第二章 第一話 自分で選ぶということ
転移門を抜けた瞬間、空気の匂いが変わった。
魔力に満ちたアトランティスの空気から、夕暮れの人間界へ。
見慣れた騎士団支部の転移室。
白い壁。
床へ刻まれた転移術式。
窓の向こうには、夕日に染まり始めた街が見える。
昨日までなら、戻ってきたと思えた場所だった。
だが今は、胸の奥に黒い人工魔力核の姿が残っている。
同じ街のどこかに、奈々がいる。
そして、この世界のどこかに、次の実験体として連れ去られた少女がいるかもしれない。
「藤崎副隊長」
支部の転移術師に呼ばれ、神一郎は顔を上げた。
「転移による体調の変化はありませんか」
「大丈夫です」
「医療区画から、到着後に診察するよう指示が出ています」
「話をしたあとでも」
「到着後に、と聞いています」
「誰からですか」
「中嶋隊長です」
「まだアトランティスにいるのに……」
先回りされている。
椎菜なら、神一郎が戻ってすぐ奈々のところへ向かうと分かっていたのだろう。
「五分で終わります」
転移術師の声には、交渉の余地がなかった。
「……分かりました」
素直に診察を受けたのは、自分の状態を正しく判断したからだ。
そう自分へ言い聞かせる。
人間界支部の医療室で腹部の固定帯を確認され、傷の状態を調べられる。
転移による悪化はない。
出血もしていない。
ただし、安静が必要なことに変わりはなく、戦闘行動と高出力の魔力使用は禁止。
アトランティスで何度も聞かされた内容を、もう一度最初から説明された。
「以上です。二時間後に再診してください」
「一時間じゃないんですか」
「中嶋隊長から、こちらでは二時間ごとで構わないと連絡を受けています」
「そこまで細かく……」
「心配されているんですよ」
同じことを何度言われただろう。
分かっている。
分かっているからこそ、少しだけ居心地が悪い。
神一郎は上着を整え、医療室を出た。
奈々と優子には、支部の応接室で待ってもらっている。
一般人が立ち入れない施設ではないが、二人ともまだ正式な訓練生として登録を終えていない。機密情報を含む話をする以上、人の多い場所を選ぶこともできなかった。
廊下を進む。
応接室の前で、足が止まる。
扉を開けば、話さなければならない。
人工魔力核のこと。
カイル・ウェーバーのこと。
藤崎沙耶の治療が、兵器を作るために模倣されていること。
奈々が狙われている可能性。
そして、奈々の力がなければ、カイルを救えないかもしれないこと。
言葉にすればするほど、奈々を事件の中心へ近付ける。
神一郎は扉へ伸ばした手を止めた。
守るために隠すのではなく。
共に向き合うために話す。
そう決めて戻ってきた。
それでも、迷いが消えたわけではない。
「神一郎君?」
扉の向こうから優子の声がした。
「そこにいるんでしょ」
「どうして分かったんだよ」
「さっきから人の気配がするのに、全然入ってこないから」
仕方なく扉を開く。
室内には奈々と優子が並んで座っていた。
二人とも学校の制服のままだ。
奈々は膝の上に鞄を置き、その持ち手を両手で握っている。
神一郎の姿を見た瞬間、奈々が立ち上がった。
「神一郎」
「待たせた」
「怪我は?」
「先に診てもらった。傷は開いてない」
「本当に?」
「本当。二時間後にもう一度診察を受ける」
椎菜に言われたとおり、自分から説明する。
奈々は神一郎の顔と腹部を交互に見た。
まだ完全には信用していない顔だった。
「見せて」
「何を」
「傷」
「ここで?」
「だって、神一郎の“大丈夫”だけじゃ分からないもん」
「さっき電話でも言ってたな」
「中嶋先輩に言われたんだよ。神一郎君は自分に都合の悪い怪我を隠すから、直接確認した方がいいって」
優子が楽しそうに言う。
「中嶋先輩って…いつ連絡取ったんだよ」
呼び方まで変わっている。
「神一郎君が人間界へ戻るって聞いたあと」
「椎菜さん、解析中じゃなかったのか……」
「短い連絡だったよ。『神一郎の申告を信用するな』って」
「ひどいな」
「日頃の行いじゃない?」
言い返せない。
奈々はまだ心配そうに見ている。
「本当に大丈夫だから。医療術師にも確認してもらった。転移で悪化もしてない」
「痛くない?」
「動けば少し」
「ほら」
「でも、昨日よりは良くなってる」
「昨日、また傷が開いたんでしょ?」
「それも話す」
「それも?」
奈々の表情が曇る。
「座ろう」
神一郎は二人の向かいへ腰を下ろした。
腹部を庇った動きを、奈々は見逃さなかった。
それでも今は何も言わず、元の椅子へ座る。
優子も表情を切り替えた。
「それで、大事な話って?」
神一郎は一度、息を整えた。
「昨日、アトランティスの帝都で事件が起きた」
どこから説明するべきか。
迷った末、最初から話すことにした。
騎士登録のない男が、帝都の警備隊を襲った。
男は魔力を持たない一般人だった。
それにもかかわらず、Aランクを含む六人の騎士を一人で倒すほどの力を持っていた。
神一郎と椎菜が現場へ向かった。
男の胸には、人工魔力核が埋め込まれていた。
その核が身体を支配し、本人の意思とは関係なく戦わせていた。
話している間、奈々は一度も口を挟まなかった。
膝の上で握られた手に、少しずつ力が入っていく。
「その人は……」
神一郎が一度言葉を切ると、奈々が尋ねた。
「どうなったの?」
「生きてる」
最初にそれを伝えた。
「ツキカゲで、核から身体へ伸びていた魔力だけを斬った。椎菜さんと団長、それから現場の騎士たちが動きを止めてくれた」
「だから、神一郎の傷が開いたの?」
「ああ」
「戦闘は禁止されてたんじゃないの?」
「後方支援の任務だった。最初は」
「最初は?」
奈々の目が細くなる。
隣の優子は何も言わない。
助け舟を出すつもりはないらしい。
「途中で椎菜さんを探しに行って、人工魔力核の男と戦った」
「神一郎」
「必要だった」
「そうやって、また」
「でも、今回は一人じゃなかった」
奈々の言葉を遮るように言う。
「椎菜さんが相手の動きを止めた。団長が他の騎士を守った。俺は、ツキカゲで魔力を斬った。俺一人だったら、止められなかった」
奈々は神一郎を見つめた。
「それなら、怪我してもいいの?」
「よくない」
「え?」
「椎菜さんにも言われた。俺が倒れたあと、誰が運ぶのか。誰が治療するのか。俺が抜けた場所を誰が埋めるのか、そこまで考えろって」
「分かってるなら、どうして」
「戦ってる時は、そこまで考えられなかった」
正直に答える。
「でも次は考える。自分が倒れる前提で任務に挑むことはしない」
「次も戦うつもりなんだ」
「事件は終わってないからな」
奈々の視線が落ちる。
納得したわけではないだろう。
それでも神一郎が何も考えずに無茶をしたのではないと知り、強く責める言葉を飲み込んだように見えた。
「男の人の名前は、カイル・ウェーバー。四十二歳。機械工で、妻と娘がいる」
「自分から、人工魔力核を?」
優子が尋ねる。
「違うと思う。三日前から行方不明になっていた。首には薬を打たれた痕があったことを考えると、誰かに連れ去られて、核を埋め込まれた可能性が高い」
「それで、騎士団を襲わせた、と」
「ああ」
「誰が?」
「まだ分からない」
優子の声から、普段の明るさが消えていた。
命令によって人を傷付ける兵士。
自分の意思ではなく、与えられた力で戦わされる者。
その姿に何を重ねているのか、神一郎には分かった。
「カイルさんは、助かるんだよね?」
奈々が尋ねる。
今度はすぐに答えられなかった。
その沈黙だけで、奈々には伝わった。
「助からないの?」
「今はまだ、人工魔力核を取り出せないんだ」
「どうして?」
「核が心臓や血管と融合してる。無理に摘出すれば、心肺機能が止まる。だけど、残したままでも人工魔力核はカイルさんの生命力を魔力に変え続ける」
「あと、どれくらいなの?」
「今の状態なら、もって一週間」
奈々が息を飲む。
室内が静かになる。
壁の時計が秒を刻む音まで、はっきりと聞こえた。
「娘さんは、まだ小さい」
神一郎は続けた。
「十歳にもなってない。父親が眠ってるだけだと思って、新しい腕輪を作って待ってる」
「会ったの?」
「ああ」
「何て言ったの?」
「助けるって」
奈々が顔を上げる。
「必ず助けるって、カイルさんに約束した」
「方法があるの?」
「その可能性を調べるために、奈々へ話しに来た」
ようやく、本題へ辿り着く。
ここから先は、奈々自身の話になる。
神一郎は奈々から目を逸らさなかった。
「調べたところによると、人工魔力核が身体へ作る回路と、奈々の中にある魔力回路が似ていたんだ」
「私の?」
「ああ、基礎構造の六割以上が一致してる」
「どうして……」
「おそらく、母さんが奈々を治療した時に作った回路を、誰かが模倣したんだと思う」
奈々の胸元から、淡い白い光が漏れた。
感情に反応し、魔力が揺れている。
神一郎は椅子から立ち上がりかけた。
「奈々」
「大丈夫」
「でも、魔力が」
「大丈夫だから。続けて」
団長からで父と母の話を聞いた時と同じだった。
大丈夫ではない。
それでも奈々は、話を止めようとしない。
「十年前の事故を見ていた人がいたの?」
「分からない。母さんの治療を記録していたのかもしれない。あるいは、奈々が巻き込まれた事故自体、相手が仕組んだ可能性もある」
「それって」
優子が低い声を出す。
「奈々を使って、治癒魔力の定着実験をしたってこと?」
「そこまでは断定できない」
「でも可能性はあるんだよね」
「ああ」
奈々は胸元へ手を当てた。
白い光が、制服の上から指の間を照らしている。
「私の中の魔力を調べて、兵器を作った」
「まだ、そう決まったわけじゃない」
「でも、似てるんでしょ?」
「似てる。でも同じじゃない」
神一郎は解析室で見た二つの回路を思い出す。
黒と白。
人を支配するために伸びる回路。
人の命に寄り添うように成長した回路。
「人工魔力核は、宿主の身体を自分を動かすための魔装具として扱う。核が人間を支配するんだ」
「私の魔力は?」
「奈々の回路は、奈々の命を維持するために作られてる」
「沙耶さんが、そうしたから?」
「最初は」
「最初は?」
「今の回路は、母さんが移植した時のものと同じじゃないらしい。十年以上かけて、奈々の身体に合わせて成長してる」
奈々の瞳が揺れる。
「解析術師が言ってた。母さんから与えられた魔力は、もう奈々自身のものになってるって」
「私のもの……」
「母さんの魔力だから奈々を生かしてるんじゃない。今はもう、奈々がその魔力を生かしてる」
説明で聞いた時から、ずっと残っていた言葉だった。
神一郎自身も、それを奈々へ伝えたかった。
沙耶から与えられた力。
だが、与えられたままではない。
奈々が十年以上をかけ、自分の命と共に育ててきた力だ。
「じゃあ、カイルさんの人工魔力核も」
奈々が顔を上げる。
「私と同じように、身体へ馴染ませることができれば助けられる?」
「可能性はある」
「どうすればいいの?」
「奈々…」
「私の魔力を使うんだよね?」
予想していた。
奈々なら、そう言う。
相手に狙われている可能性を知っても、自分の力でカイルを救えると聞けば、迷わず手を伸ばす。
「まだ方法は分かってない。奈々の魔力を、さらに詳しく調べる必要がある」
「分かった」
返事が早すぎた。
「待て」
「どうして?」
「まだ全部話してない」
「他にもあるの?」
「相手は、最初から奈々を知ってた可能性が高いんだ」
奈々の表情が止まる。
「人工魔力核を作った者の資料に、赤坂奈々の名前があった」
「私の名前が?」
「顔写真も」
優子が椅子から身を乗り出す。
「ちょっと待って。どうしてそんなものがあるの?」
「分からない。学校か、街で撮られたものかもしれない」
「奈々は、ずっと監視されてたってこと?」
「その可能性がある」
奈々は自分の鞄へ視線を落とした。
通学路。
学校。
友人と過ごす時間。
家族のいる家。
普通だと思っていた日常のどこかから、誰かが自分を見ていた。
「今回の人工魔力核の事件そのものが、騎士団へ奈々との類似を気付かせるために起こされた可能性もあるんだ」
「私を事件に参加させるため?」
「ああ」
「それなら、私が協力するのは相手の思いどおりになるってこと?」
「そうかもしれない」
「だから神一郎は、私に話すか迷ってたの?」
「最初は、何も知らせずに遠ざけるつもりだった」
神一郎は正直に言った。
「事件から離して、騎士団に守らせればいいと思った」
「……うん」
「でも、それは違うって言われた」
「椎菜さんに?」
「ああ」
奈々の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「やっぱり、椎菜さんには分かってるんだね」
「何が」
「神一郎の悪いところ」
「そこまで言う?」
「何も話さないまま、一人で決めるところ」
否定できなかった。
「父さんも母さんも、俺を守るために何も知らせなかった。俺はそれに怒ったばかりなのに、同じことを奈々へしようとした」
「神一郎は、私を守ろうとしてくれたんでしょ」
「それでも、選ぶのは奈々だから」
神一郎は両手を膝の上で握った。
「協力すれば危険がある。相手が奈々を狙ってくるかもしれない。魔力の検査が身体へどれだけ負担をかけるかも、まだ分からない」
「うん」
「だから、断っていい」
「うん」
「カイルさんを助けられない可能性もある。奈々が責任を感じる必要もない」
「うん」
「本当に分かってる?」
「分かってるよ」
奈々は静かに答えた。
その声に迷いはなかった。
「それでも、私は協力したい」
「奈々」
「だって、カイルさんは助けてって言ったんでしょ?」
「ああ」
「神一郎は、助けるって約束したんだよね?」
「ああ」
「だったら、私も一緒に助けたい」
「相手の思いどおりになるかもしれないんだぞ」
「ならないよ」
奈々ははっきりと言った。
「どうして言い切れる」
「私が自分で決めたから」
白い光が、胸元で穏やかに揺れる。
「誰かに命令されたわけじゃない。騎士団に頼まれたからでもない。神一郎に言われたからでもない。私が、助けたいと思ったから使うの」
同じ力でも。
誰が、何のために使うのか。
それによって意味は変わる。
「相手が私の力を利用しようとしていても、私まで誰かを利用するために使うわけじゃない」
「怖くないのか?」
「怖いよ」
奈々は少しだけ笑った。
「神一郎、私のこと何だと思ってるの?」
「無茶をする訓練生」
「それ、神一郎に言われたくない」
優子が吹き出す。
「二人とも同じだよね」
「一緒にしないでくれ」
「どこが違うの?」
「俺は自分の状態を正しく判断してるつもり」
「昨日、傷を開いた人が?」
「結果的にそうなっただけだ」
「それを無茶って言うんだよ」
奈々まで優子と同じ目をしている。
先ほどまでの重い空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
だが、奈々の決意は変わっていない。
「それに」
奈々が胸元へ添えていた手を下ろす。
「私だけ安全な場所にいるのは嫌」
「安全な場所にいてほしいと思うのは、悪かったかな」
「悪くないよ。嬉しい」
「なら」
「でも、守られるだけは嫌だって、前にも言ったよね」
黒瀬祈莉との戦い。
自分の魔力が沙耶の命と繋がっていることを知り、奈々はそれでも逃げなかった。
自分も誰かを守りたいと言った。
「私の中にある力が、カイルさんを救えるかもしれない。今もどこかで苦しんでる人を助けられるかもしれない。だったら、何もしない方が後悔する」
「失敗するかもしれない」
「その時は、一緒に次の方法を探して」
「簡単に言うなよ」
「神一郎が一人で約束したことに、私も勝手に加わるだけだから」
「勝手にって……」
「嫌?」
真っ直ぐに見つめられる。
嫌だとは言えない。
本当は、奈々が一緒にいてくれることに安堵している自分がいる。
危険から遠ざけたい。
けれど、自分だけで背負うことが正しいわけでもない。
「…嫌じゃない」
神一郎は息を吐いた。
「ただ、絶対に一人で動かないでくれ」
「神一郎もね」
「俺は任務がある」
「私も、これから訓練生でしょ?」
「まだ正式な手続きは終わってない」
「だったら、終わったら同じだよね」
「……朝倉さん、何とか言ってくれない?」
「奈々が正しいと思う」
迷いのない返事だった。
「それに、私も参加するから」
「朝倉さんも?」
「人工魔力核を埋め込まれた人たちは、自分の意思で戦ってないんでしょ?」
「ああ」
「だったら、私にしか分からないこともあると思う」
優子は自分の右手を見る。
そこには、指輪型のリンクアイテムが嵌められていた。
中国軍特務隊FOX。
命令に従うために育てられた兵士。
優子は組織から与えられた力と技術で、神一郎たちの前に立ちはだかった。
「私には人工魔力核なんて入ってない。自分の身体を動かせなくなったわけでもない。でも、命令以外の生き方を知らなかった」
「優子……」
「カイルさんたちが何をされたのか、同じだとは言わないよ」
優子の声は静かだった。
「でも、自分で選べなくなる怖さなら知ってる」
奈々が優子の手へ自分の手を重ねる。
「私が人工魔力核を止める方法を探す。優子は、その人たちの心を助ける」
「そんなに簡単じゃないと思うけど」
「一人よりはいいでしょ?」
「うん」
優子が小さく笑う。
神一郎は二人を見た。
守るべき相手。
少し前までなら、そうとしか考えられなかった。
だが、二人はもう神一郎の後ろへ立つだけではない。
奈々は自分の力を使うことを選び。
優子は自分の過去と向き合うことを選んだ。
その選択を無視して守ることは、二人を信じることではない。
「分かった」
神一郎は頷いた。
「二人にも事件へ加わってもらう」
「うん」
「ただし、正式な指揮は椎菜さんが執る。勝手な行動は禁止、もちろん俺も。危険を感じたら、俺か椎菜さんの指示に従って欲しい」
「神一郎も、中嶋先輩の指示に従うんだよね?」
優子が尋ねる。
「当然だろ」
「今日までの話を聞いたあとだと、全然信用できないなあ」
「朝倉さんは、どっちの味方?」
「奈々」
「…即答か」
「当然でしょ」
奈々も頷いている。
どうやら、最初から神一郎に味方はいなかったらしい。
「そうだ」
神一郎は椎菜から頼まれていたことを思い出した。
「奈々。最近、魔力に何か変化はなかったか」
「変化?」
「眠れない。身体が熱くなる。自分の意思と関係なく魔力が漏れる。小さなことでもいい」
奈々はすぐに答えなかった。
その反応だけで、何かあると分かった。
「あるんだな」
「変化って言えるか分からないけど」
「何でもいい」
「昨日の夜、胸の奥が熱くなった」
「昨日?」
「うん。時間は……十二時を過ぎた頃だったと思う」
カイルが帝都で暴走したのは、それより前だ。
しかし人工魔力核は、カイルを鎮静させたあとも断続的に出力を上げていた。
「どのくらい続いた?」
「長くはないよ。一分くらい」
「魔力は漏れた?」
「少しだけ。部屋が白く光って、お母さんが起きてきた」
「それをどうして今まで言ってくれなかったんだ」
「神一郎と連絡が取れなかったから」
「騎士団支部に連絡できただろ」
「大したことじゃないと思ったの。それに、すぐ治まったから」
「身体に異常は?」
「ないよ」
「本当に?」
「神一郎に言われたくない」
「今は俺の話じゃない」
「熱くなっただけ。痛くもなかったし、苦しくもなかった」
奈々はそう言ったあと、わずかに目を伏せた。
「でも」
「まだあるのか」
「誰かに呼ばれたような気がした」
神一郎の背中に冷たいものが走る。
「声が聞こえた?」
「声じゃないの。ただ、遠くで誰かが泣いてるみたいな」
「どこから?」
「分からない。胸の奥から聞こえた気もするし、すごく遠くから聞こえた気もする」
「何て言ってた?」
「言葉はわからなかった」
奈々は胸元へ手を当てる。
「でも、助けてって言われた気がした」
カイル。
あるいは、次の実験体。
奈々の白い回路が、人工魔力核へ反応している。
そう考えるのが自然だった。
「今は?」
「何も感じない」
「身体が熱くなったら、すぐ俺に連絡してくれ」
「うん」
「俺に繋がらなかったら、騎士団支部。それから椎菜さんにも」
「分かった」
「絶対だぞ」
「分かってるってば」
「明日、アトランティスで詳しい検査を受けてもらう。奈々の身体に負担がかからない方法でできるか、先に確認する」
「学校は?」
「休めるか?」
「たぶん。お母さんに話してみる」
「事件の詳細は話さなくていい。騎士団の検査ってだけで」
「また隠すの?」
「一般人へ機密情報を話すなって言われてる」
「お母さんは一般人だけど、私の家族だよ」
言われて、神一郎は口を閉じた。
また同じことをしようとしている。
本人を守るために、必要な情報まで隠す。
「……団長に確認する」
「うん」
「話せる範囲は、きちんと話そう」
「ありがとう」
奈々が笑う。
その笑顔を見て、神一郎はようやく肩の力を抜いた。
全部が解決したわけではない。
むしろ、事件へ奈々と優子を加えることになった。
危険は増えたのかもしれない。
それでも、何も知らせずに遠ざけるよりはいい。
三人で話し合い、自分たちで選んだ。
その選択まで、相手に用意されたものだとは思いたくなかった。
神一郎の端末が震える。
表示された名前は、中嶋椎菜。
通信を開く。
『話は終わったか』
「今、終わったところです」
『奈々くんの答えは』
「協力するそうです」
『だろうな』
「分かってたんですか」
『お前にも分かっていただろう』
「それでも、直接聞く必要があったんです」
『分かっているならいい』
短い返事。
だが椎菜の声は、わずかに柔らかかった。
「朝倉さんも事件へ加わると言っています」
『それも予想していた』
「全部分かってたんですか」
『お前よりはな』
隣で聞いていた優子が、声を抑えて笑う。
『奈々くんの魔力に変化は』
「昨日の夜、胸が熱くなって、魔力が漏れたそうです。遠くから誰かに助けを求められたような感覚もあったと」
通信の向こうで、短い沈黙が生まれた。
『時刻は』
「十二時を過ぎた頃です」
『カイル・ウェーバーの人工核が、二度目の出力上昇を起こした時刻と近い』
「やっぱり、人工魔力核へ反応したんですか」
『まだ断定はできない。だが、無関係とは考えにくい』
椎菜の声が低くなる。
『明朝、二人を連れて本部へ来い。奈々くんの検査を行う』
「分かりました」
『お前は今夜、支部で休め』
「家へ戻ります」
『その傷で一人になるつもりか』
「一人でも問題ありません、それに隣の部屋には奈々も居ますし」
『問題があるから言っている』
「二時間ごとに診察を受ける必要があるんでしょ?」
奈々が通信へ割り込む。
『そうだ』
「じゃあ、私も支部に残ります」
「奈々?」
『そうしてくれ』
「椎菜さん」
『お前の“大丈夫”を一晩中監視する者が必要だ』
「怪我人に対する信用がなさすぎませんか」
『信用を失う行動を重ねた結果だ』
「私も残るから、安心してください」
今度は優子が加わる。
『朝倉くんまで残る必要はないが』
「奈々を一人で神一郎君の監視役にしたら、たぶん寝ないので」
「子ども扱いしすぎだろ」
「神一郎君じゃなくて、奈々の話」
「そっち?」
『では、二人にも宿泊区画を用意させる』
「ありがとうございます」
話が勝手に決まっていく。
「待ってください。俺の意見は?」
『怪我人は黙って休め。すまないがこちらで調べることが多い、私人間界行きは厳しそうだ。奈々くん、朝倉くんも神一郎を頼む』
通信が切れた。
「一方的だな……」
「中嶋先輩、忙しいんだよ」
「それにしても、もう少し言い方があるだろ」
「神一郎が言うことを聞かないからじゃない?」
奈々にまで言われる。
否定する気力もなく、神一郎は椅子へ背中を預けた。
腹部がまた少し熱を持っている。
それに気付いた奈々の目が、すぐに細くなった。
「痛い?」
「少しだけ」
「医療室に戻ろう」
「次の診察まで、まだ一時間以上ある」
「今から行くの」
「大丈夫だって」
「神一郎」
名前を呼ばれただけで、逆らえない。
「……分かった」
神一郎は立ち上がった。
奈々もすぐ隣へ来る。
支えようと伸ばされた手を、最初は断ろうとした。
だが、途中でやめた。
「肩、借りてもいいか」
奈々が少し驚いた顔をする。
そのあと、嬉しそうに頷いた。
「うん」
一人で歩ける。
それでも、頼る。
椎菜から言われたばかりのことを、少しだけ実行してみる。
奈々の肩へ腕を回すほどではなく、差し出された手へ軽く体重を預けた。
「重くない?」
「全然」
「無理するなよ」
「それ、今の神一郎が言う?」
「奈々まで言うようになったな……」
優子が二人の後ろを歩きながら笑う。
「いい傾向じゃない?」
「どこが」
「神一郎君を止められる人が増えたところ」
応接室を出る。
窓の向こうでは、夕日が街の向こうへ沈みかけていた。
長い一日が終わろうとしている。
だが、事件はまだ始まったばかりだ。
*
その夜。
人間界支部の宿泊区画に用意された部屋で、奈々は目を覚ました。
時刻は午前一時四十七分。
隣の寝台では、優子が眠っている。
神一郎は別の部屋だ。
医療術師が定期的に状態を確認しているため、今夜は無茶をする心配もない。
そのはずだった。
「熱い……」
胸の奥が、かすかに熱を持っている。
昨日と同じ感覚。
奈々は上半身を起こした。
淡い白い光が、寝間着の胸元から漏れている。
意識して魔力を抑える。
普段なら、それだけで光は消える。
だが今夜は消えなかった。
白い光が脈打つ。
一度。
二度。
奈々の心臓とは違う間隔で。
遠くから、別の何かが応えている。
「誰……?」
奈々は胸元へ手を当てた。
目を閉じる。
暗闇の中に、細い声が聞こえた。
言葉ではない。
痛み。
恐怖。
自分の身体の中へ、知らない何かを入れられる感覚。
冷たい台の上で、手足を動かせずにいる。
誰かが泣いている。
少女。
奈々と同じくらいの年齢。
『いや』
今度は、はっきりと声が聞こえた。
『わたしは、騎士になんかなりたくない』
奈々は目を開けた。
白い光が一気に強くなる。
「優子!」
呼ばれた優子が、寝台から跳ね起きた。
「どうしたの?」
「聞こえた」
「何が?」
「女の子の声」
奈々は胸元を押さえる。
「助けてって」
同じ頃。
アトランティスの帝都北区。
誰にも使われなくなった地下施設で、一人の少女が目を開けた。
両手と両足は、金属製の台へ固定されている。
胸元には、まだ縫合されていない傷。
その奥で、黒い人工魔力核が脈打っていた。
『E-02』
核の表面に刻まれた文字が、赤い光を放つ。
少女――エマ・クラウスの目から涙が流れた。
声を上げる力は残っていない。
目の前に立つ白衣の男が、端末へ視線を落とす。
「白色回路との共鳴反応を確認」
男の口元が、ゆっくりと歪んだ。
「やはり、赤坂奈々は人工核の信号を受け取れる」
エマの身体が大きく跳ねる。
黒い回路が、胸から全身へ伸び始める。
「第二検体を起動しろ」
誰かの指が、端末へ触れた。
人工魔力核が強く脈打つ。
少女の悲鳴は、地下施設の外へ届かない。
ただひとり。
遠く離れた奈々の胸にだけ、その痛みは白い光となって届いていた。
*
翌朝。
奈々は予定どおり学校を休み、アトランティス本部で検査を受けることになった。
神一郎と優子も同行する。
夜中に起きた共鳴反応はすぐ騎士団へ報告された。
奈々が感じ取った少女の声。
人工魔力核と同じ間隔で脈打った白い回路。
それがエマ・クラウスのものだと断定することはできない。
しかし、団長は帝都北区の捜索範囲を広げた。
奈々の反応を利用すれば、人工魔力核の位置を特定できる可能性がある。
一方で、奈々の魔力を相手に探知される危険もあった。
検査は午前中いっぱいかかった。
奈々は何本もの術式に囲まれ、自分の身体を流れる白い回路を調べられた。
痛みはない。
だが、自分の内側にあるものを大勢に見られている感覚は、決して心地の良いものではなかった。
それでも奈々は、一度も検査を止めてほしいとは言わなかった。
カイルを救うため。
エマを見つけるため。
自分で選んだことだから。
検査が終わり、人間界へ戻ったのは午後になってからだった。
明日からは再び学校へ通う。
騎士団の訓練生になっても。
人工魔力核の事件へ関わっても。
奈々は人間界で家族と暮らし、博文館学園へ通う。
普通の日常を捨てるつもりはなかった。
そして、その日の夕方。
博文館学園の校門から少し離れた通りで、一人の少女が奈々たちの帰り道を見つめていた。
肩まで伸びた黒髪。
整った制服。
手には一冊の文庫本。
どこにでもいる、普通の女子高校生に見える。
少女の視線の先を、神一郎と奈々と優子が歩いている。
神一郎はまだ腹部を庇いながら。
奈々はその隣で、何度も歩く速さを確かめながら。
優子は二人をからかうように笑っている。
少女は文庫本を閉じた。
「赤坂奈々」
小さく名前を呼ぶ。
胸元の奥で、黒い魔力がかすかに揺れた。
人工魔力核。
だが、カイルやエマへ埋め込まれたものとは違う。
少女の核は、彼女の命令に従って沈黙している。
人格も。
記憶も。
身体の自由も失われていない。
人造騎士計画最高傑作。
篠宮灯里。
彼女へ与えられた命令は、ひとつだけだった。
『赤坂奈々を観察せよ』
奈々がどのように魔力を使うのか。
白い回路が人工魔力核へどのような影響を与えるのか。
そして、奈々が自分と同じ存在であるかを確かめる。
「やっと会える」
灯里の口元に、穏やかな笑みが浮かぶ。
それは命令によって作られた表情ではなかった。
十年以上も与えられた力と共に生き、その力を自分のものへ変えた少女。
灯里はずっと、奈々を知りたかった。
自分と同じなのか。
それとも。
自分が、なれなかったものなのか。
街の信号が青へ変わる。
灯里は立ち上がり、奈々たちとは反対の方向へ歩き出した。
明日になれば、話すことができる。
普通の女子高校生として。
同じ学校へ通う、篠宮灯里として。
胸の奥で人工魔力核が脈打つ。
その黒い鼓動を、灯里は自分の心臓の音と区別することができなかった。
与えられた力。
与えられた命令。
与えられた名前。
それでも灯里は、そのすべてが自分のものだと信じている。
まだ、奈々の答えを知らないから。
白い魔力を持つ少女と。
黒い心臓を持つ少女。
二人はまだ出会っていない。
だが互いの力は、すでに遠くから相手の存在を感じ始めていた。
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