第二章 第二話 黒い心臓の少女
翌朝。
博文館学園、一年A組。
朝のホームルームが始まる五分前になっても、神一郎は自分の席へ着けずにいた。
「本当に、学校へ来てよかったの?」
奈々が神一郎の前へ立ち、念を押す。
「医療術師から許可は出てる」
「授業を受ける許可でしょ? 無理をしていい許可じゃないよね」
「授業中に無理をすることなんてないだろ」
「神一郎君の場合、何が起きるか分からないから言ってるの」
隣から優子まで加わった。
「階段は禁止。体育も見学。重い物は持たない。痛くなったらすぐ保健室、だっけ?」
「分かってる」
「それから、放課後は寄り道せず支部へ戻る」
「朝倉さんまで、どうして指示する側なんだ」
「中嶋先輩に頼まれたから」
優子が端末の画面を見せる。
そこには昨夜、椎菜から送られてきた短い文が表示されていた。
『私がこっちにいる間は護衛として神一郎を送っとく、ただし神一郎が無茶をしないよう、二人で監視してほしい』
「本人にも同じ連絡が来てる」
神一郎が答えると、奈々は腰へ手を当てた。
「だったら、もう少し自覚して」
「自覚してるから、今日は車で来た」
「それは当たり前、てかなんで車の運転ができるのよ」
「あの車は支部からの支給だし、アトランティスと日本のと協定で騎士には許可が出てるんだよ」
「知らなかった…けど、やぽあ無理はしないで」
「わかった、ただだいぶ治癒も進んで、傷が開く心配はもうないんだよ」
「痛い時に痛いって言って。そうすれば私達も助けられるんだから」
返事に詰まった。
昨日、奈々の手を借りた。
一人で歩ける距離だった。それでも差し出された手へ体重を預けた。
あれで少しは信用を取り戻したつもりだったが、どうやらまだ疑ってるらしい
「今は?」
奈々が神一郎の腹部を見る。
「痛くない」
「本当に?」
「少し違和感があるだけ」
「それを痛いって言うんじゃないの?」
「違和感は違和感だ」
「神一郎君の言葉を信用すると、三段階くらい悪く考えた方がよさそうだね」
「朝倉さんは、昨日から誰の味方なんだ」
「奈々」
「聞いた俺が悪かった」
優子が笑う。
いつもの朝だった。
教室へ入ってくる生徒たち。
机の間を飛び交う挨拶。
開かれた窓から聞こえる運動部の掛け声。
昨日、アトランティス本部で人工魔力核の検査を受けていたことも。
夜中に奈々が、遠く離れた少女の声を聞いたことも。
この教室にいる誰も知らない。
知られてはいけない。
アトランティスという世界も、魔力を持つ騎士たちの存在も、人間界では一部の関係者を除いて秘匿されている。
だから三人は、ここでは普通の高校生として過ごす。
たとえ普通ではない出来事が、すぐ近くまで迫っていたとしても。
予鈴が鳴った。
「席へ戻ろ?」
優子に促され、奈々はようやく神一郎の前から離れた。
その時、担任が教室へ入ってきた。
後ろに一人の女子生徒を連れている。
肩まで伸びた髪。
皺ひとつない制服。
両手で抱えた鞄。
昨日、校門から少し離れた通りにいた少女だと、神一郎たちは知らない。
担任が教卓へ出席簿を置く。
「席に着け。今日は先に紹介がある」
騒がしかった教室が静かになる。
少女は教卓の横へ立った。
正面を向き、薄く笑う。
綺麗な笑顔だった。
だが、笑うタイミングまで事前に教えられたような、不自然な整い方をしている。
「篠宮灯里だ。入学してすぐ療養に入っていたが、今日から復学することになった」
転校生ではない。
名簿には最初から名前があった。
入学式にも、最初の数日も出席していたらしい。
だが、奈々たちに彼女と話した記憶はない。
「篠宮、自己紹介を」
「篠宮灯里です」
少女が頭を下げる。
「長く休んでいたので、学校のことはよく分かりません。迷惑をかけるかもしれませんが、よろしくお願いします」
必要な情報だけを、必要な順番で口にする。
声に緊張はない。
大勢に見られていることを気にする様子もなかった。
教室から拍手が起きる。
その音に重なるように。
奈々の胸の奥で、白い魔力が脈打った。
「……っ」
息が止まる。
熱い。
昨夜と同じ。
遠くにあった何かが、今はすぐ近くにいる。
奈々は胸元を押さえた。
白い光が漏れないよう、意識して魔力を抑える。
「奈々?」
優子が小さな声で呼ぶ。
「大丈夫」
口だけを動かして答えた。
教室の中で詳しいことは話せない。
神一郎も奈々の異変に気付いていた。
視線だけで問いかけてくる。
奈々は机の下で端末を開いた。
『昨日と同じ感じがする』
短く入力し、二人へ送る。
神一郎の表情が変わった。
すぐに少女を見る。
篠宮灯里。
彼女は担任に案内され、空いていた窓際の席へ向かっている。
奈々たちの席から三列離れた場所。
歩き方に乱れはない。
足音も一定。
周囲の生徒へ見られても、視線を揺らさない。
病み上がりの生徒には見えなかった。
『場所は分かる?』
神一郎から届いた。
奈々は灯里を見る。
白い魔力は反応している。
だが、目の前の少女から何かを感じるわけではない。
魔力の気配はない。
普通の人間と変わらない。
それでも灯里が席へ近付くほど、胸の熱は強くなった。
『まだ分からない』
奈々はそう返した。
嘘ではない。
人工魔力核が灯里の中にあると断定できる証拠はない。
ただ、別の答えが奈々の中に生まれ始めていた。
昨夜、助けを求めた少女とは違う。
あの声には痛みと恐怖があった。
目の前の灯里から伝わってくるのは、もっと静かなもの。
何もない部屋で、ずっと誰かを待っているような寂しさだった。
灯里が席へ着く。
鞄を机の横へ掛け、教科書を取り出す。
その動作まで正確だった。
担任が連絡事項を読み始める。
神一郎はまだ灯里を見ている。
胸ポケットには、ボールペン形態のツキカゲがある。
今の傷ではリンクできない。
そもそも、一般生徒がいる教室で剣を出すことなどできるはずもない。
それでも、いつでも手を伸ばせるように指を机の端へ置いていた。
奈々には、それが分かった。
『何もしないで』
送信する。
『まだ何もしてない』
『顔が怖い』
『普通だ』
『いつもより怖いよ』
返事は来なかった。
代わりに優子から届く。
『二人とも授業中』
まだホームルームだったが、奈々は端末を閉じた。
教師の話へ意識を戻そうとする。
しかし胸の奥の白い回路は、かすかな熱を持ち続けていた。
遠くから呼ぶのではなく。
すぐ隣で、奈々が気付くのを待つように。
*
一時間目と二時間目の間の休み時間。
灯里の席の周りには、すぐに女子生徒たちが集まった。
「篠宮さん、ずっと入院してたの?」
「うん」
「どこの病院?」
灯里は一秒だけ答えを止めた。
「遠いところ」
「病気はもう大丈夫?」
「日常生活に問題はないと言われてます」
「敬語じゃなくていいよ。同じクラスなんだから」
「分かった」
「部活は入る?」
「まだ決めていない」
「好きな食べ物は?」
「栄養があるもの」
周りの生徒が顔を見合わせる。
「それ、好きな食べ物じゃなくない?」
「違うの?」
「もっとあるでしょ。甘い物とか、ラーメンとか」
「食べたことはある」
「何が一番好き?」
灯里はまた黙った。
困っている。
けれど、何に困っているのか自分でも分からないようだった。
「一番を決めなきゃ駄目?」
「駄目じゃないけど」
「なら、まだ分からない」
正直な答えだった。
誰かが小さく笑う。
馬鹿にしたわけではない。
少し変わった復学生を、面白く感じただけ。
だが灯里は笑われた理由が分からず、周囲の顔を順番に見た。
奈々は立ち上がった。
「篠宮さん」
呼ばれた灯里が、すぐに奈々を見る。
初めて名前を呼ばれたはずなのに、待っていたような反応だった。
「赤坂奈々」
教室の空気が一瞬だけ止まる。
奈々も足を止めた。
「どうして私の名前を?」
「同じクラスだから」
灯里が教卓の横に貼られた座席表を指す。
「名前は全部覚えた」
「全部?」
「話す時に必要だと思った」
「一晩で覚えたの?」
「難しくなかったよ?」
周囲から感心した声が上がる。
説明としては不自然ではない。
それでも神一郎は、灯里から目を離さなかった。
「何か用?」
灯里が奈々へ尋ねる。
「用っていうか。学校のことで分からないことがあったら、聞いてね」
「赤坂奈々に?」
「うん。私もまだ詳しいわけじゃないけど」
「赤坂さん、入学してからずっといるでしょ」
近くの女子生徒が笑う。
「だって、校舎広いし。私も最初は迷ったから」
「奈々は今もたまに迷ってるよ」
優子が言った。
「もう迷わないよ」
「先週、移動教室の場所を間違えなかった?」
「あれは教室が変更されてたから」
「変更された場所と反対へ歩いてたよね」
「優子」
「何?」
「今は私の話じゃないよ」
「でも、案内役として信用できるかは大事でしょ?」
「だったら優子も一緒に案内して」
「いいよ」
二人のやり取りを、灯里がじっと見ている。
先ほどまでの整った笑顔ではない。
どう反応すればいいのか分からないまま、それでも目の前の会話から何かを学ぼうとしている顔だった。
「朝倉優子」
灯里が言う。
「うん。よろしくね、篠宮さん」
「灯里でいい」
「じゃあ、私も優子でいいよ」
「優子」
確かめるように名前を口にする。
「奈々も、奈々でいい?」
灯里が尋ねる。
「もちろん」
「奈々」
その二文字を口にした瞬間、灯里の表情がわずかに緩んだ。
作られた笑顔ではなかった。
奈々の胸の熱も、ほんの少しだけ和らぐ。
「藤崎神一郎」
次に名前を呼ばれ、神一郎が眉を寄せた。
「俺は名字でいい」
「どうして?」
「会ったばかりだから」
「奈々と優子も、会ったばかり」
「二人がいいなら、それでいいだろ」
「神一郎って呼んじゃ駄目?」
灯里は純粋に理由を尋ねている。
そこへ悪意も、からかう意図もない。
奈々が神一郎を見た。
優子も見る。
周囲の女子生徒まで、返事を待っている。
「……好きにしてくれ」
「分かった。神一郎」
「急に呼ばれると変な感じだな」
「駄目?」
「駄目とは言ってない」
灯里は小さく頷いた。
「奈々。優子。神一郎」
三人の名前を続けて呼ぶ。
まるで、手に入れたばかりの物を一つずつ確かめるように。
「覚えた」
「座席表で、もう覚えてたんじゃないの?」
奈々が尋ねる。
「さっきとは違う」
「何が?」
「名前を知っているのと、呼んでいいのは違う」
奈々は少し驚いたあと、笑った。
「うん。そうかもしれないね」
予鈴が鳴る。
灯里を囲んでいた生徒たちが、それぞれの席へ戻っていく。
「昼休み」
灯里が奈々を見上げる。
「一緒に食事をしてもいい?」
「いいよ」
「友達は、一緒に昼食を食べると本に書いてあった」
「友達?」
「違うの?」
奈々は答えに迷った。
会ってまだ十分も経っていない。
けれど、灯里は試すように聞いているのではない。
本当に分からないから、尋ねている。
「これから友達になるために、一緒に食べるのはどう?」
「これから?」
「うん」
灯里はその言葉を考える。
「分かった。これから友達になる」
「そんなに決定みたいに言うんだ」
優子が苦笑する。
「決めないと、なれないのでは?」
「普通は、いつの間にかなってることが多いかな」
「いつ?」
「それは……いつだろう」
「分からないの?」
「友達になった日を覚えてる人の方が少ないと思うよ」
「不正確」
「そうだね」
「でも、嫌いじゃないかも」
灯里がもう一度、三人を見る。
「昼休みに、続きを教えて」
教師が入ってくる。
灯里は前を向き、教科書を開いた。
奈々も席へ戻る。
その途中、神一郎の机の横で足を止めた。
「普通に話してみて」
声を落として伝える。
「普通に話してる」
「尋問みたいな顔をしないでってこと」
「警戒は必要だ」
「分かってる。でも、ここは学校だよ」
神一郎は答えず、灯里を見た。
彼女は黒板へ視線を向けている。
教科書の持ち方も。
姿勢も。
教師の話を聞く顔も。
どこから見ても普通の女子高校生だった。
だからこそ、神一郎は警戒を解けなかった。
*
昼休み。
奈々たちは中庭の端にあるベンチへ移動した。
教室では灯里へ話しかけたい生徒が多すぎて、落ち着いて食事ができそうになかったからだ。
七月の日差しは強い。
四人は木陰へ入り、奈々と灯里がベンチへ座る。
優子はその隣。
神一郎は立ったままでいようとしたが、三人に見られ、向かいのベンチへ腰を下ろした。
「何で全員で見るんだ」
「立ち続けるの禁止」
奈々が答える。
「今、痛くない」
「痛くなる前に座るの」
「神一郎は怪我しているの?」
灯里が尋ねた。
神一郎の手が止まる。
「少しな」
「腹部?」
「どうして分かった」
「歩く時、右足を出す幅が少し短い。座る時も、腹部へ力がかからないようにしている」
灯里は平然と答えた。
「入院中、そういう人を多く見た」
「どんな病院だったんだ」
「神一郎」
奈々が止める。
「聞いただけだ」
「聞き方が怖いよ」
「普通に聞いたつもりなんだけどな」
「その顔で?」
「顔は関係ないだろ」
灯里は二人を交互に見た。
「神一郎は、奈々の言うことばかり聞く?」
「内容による」
「聞かないことの方が多いよ」
奈々が答える。
「でも、奈々は神一郎を心配している」
「うん」
「心配されると、言うことを聞かなければならないの?」
「絶対じゃないけど、少しは聞いてほしいかな」
「心配することは、命令と違う?」
奈々と優子の表情が止まった。
神一郎は灯里を見る。
何気ない疑問に聞こえる。
だが彼女は、二つの違いを本当に知らない。
「違うよ」
優子が答えた。
「命令は、することを決められる。心配は……相手に、そうしてほしいって願うことかな」
「従わなくてもいい?」
「いい。でも、相手がどうしてそう言ったのかは考えた方がいいと思う」
「優子は、命令されたことがある?」
優子の目がわずかに細くなる。
「誰にでもあるでしょ。先生とか、親とか」
周囲には他の生徒もいる。
ここで中国軍やFOXの話はできない。
「嫌な命令でも従った?」
「昔はね」
「今は?」
「自分で考える」
優子は笑った。
「言われたとおりにする時もあるし、しない時もある。間違ってると思ったら、理由を聞く」
「理由を聞くことが許されなかったら?」
「それでも聞くよ」
「罰を受けても?」
「たぶん」
優子の声は穏やかだった。
だが、その答えが軽いものではないと奈々と神一郎は知っている。
命令に疑問を持つことさえ許されなかった少女が、自分で選ぶと決めるまでに、どれほどのものを失ったのか。
灯里は優子を見つめる。
「強い」
「そんなことないよ」
「罰が怖くない?」
「怖い」
「なら、どうして?」
「怖いことと、従うことは別だから」
灯里が黙る。
奈々は弁当箱を開いた。
「話は食べながらにしよう。昼休み、終わっちゃうよ」
母が作った弁当。
卵焼き。
唐揚げ。
彩りを考えて入れられた野菜。
灯里は自分の鞄から、小さな容器を取り出した。
中に入っているのは、同じ大きさに切り分けられた栄養補助食品だけだった。
「それ、お昼?」
「必要な栄養は取れるから」
「それだけ?」
「水もある」
「そういう意味じゃなくて」
奈々が灯里の容器を見る。
味気のない色。
食事を楽しむためではなく、身体を維持するためだけに用意されたもの。
「入院してた時から、ずっとこれ?」
「似たもの」
「飽きない?」
「食事は必要な物を身体へ入れる作業だから」
「違うよ」
奈々が即答した。
「違う?」
「それだけじゃないよ。美味しいとか、誰かと食べると楽しいとか。作ってくれた人のことを考えたりもする」
「食事に、そこまで必要?」
「必要っていうか……」
奈々は自分の弁当から卵焼きを一つ取り、灯里の容器へ入れた。
「食べてみて」
灯里は卵焼きを見る。
「これは、奈々に必要な栄養では?」
「一個くらい大丈夫」
「交換?」
「あげる」
「理由は?」
「灯里に食べてほしいから」
「私が食べても、奈々には何も返らないよ?」
「感想を聞かせて」
「それが対価?」
「対価じゃないよ」
「なら、どうして」
「友達になりたいから」
灯里の指が止まった。
「友達になると、食べ物を与える?」
「毎回じゃないけど」
「本には書いていなかった」
「本に書いてないこともあるよ」
灯里は箸で卵焼きを持ち上げた。
一口で食べる。
ゆっくり噛む。
表情は変わらない。
「どう?」
「甘い」
「うん」
「柔らかい」
「うん」
「温度は、私の食事と変わらない」
「他には?」
灯里はもう一度、口の中に残った味を確かめた。
「分からない」
「美味しくない?」
「美味しい、がどの感覚か分からない」
「また食べたいと思う?」
「思う」
「じゃあ、美味しいんだよ」
奈々が笑った。
灯里は少し考えたあと、同じように笑おうとした。
最初は教室で見せた整った笑顔。
けれど途中で形が崩れる。
目元がわずかに下がり、唇が不器用に緩んだ。
「美味しい」
今度の言葉には、灯里自身の感情があった。
「よかった」
「もう一つ、食べてもいい?」
「いいよ」
奈々が二つ目を渡そうとすると、神一郎が止めた。
「待て」
灯里の視線が神一郎へ向く。
「何?」
「長く療養していたなら、食事制限はないのか」
「ない」
「本当に?」
「許可された物以外を食べた経験は少ない。でも、通常の食物で問題は起きない」
「許可は誰が出してたんだ」
「治療をしていた人」
「家族は?」
「いない」
灯里は何の感情も見せずに答えた。
奈々の箸が止まる。
「ごめん」
「どうして謝るの?」
「聞かれたくないことだったかなって」
「事実だから、問題ない」
「今は一人で暮らしてるの?」
「生活を管理する人がいる」
「親戚?」
「違う」
「病院の人?」
「……近い」
初めて、灯里の答えに明確な間があった。
作った。
神一郎にはそう見えた。
「病院の名前は?」
「神一郎」
奈々がもう一度止める。
「篠宮さんは長く休んでいた。学校としても、連絡先を確認しているはずだ」
「だったら、ここで聞かなくてもいいでしょ」
「本人へ尋ねる方が早い」
「お昼を食べてる時にする話じゃないよ」
灯里は神一郎を見る。
「私を疑っている?」
あまりにも真っ直ぐな問いだった。
周囲の生徒に聞かれれば、病み上がりの同級生を責めているようにしか見えない。
神一郎は言葉を選んだ。
「まだ会ったばかりだから、分からないだけだ」
「分からないものは、危険?」
「危険かもしれない」
「神一郎は、私が奈々へ近付くと困る?」
「奈々が困るなら」
「私は困ってないよ」
奈々が答えた。
「でも」
「神一郎が心配してることも分かってる。だから、何かあったらちゃんと話す」
昨夜、自分たちで決めたこと。
隠さない。
相手を守るという理由で、勝手に除け者にしない。
神一郎は息を吐いた。
「分かった」
「それ、納得してない顔」
「今はこれ以上聞かない」
「それならいいよ」
灯里は二人を見比べた。
「奈々は、神一郎に守られている?」
「守ってもらってるよ」
「神一郎の命令に従う?」
「命令されたことはないかな」
「あるだろ」
神一郎が反論する。
「危険な時は下がってろって、何度も言った」
「それは命令だったの?」
「指示だ」
「従わなかったけど」
「知ってる」
「だったら命令じゃないね」
「そういう問題か?」
優子が笑いを堪えている。
灯里はまだ分からない顔をしていた。
「奈々は、神一郎に逆らっても捨てられない?」
今度は誰もすぐに答えられなかった。
捨てられる。
その言葉が、友人同士の会話にはあまりに不自然だった。
「捨てないよ」
神一郎が答えた。
灯里が見る。
「どうして?」
「意見が違うことと、奈々が大事なことは別だからだ」
「奈々が、神一郎の敵になっても?」
「ならない」
「もし」
「ならない」
強く言い切った。
奈々は困ったように神一郎を見る。
それでも否定はしなかった。
灯里が俯く。
「意見が違っても、必要なくならない」
「人は、必要だから一緒にいるわけじゃないよ」
奈々が言った。
「必要がなくても?」
「うん」
「何もできなくても?」
「何かができるから、友達になるわけじゃないでしょ?」
「では、何のために友達になるの?」
「何のため……」
奈々は考える。
「一緒にいたいから、かな」
「それだけ?」
「それだけでも、いいと思う」
灯里は手元の卵焼きを見た。
奈々から与えられた物。
命令でも。
取引でも。
身体を維持するために決められた食事でもない。
ただ、灯里に食べてほしいという理由で渡された物。
灯里は二つ目の卵焼きを口へ運んだ。
「やっぱり、美味しい」
その声は、先ほどより少しだけ柔らかかった。
*
五時間目の授業中。
神一郎の端末へ、椎菜から短い連絡が届いた。
『篠宮灯里の身元を確認中。現時点では接触するな』
教師の目を避け、画面を閉じる。
神一郎は昼休みの間に、灯里の名前と復学の経緯を支部へ送っていた。
奈々の魔力が反応したことも。
灯里が家族はいないと話したことも。
長期療養先について、明確な回答を避けたことも。
人工魔力核を持っていると断定はできない。
だが、偶然と考えるには出来すぎている。
昨夜、奈々は新たな実験体の声を聞いた。
その翌朝。
長期療養していたという少女が、同じクラスへ戻ってきた。
しかも奈々の白い回路は、彼女が現れた瞬間に反応した。
接触するな。
椎菜の指示は正しい。
しかし、もう遅い。
灯里の方から奈々へ近付いている。
隣の列を見る。
灯里は黒板の文字を、一字も漏らさないようにノートへ写していた。
教師が話した内容まで、ほとんどそのまま記録している。
要点を選んでいるのではない。
何が重要なのか分からないから、すべてを残しているように見えた。
普通の学校生活を知らない。
昼食を楽しむことも。
友達がいつ友達になるのかも。
誰かに心配されることと、命令されることの違いも。
演技だと考えれば、よく作られている。
だが、奈々の卵焼きを食べた時の笑顔まで演技だったのか。
神一郎には分からない。
分からないからこそ、警戒する。
それが神一郎の役目だ。
授業終了の鐘が鳴る。
教師が教室を出ると同時に、奈々が席を立った。
「灯里」
名前で呼ばれ、灯里がすぐに振り返る。
「何?」
「次、体育だけど。見学する?」
「参加できる」
「病み上がりなのに?」
「日常生活に問題はない」
「体育は日常生活より激しいと思うよ」
「運動能力にも問題はない」
「先生には話してあるの?」
「医師の許可証は提出してある」
用意がいい。
神一郎は椎菜の連絡を思い出す。
身元を確認中。
学校側へ提出された書類も、当然調査するはずだ。
「神一郎は見学?」
灯里が尋ねる。
「ああ」
「なら、私も見学する」
「どうして?」
「一人では退屈だと、本に書いてあった」
「俺は退屈でも構わない」
「私は、神一郎と話してみたい」
「俺と?」
「奈々を守っている理由を知りたい」
神一郎の目が細くなる。
「どうして、それを知りたい」
「奈々を知るため」
「奈々に何の用があるんだ?」
「友達になりたい」
「それだけか?」
「今は」
今は。
その言葉を聞き逃さなかった。
「あとで別の用ができる?」
「分からない」
「分からないで済むと思うか」
「神一郎」
奈々が間へ入る。
「教室で怖い顔しないでって言ったよね」
「今のを聞いただろ」
「聞いたよ。でも、灯里は自分でも分からないことを、分からないって言っただけかもしれない」
「奈々は信用しすぎだ」
「神一郎は疑いすぎ」
「何かあってからでは遅い」
「何もないうちから傷付けてもいいの?」
二人の間で視線がぶつかる。
周囲の生徒が何事かと見始めていることに、優子が気付いた。
「二人とも、そこまで」
声を落として止める。
「ここで続けたら、別の意味で目立つよ」
奈々が周囲を見る。
神一郎も口を閉じた。
「ごめん」
奈々が灯里へ謝る。
「どうして奈々が謝るの?」
「神一郎が変な聞き方をしたから」
「おい」
「でも、灯里も言いたくないことは、無理に話さなくていいからね」
「言いたくないこと」
「誰にでもあるでしょ?」
「奈々にも?」
「あるよ」
「神一郎にも話していない?」
「全部を話してるわけじゃないよ」
灯里は驚いたように目を開く。
「それでも友達?」
「友達だから、全部話さなきゃいけないわけじゃないから」
「隠してもいい?」
「話したくないことを、無理に話さなくていいってこと。でも、相手を傷付けるための嘘は嫌だな」
「違いは?」
「難しいね」
「また分からない?」
「分からないことも一緒に考えればいいよ」
奈々が笑う。
灯里はその笑顔を見る。
「一緒に?」
「うん」
「では、放課後に学校を案内して」
「いいよ」
「二人で?」
「優子も一緒」
「神一郎は?」
「俺も行く」
「怪我人は支部へ直行」
奈々が即答した。
「椎菜さんから、篠宮さんには接触するなと言われてる」
神一郎が小声で言う。
「今朝から同じ教室にいるのに、もう無理でしょ?」
「だからこそ、二人だけにはできない」
「私もいるよ」
優子が言った。
「朝倉さんだけに任せられない」
「どういう意味?」
「もし何かあったら」
「私が奈々を守れないと思ってる?」
「そうは言ってない」
「言ってるのと同じだよ」
今度は神一郎と優子の間に別の空気が生まれる。
奈々が額へ手を当てた。
「分かった。神一郎も一緒。ただし、階段は使わない。疲れたらすぐ座る。痛くなったら案内は終わり」
「分かった」
「本当に?」
「約束する」
灯里が首を傾げる。
「約束は、命令より強い?」
「違う種類のものだよ」
優子が答えた。
「破ったら?」
「信用をなくす」
奈々が神一郎を見る。
「神一郎は、今かなり危ないところにいるからね」
「何の信用だよ」
「自分の怪我についての信用」
「それはもう、ほとんどないんじゃない?」
優子が言う。
「朝倉さん」
「私じゃなくて、今までの神一郎君に言って」
授業開始の予鈴が鳴る。
四人は移動を始めた。
その背中を、灯里は少し遅れて追う。
奈々と神一郎は、意見が違っても一緒にいる。
優子は奈々を守ろうとしながら、自分の考えも変えない。
約束を破れば信用を失う。
それでも、一度の失敗で必要なくなるわけではない。
灯里が教えられてきた規則とは、何もかもが違っていた。
*
放課後。
四人は一年生の教室が並ぶ棟から、特別教室棟へ向かった。
奈々が先頭を歩き、灯里が隣へ並ぶ。
少し後ろを優子。
さらにその後ろを神一郎が歩いていた。
「どうして一番後ろなの?」
奈々が振り返る。
「全員を見られるから」
「怪我が痛くて遅れてるんじゃないよね?」
「違う」
「本当に?」
「約束しただろ」
「だから確認してるの」
灯里も神一郎の足元を見る。
「朝より右足の歩幅が狭い」
「篠宮さん」
「灯里でいい」
「じゃあ灯里。余計なことを奈々へ教えなくていい」
「事実だよ」
「神一郎」
奈々の声が低くなる。
「痛いわけじゃない」
「案内、終わりにする?」
「必要ない。しばらく歩いてなかったから疲れただけ」
すぐ近くの休憩スペースへ移動する。
神一郎が長椅子へ腰を下ろすと、奈々はその前へ立った。
「痛みは?」
「軽い」
「いつから?」
「少し前」
「どうして言わなかったの?」
「今、言おうとしてた」
「嘘」
「本当だ」
「私が聞かなかったら、そのまま歩いてたでしょ」
「……たぶん」
「約束したよね?」
「悪かった」
神一郎が素直に謝る。
奈々はまだ何か言いたそうだったが、それ以上は責めなかった。
「五分休憩」
「分かった」
「十分」
「増えてる」
「神一郎が隠したから」
「なら最初から十分って言ってくれ」
「そういう問題じゃないよ」
優子が苦笑しながら、近くの自動販売機へ向かう。
「飲み物、買ってくるね。灯里は何がいい?」
「水」
「ジュースは?」
「必要ない」
「必要じゃなくて、飲みたい物」
灯里は自動販売機に並んだ写真を見る。
炭酸飲料。
果汁飲料。
ミルクティー。
どれも飲んだことがないわけではない。
けれど、飲みたい物を選ぶよう求められたことはなかった。
「分からない」
「じゃあ、私と同じミルクティーにする?」
「優子は、それが好き?」
「うん」
「なら、同じ物にする」
「はい」
優子が二本買い、一本を灯里へ渡す。
灯里は表示された金額を確認し、鞄へ手を伸ばした。
「今日はいいよ」
「対価が必要」
「お昼に奈々から卵焼きをもらったでしょ? 今度は私の番」
「友達は、順番に食べ物や飲み物を渡す?」
「そういうこともある」
「返さなくてもいい?」
「今度、灯里が私に何か飲んでほしいと思った時に買って」
「今度」
「明日でも、一週間後でも」
灯里はミルクティーを受け取った。
冷たい容器を両手で包む。
「今度があると、どうして分かるの?」
「明日も学校に来るんでしょ?」
「その予定」
「だったら、また会えるよ」
優子にとっては当たり前の答え。
灯里にとっては、当たり前ではない。
任務に次があることは知っている。
検査に次があることも。
だが、ただ会うための明日を誰かと約束したことはなかった。
「明日も会える」
灯里が呟く。
「うん」
容器を開け、一口飲む。
甘い。
卵焼きとは違う甘さ。
「美味しい?」
「たぶん」
「たぶん?」
「もう一度飲みたい」
「じゃあ、美味しいんだよ」
昼休みに奈々から教えられた答え。
灯里は小さく笑った。
「美味しい」
十分後。
神一郎の痛みが治まったことを確認してから、四人は案内を再開した。
職員室。
保健室。
購買。
体育館へ続く渡り廊下。
特別なものは何もない。
灯里はそのすべてを、珍しそうに見た。
「病院にはなかった?」
奈々が尋ねる。
「似た廊下はあった。でも、人が違う」
「どんな人がいたの?」
「治療をする人。検査をする人。警備をする人」
「同じくらいの子は?」
「いた」
「友達にならなかったの?」
「話すことを許可されていなかった」
奈々の足が止まる。
「どうして?」
「治療の妨げになるから」
「話すだけで?」
「感情が出力へ影響すると言われた」
出力。
学校生活の中では不自然な言葉だった。
神一郎と優子が反応する。
灯里も、自分が口にした言葉に気付いた。
「医療機器の出力」
すぐに言い直す。
「私の状態に合わせて使う機械があった」
「どんな機械?」
神一郎が尋ねる。
「名前は知らない」
「見た目は?」
「話したくない」
灯里が答えた。
奈々から教えられたばかりの言葉。
神一郎は追及しなかった。
「分かった」
灯里が少し驚く。
「聞かないの?」
「話したくないんだろ」
「でも、神一郎は私を疑っている」
「疑ってる」
「なら、聞くべきでは?」
「無理に聞いて、本当のことが返ってくるとは限らない」
「嘘をつくと思っている?」
「もう、いくつかついてるかもしれない」
灯里の指が、ミルクティーの容器を強く握った。
「怒っている?」
「まだ何が本当か分からない」
「本当ではないと分かったら?」
「理由を聞く」
「理由に納得できなければ?」
「その時に考える」
「すぐに捨てない?」
「その言い方、やめた方がいい」
神一郎の声が少しだけ柔らかくなる。
「人は、物みたいに簡単に捨てるものじゃない」
「組織では、役に立たない物は処分される」
灯里は言ってから、口を閉じた。
組織。
それもまた、病院で療養していた少女が使うには硬すぎる言葉だった。
神一郎の目が鋭くなる。
優子は周囲を見る。
渡り廊下には、部活動へ向かう生徒たちがいる。
「続きは、静かな場所で話そう」
優子が提案した。
灯里が身構える。
「私をどこへ連れていくの?」
「図書室」
奈々が答える。
「まだ案内してなかったでしょ?」
「図書室」
灯里の表情が変わった。
「本がある?」
「たくさんあるよ」
「行きたい」
先ほどまでの緊張が消える。
灯里は奈々の隣へ並び、歩き始めた。
神一郎は優子と視線を交わす。
今の言葉を聞き間違えたとは思えない。
組織。
役に立たない物の処分。
灯里は自分のことを話している。
だが、ここで問い詰めることはできない。
相手が人工魔力核を持つなら、一般生徒を巻き込む危険がある。
何より、灯里自身が戦う意思を見せていない。
図書室へ入ると、灯里は真っ直ぐ本棚へ向かった。
放課後の室内に利用者は少ない。
司書教諭は奥の整理室にいる。
それでも機密を話せる場所ではない。
四人は声を抑えた。
「本、好きなの?」
奈々が尋ねる。
「うん」
今度の返事には迷いがなかった。
「住んでいた場所には、本しかなかったから」
「どんな本を読むの?」
「物語」
灯里が棚を見上げる。
「普通の人が学校へ通う話が好き」
「どうして?」
「知らないことが書いてあるから」
「学校の話なら、勉強の本にもあるよ」
「そうではなくて」
灯里が一冊の文庫本を抜く。
制服姿の少女たちが描かれた表紙。
同じ学校へ通い、同じ部活で過ごす少女たちの日常を描いた小説だった。
「友達と昼食を食べる。帰りに飲み物を買う。次の日も会う」
今日、灯里が経験したことばかりだった。
「本当だった」
「何が?」
「本に書いてあること」
灯里は表紙を指でなぞる。
「名前を呼ぶと、前より近くなる。食べ物をもらうと、また話したくなる。次の日も会えると言われると、嬉しい」
奈々は何も言わず、灯里の隣へ立った。
「今まで、なかったの?」
「必要ないと言われていたから」
「友達が?」
「うん」
「どうして?」
「やるべきことの邪魔になるから」
「ならないよ」
「頼った相手がいなくなれば、弱くなる」
「それでも、一人よりできることが増えるかもしれないよ」
「裏切られるかもしれない」
「そういうことも、あるかもしれない」
「なら、一人の方が安全」
「でも、寂しいよ」
灯里が奈々を見る。
「寂しいと、何が困るの?」
「何がって……」
「身体は動く。食事もできる。決められたことも実行できる」
「それだけで、生きてるって言えるのかな」
「死んではいない」
「そうじゃなくて」
奈々は胸元へ手を当てた。
白い魔力。
沙耶から与えられ、十年以上を共に過ごした力。
命が動いていることと、生きたいと思えることは同じではない。
「嬉しいこととか。誰かに会いたいとか。明日も同じことをしたいとか。そういうものがなくても平気?」
「必要ない」
「本当に?」
灯里は答えようとした。
だが、手の中には優子からもらったミルクティーがある。
明日、何かを返してほしいと言われた。
奈々は卵焼きを多めに持ってくると言った。
もう一度味わいたいと思った。
明日も会えることを、嬉しいと感じた。
「……分からない」
「なら、これから考えよう」
「奈々と?」
「優子も、神一郎も。灯里が一緒に考えたいなら」
「私は、奈々へ嘘をついているかもしれない」
灯里が言った。
優子の表情が変わる。
神一郎は胸ポケットへ手を近付けた。
「何の嘘だ」
「神一郎」
奈々が止める。
「でも」
「灯里が自分で話す」
奈々は灯里を見る。
「話したい?」
灯里の唇が動く。
言えば、任務に失敗する。
組織へ背くことになる。
赤坂奈々を観察せよ。
白色回路の情報を取得せよ。
感情的な結び付きを利用せよ。
命令は、灯里の中に刻まれている。
「今は、話せない」
「分かった」
「どうして?」
「話したくないことは、無理に話さなくていいって言ったでしょ?」
「でも、奈々を傷付ける嘘かもしれない」
「それは嫌だよ」
奈々は正直に答えた。
「だったら」
「だから、いつか話して」
「話したら、嫌われるかもしれない」
「それも、聞いてみないと分からない」
「怖くないの?」
「怖いよ」
「私が奈々へ近付いたのには、別の理由があるかもしれない」
「うん」
「友達になりたいと言ったことも、誰かに決められていたかもしれない」
「最初は、そうだったかもしれないね」
灯里の瞳が揺れる。
奈々は続けた。
「でも、卵焼きをもう一つ食べたいって言ったのも、命令だった?」
「違う」
「ミルクティーを美味しいって言ったのは?」
「違う」
「図書室へ行きたいって思ったのは?」
「私」
「明日も学校へ来たい?」
答えが止まる。
組織からは接触を継続するよう命令されている。
学校へ来ることも任務の一部。
だが、それだけではない。
「来たい」
灯里は言った。
「奈々と、また昼食を食べたい」
「それは、灯里が決めたこと?」
「うん」
「だったら、今日の全部が嘘になるわけじゃないよ」
奈々が手を差し出す。
「私たちは、まだ会ったばかり。だから、灯里のことを全部信じるなんて言えない」
「信じない?」
「信じたいと思ってるよ」
「同じではない?」
「違うよ。でも、これから信じられるようになるかもしれない」
「これから」
「友達も、いつの間にかなってることが多いって優子が言ったでしょ?」
「うん」
「だから、急いで全部を決めなくていいよ」
灯里は奈々の手を見る。
命令ではない。
従わなくても罰はない。
握らなくても、処分されない。
それでも灯里は、自分から手を伸ばした。
指先が触れる。
その瞬間。
奈々の白い回路が大きく脈打った。
「――っ」
胸の奥から、熱が全身へ広がる。
灯里の身体も震えた。
黒い人工魔力核が、灯里の意思を離れて出力を上げる。
一度。
二度。
白い回路と同じ間隔で。
窓ガラスが細かく震えた。
本棚の奥で、数冊の本が揺れる。
神一郎が立ち上がった。
「奈々、離れろ」
「待って」
「今の反応は」
「ここでは駄目」
奈々が声を抑える。
司書が図書整理室にいる。
廊下を他の生徒が通る音も聞こえる。
アトランティスも。
魔力も。
人工魔力核も。
ここで口にすべきではない。
優子が図書室の入口へ移動し、人が来ないか確認する。
神一郎は胸ポケットのツキカゲへ触れたまま、灯里を見た。
「奈々から手を離してくれ」
灯里は動けない。
「私が、しているのではない」
「なら、何がしてる」
「分からない」
「本当に?」
「止まらない」
灯里の声が初めて震えた。
黒い核は、これまで灯里の命令へ従っていた。
痛みを押し込み。
出力を隠し。
普通の人間と変わらない状態を作る。
十年以上をかけて手に入れた制御。
それが奈々へ触れただけで崩れている。
「怖い」
灯里が呟いた。
「私の中にあるのに、私の言うことを聞かない」
奈々は手を離さなかった。
「灯里、私を見て」
「離れろ」
「神一郎、大丈夫」
「何を根拠に」
「灯里が怖がってるから」
「それと安全かどうかは別だ」
「でも、今無理に離したら、もっと危なくなる」
奈々は灯里の手を握る。
治癒術を使うわけではない。
白い魔力を流し込むこともしない。
ただ、自分の心臓の速さへ呼吸を合わせる。
「ゆっくり息をして」
「できない」
「できるよ。私と同じに」
大きく息を吸う。
吐く。
もう一度。
灯里の呼吸が、少しずつ奈々へ重なる。
白い回路の脈動が弱まる。
それに合わせるように、黒い人工魔力核も出力を落としていく。
窓ガラスの震えが止まった。
本棚も静かになる。
図書室には、放課後の空調音だけが残った。
「治まった?」
奈々が尋ねる。
灯里は胸元へ手を当てる。
「うん」
「苦しくない?」
「大丈夫」
「本当に?」
「今は」
奈々はそこで初めて手を離した。
神一郎がすぐに間へ入る。
「支部へ連絡する」
「待って」
灯里が神一郎の袖を掴む。
「それは、どこ?」
知らないふりをしている。
だが、神一郎は答えなかった。
「学校の外で話す」
「私は、行かなければならない?」
「強制はできない」
「でも、来なければ疑う?」
「当たり前だ」
灯里の指が離れる。
逃げることはできる。
教室に鞄を残したままでも、灯里の身体能力なら誰にも捕まらず校外へ出られる。
神一郎は負傷中。
奈々と優子も、一般生徒のいる学校では力を使えない。
それでも、灯里は動かなかった。
「今日は帰る」
灯里が言う。
「連絡しなければならない人がいる」
「誰に?」
「今は話せない」
「明日も来る?」
奈々が尋ねる。
灯里は奈々を見る。
「来てもいい?」
「うん」
「私が、何かを隠していても?」
「今日みたいなことが起きたら、すぐ教えて。それは約束して」
「約束」
「破ったら、信用をなくすんだよ」
優子が言う。
「でも、一度で全部なくなるわけじゃない」
「全部ではない?」
「なくした分は、また作ればいいから」
灯里は三人を見る。
神一郎だけは、まだ警戒を解いていない。
当然だった。
それでも彼は、灯里を捕まえようとはしなかった。
奈々の言葉を信じたから。
自分の判断だけで決めないと約束したから。
「分かった」
灯里が頷く。
「明日も来る」
組織から与えられた命令ではなく。
篠宮灯里が自分で選んだ言葉だった。
*
灯里と別れたあと。
神一郎たちは、人間界支部へ向かう車の中にいた。
一般車両に偽装された支部の車。
運転席と後部座席の間には遮音術式が展開され、前を走る車や歩道の人間から内部の会話を聞かれることはない。
それでも三人は、固有名詞を避けながら話していた。
「どうして行かせた」
神一郎が奈々へ尋ねる。
「あの場で止めたら、灯里は逃げてたと思う」
「逃げたとしても、追跡できた」
「学校で?」
「支部へ連絡すれば」
「その間に、他の生徒を巻き込んだかもしれないよ」
「篠宮さんに攻撃する意思はなかった」
優子が言う。
「少なくとも、あの時は」
「だからって安全とは限らない」
「分かってるよ」
奈々が答える。
「でも、灯里は自分の中にある力を怖がってた」
「人工魔力核だと思うか」
「たぶん」
「朝から気付いてた?」
「教室に入ってきた時、昨日と同じ反応があった」
「どうしてすぐ言わなかった」
「連絡したよ。近くにあるって」
「場所は分からないと答えただろ」
「あの時は、本当に断定できなかった」
「昼休みには?」
奈々は答えられなかった。
灯里の中にある。
昼休みには、ほとんどそう思っていた。
それでも神一郎たちへ言えば、灯里が一人の少女ではなく、危険な物として扱われる気がした。
「隠したのか」
神一郎の声が硬くなる。
「責めないで」
優子が間へ入った。
「奈々なりに考えたんだよ」
「危険、いや、敵を隠していい理由にはならない」
「灯里は敵じゃない」
「どうして言い切れる?」
「今日の灯里を見たから」
「それも、相手が用意した態度、操られていたかもしれない」
「そうかもしれないよ」
「なら」
「それでも」
奈々は神一郎を見る。
「卵焼きを美味しいって言った時の灯里は、嘘じゃなかった」
「それだけで信じるのか」
「全部は信じてない」
「同じだろ」
「違うよ。私は、信じたいと思ってるだけ」
図書室で灯里へ伝えた言葉。
奈々自身にも言い聞かせる。
「灯里のことは報告する。調べる必要があることも分かってる。でも、最初から敵だって決めないでほしい」
「もし奈々へ近付くために作られた存在だったら?」
「その可能性はあると思う」
「分かっていて、明日も会うのか」
「うん」
「奈々」
「神一郎は、私に選ばせるって言ったよね」
神一郎の言葉が止まる。
昨日、自分で決めたばかりだった。
守ることと、信じることは違う。
危険だからと何も知らせず、奈々の選択を奪わない。
だが、危険が目の前へ現れれば、やはり遠ざけたくなる。
「勝手に動くつもりはないよ」
奈々が続ける。
「灯里が何者なのか、一緒に調べる。何か分かったら話す。でも、友達になりたいと思ったことまで、間違いにしないで」
「……分かった」
神一郎が答える。
「本当に?」
「篠宮灯里を、最初から敵とは決めつけないよ」
「うん」
「だが、味方とも考えない。次に同じ反応が起きたら、必ず距離を取れ」
「灯里が苦しんでいても?」
「奈々まで倒れたら、誰も助けられない」
「それは……分かった」
「それから、もう隠さないでくれ」
「神一郎もね」
「今は奈々の話をしてる」
「私も神一郎の話をしてる」
「同じにするな」
「同じだよ。相手を心配させたくなくて、自分だけで決めるところ」
神一郎が黙る。
優子が小さく笑った。
「二人とも、本当に似てきたね」
「「似てない」」
奈々と神一郎の声が重なる。
「ほら」
今度は二人とも何も言えなかった。
*
アトランティス騎士団本部。
解析室の中央に、三つの魔力波形が浮かんでいた。
白。
赤坂奈々の魔力回路。
黒。
カイル・ウェーバーの人工魔力核。
そして、識別不能の暗い紫。
博文館学園で〇・七秒だけ観測された、未知の反応。
椎菜は三つの波形を見比べていた。
「一致率は?」
「カイルの核とは、基礎構造で七十八パーセント」
解析術師が答える。
「ただし、出力制御と隠蔽術式は別物です。既存の検体より数世代先にあると考えられます」
「完成体か」
「その可能性があります」
暗い紫の波形が拡大される。
ほとんどの時間、一般人と見分けがつかないほど出力を落としている。
それが奈々の魔力回路へ接触した瞬間だけ、制御域を越えた。
「本人の意思で上げた反応ではありません」
「赤坂奈々も回路に引き出された?」
「あるいは、応えた」
「人工核に意思があるような言い方だな」
「現時点ではあるともないとも断定できません」
解析術師が別の記録を開く。
篠宮灯里。
博文館学園高等部一年A組。
入学直後から長期療養。
本日より復学。
幼少期から複数の医療施設を転々としているが、治療内容の詳細は残されていない。
保護者欄には、海外在住の親族の名がある。
だが該当する人物は三年前に死亡していた。
現在の住居は、人間界にある高層マンションの一室。
契約名義も同じ死亡者。
「用意された経歴だな」
椎菜が言う。
「本人を確保しますか?」
「証拠がない」
「反応は出ています」
「魔力反応だけで、人間界の学校から生徒を連れ去るつもりか」
「しかし、赤坂奈々さんへ接触しています」
「だからこそ慎重に動く」
一般人には、騎士団の存在そのものが知られていない。
学校内で実力行使をすれば、生徒も教師も巻き込む。
人間界側の行政機関へ説明するにしても、公開できる情報は限られている。
何より、篠宮灯里が自ら誰かを傷付けた事実はない。
「人間界支部へ指示を出せ。篠宮灯里の監視を開始。ただし、学校内では一般人として扱え」
「了解」
「接触はするな。騎士団、魔力、人工魔力核に関する情報も一切漏らすな」
「赤坂奈々さんたちは?」
「すでに接触している」
椎菜は神一郎から届いた報告を見る。
篠宮灯里の人工魔力核と思われる反応。
奈々との接触による共鳴。
本人に敵意なし。
そして最後に、神一郎自身の判断ではない一文が付け加えられていた。
『赤坂奈々は、篠宮灯里を敵ではないと考えている』
少し前の神一郎なら、感情的な判断だと切り捨てたかもしれない。
今も完全に納得してはいないだろう。
それでも報告から省かなかった。
奈々の選択を、自分の判断と同じ場所へ並べた。
「成長したのか、影響されているだけなのか」
「何か?」
「いや」
椎菜は端末を閉じる。
「奈々くんを一人にするな。優子くんにも同じ指示を」
「藤崎副隊長には?」
「すでに送った」
「従うでしょうか」
「従わせろ」
「負傷中ですが」
「だから好都合だ。今なら力ずくでも止められる」
解析術師が返事に迷う。
「……了解しました」
椎菜は暗い紫の波形を見る。
完成体に近い人工魔力核。
それを持ちながら、普通の学校へ通おうとする少女。
命令によって奈々へ近付いたのか。
それとも、自分の意思で友達になろうとしているのか。
今はまだ、どちらとも決められない。
「篠宮灯里」
椎菜は少女の名前を口にする。
「君は、誰の命令で明日を選ぶ」
*
同じ時刻。
灯里は一人で自宅へ戻っていた。
部屋の照明は点いていない。
生活に必要な家具だけが置かれた室内。
家族の写真も。
誰かと一緒に選んだ物もない。
灯里は鞄を机へ置く。
教科書。
図書室で借りた小説。
飲み終えたミルクティーの容器。
本来なら捨てるべき物だった。
だが灯里は、それを鞄から出し、机の端へ立てた。
明日、優子へ何を返せばいいのか。
その答えを考えるために必要だと思った。
机の中央には、組織から渡された端末がある。
灯里が近付くと、自動的に画面が起動した。
『観察対象との接触を確認』
『赤坂奈々の魔力回路の出力変化を報告せよ』
灯里は椅子へ座る。
指示された内容を入力していく。
奈々の魔力が接近によって反応したこと。
接触により、自分の人工魔力核が〇・七秒間、制御域を越えたこと。
赤坂奈々の魔力回路が人工核の出力を低下させたこと。
そこまで入力し、指が止まる。
『観察対象の警戒状態は?』
奈々は気付いている。
灯里の中に、普通ではない何かがあることを。
神一郎と優子も疑っている。
正確に報告すれば、組織は接触方法を変える。
場合によっては、奈々の周囲にいる者を排除するかもしれない。
それは任務の成功率を上げる。
灯里がこれまで教えられてきた基準なら、報告しなければならない情報だった。
奈々の卵焼きの味が蘇る。
優子から渡されたミルクティー。
痛みを隠した神一郎へ怒る奈々。
意見が違っても、三人は同じ場所へ帰っていった。
『警戒なし』
灯里は入力した。
嘘だった。
初めての嘘ではない。
任務に不要な情報を省いたことはある。
組織の望む結果を得るために、報告の表現を変えたことも。
だが今回は違う。
組織のためではない。
奈々たちを守るために、情報を隠した。
『赤坂奈々は人工魔力核の位置を特定できない』
送信。
端末から短い音が鳴る。
『報告を受理』
『引き続き接触を継続せよ』
『感情的な結び付きを利用し、白色回路の情報を取得せよ』
感情的な結び付き。
友達。
組織は最初から、その言葉を利用するつもりだった。
奈々へ近付き。
信じさせ。
必要な情報を得る。
そのために灯里は学校へ送られた。
用意された制服。
作られた経歴。
与えられた名前。
篠宮灯里という少女の人生は、赤坂奈々へ近付くために作られた。
「友達」
灯里は小さく呟く。
端末には、追加の命令が表示される。
『必要であれば、対象の信頼を得るため情報を開示せよ』
『ただし、人造騎士計画および組織の存在は秘匿すること』
許可された嘘。
許可された本当。
組織が決めた範囲の中で、灯里は奈々と友達になる。
それは本当に友達と呼べるのか。
灯里は図書室から借りた本を開く。
本の中では、友達へ嘘をついた少女が責められていた。
裏切られた少女は泣き、もう会いたくないと言う。
それでも最後には、本当のことを話す。
すぐには許されない。
傷付けたものが、なかったことになるわけでもない。
けれど二人は、もう一度話すことから始めていた。
灯里にも同じことができるのか。
自分が人工魔力核を持つ人造騎士であると伝えれば。
奈々を観察するために近付いたと告白すれば。
奈々は同じように名前を呼ぶのか。
『話したら、嫌われるかもしれない』
図書室で、自分が口にした言葉を思い出す。
『それも、聞いてみないと分からない』
奈々はそう答えた。
胸の奥で、人工魔力核が脈打つ。
一度。
二度。
奈々へ触れた時とは違う。
灯里の身体を生かすための、いつもの黒い鼓動。
「私の力」
胸元へ手を当てる。
人工魔力核は十年以上、灯里の命を繋いできた。
この核がなければ、今の灯里は存在しない。
誰かに埋め込まれた物でも。
兵器として使うために与えられた物でも。
今は灯里の心臓と繋がっている。
自分の力だと思っていた。
だが、奈々へ触れた時。
人工魔力核は灯里の命令を聞かなかった。
白い回路へ応えるように出力を上げた。
身体の内側にある黒い心臓が、灯里の意思とは関係なく奈々を求めた。
もし、この力が灯里のものではないのなら。
自分に残るものは何か。
篠宮灯里という名前も、組織から与えられた。
学校へ通う理由も。
奈々へ近付く理由も。
すべて誰かに決められている。
それでも。
「明日も学校へ行く」
灯里は声に出した。
組織からも、接触を継続するよう命令されている。
同じ行動。
だが意味は違う。
奈々が卵焼きを多めに持ってくると言った。
優子へ今度は自分が飲み物を渡す。
図書室で借りた本の続きを、学校で読みたい。
「私は、行きたいから行く」
誰もいない部屋で、灯里はもう一度言った。
命令されたからではない。
少なくとも、その理由だけではない。
机の端に置いた空の容器を見る。
明日が来れば。
また会える。
その約束を信じてみたいと思ったのは、篠宮灯里という一人の少女だった。
胸の奥で人工魔力核が脈打つ。
黒い鼓動。
一度。
二度。
それが自分の心臓なのか。
与えられた兵器の音なのか。
灯里には、区別できない。
それでも。
明日を待つという感情だけは、誰かに与えられたものではなかった。
―――――――




