、赤ん坊になったことも、まだ納得できない。
それでも、俺を抱く腕は温かかった。
もっと周りを見ようとしたのに、まぶたが重くなってきた。
さっき目を覚ましたばかりだろうと踏ん張っても、赤ん坊の体はもう眠たがっている。
せめて、今見えたものは覚えておこう。
木の天井と、俺を抱く温かい腕と、空気を流れる薄い金色の光。
授業なら黒板に書いておくところだが、今は自分の手さえうまく握れない。
目を閉じる間際、天井の下で薄い金色がまた流れた。
この光が何なのか、次に目を覚ましたら確かめたい。




