第一章 第三話 模倣された奇跡
目を閉じると、黒い糸が見えた。
人間の身体へ根を張り、骨と筋肉を無理やり動かしていた人工魔力。
その中心で脈打つ、黒い心臓。
ツキカゲを振り抜いた感触は、まだ両手に残っている。
斬ったのは肉ではない。
骨でも、命でもない。
そう分かっているはずなのに、刃の軌跡を思い出すたび、カイル・ウェーバーの声が耳の奥で蘇った。
『……むす、め』
神一郎は目を開けた。
白い天井が視界いっぱいに広がっている。
窓のない医療区画では、朝なのか夜なのかも分からない。
壁面に浮かぶ時刻表示は、午前二時十三分。
現場から戻って、まだ四時間ほどしか経っていなかった。
「眠れませんか」
寝台の横から声がした。
夜勤の治癒術師が、端末を片手にこちらを見ている。
「眠ってました」
「三分ほどですね」
「それは寝たうちに入るでしょう」
「入りません」
即答された。
神一郎は起き上がろうとして、腹部に走った痛みに顔をしかめる。
「起きないでください」
「水が飲みたいだけです」
「取ります」
「それくらい自分で」
「先ほど、同じことを言って傷を開いた人ですよね」
「……俺ですね」
「でしたら横になっていてください」
言い返す余地がない。
術師が寝台脇の水差しからコップへ水を注ぐ。
受け取ろうと手を伸ばすと、その動きまで慎重に見られた。
「子どもじゃないんですけど」
「子どもの方が、もう少し言うことを聞きます」
「それ、椎菜さんにも言ってやってください」
「中嶋隊長は反対側の個室です。先ほど同じことを申し上げました」
「何て答えました?」
「『神一郎よりは聞き分けがいい』と」
「絶対に嘘だ」
思わず声が出た。
腹部が痛み、神一郎は顔をしかめる。
術師は呆れたように息を吐いた。
「夜明けまでは安静です。検査の数値が悪化しなければ、その後の移動は許可されます」
「任務には」
「戻れません」
「まだ何も言ってません」
「顔に書いてあります」
そう言って、術師は端末へ目を落とした。
神一郎もそれ以上は聞かなかった。
今の身体で戦闘任務に戻れないことくらい分かっている。
分かっているが、事件が待ってくれるわけではない。
「カイル・ウェーバーは」
術師の指が止まる。
「ここへ運ばれたんですよね」
「お答えできません」
「生きているかどうかだけでも」
「藤崎副隊長」
呼び方は丁寧だった。
それでも、これ以上は尋ねるなという意思が伝わる。
神一郎はコップの水へ視線を落とした。
「俺が斬ったんです」
「あなたが止めた、と報告されています」
「同じことです」
「違います」
今度の声は、少しだけ柔らかかった。
「少なくとも、あの方が今も生きているのは、あなたと中嶋隊長が人工魔力核を破壊しなかったからです」
「今も、ということは」
術師は答えなかった。
だが否定もしない。
カイルは生きている。
それだけで張り詰めていたものが少し緩んだ。
「容体は?」
「それ以上は担当の術師へ確認してください」
「どこにいますか」
「夜明けまでは安静です」
「検査の数値が悪化しなければ移動していいんですよね」
「どうして余計なところだけ正確に覚えているんですか」
治癒術師の声に疲れが滲んだ。
神一郎は水を飲み、もう一度天井を見る。
眠れる気はしなかった。
*
午前六時。
再検査の結果を待ち、固定帯を巻き直され、治癒術師から三度にわたって注意事項を聞かされたあと、神一郎はようやく寝台を下りることを許された。
廊下へ出ると、壁にもたれて腕を組んでいる椎菜と目が合った。
左肩には白い固定具が巻かれている。
いつもの黒い制服へ着替えていたが、外套で隠れていた傷は神一郎が思っていたより深いらしい。
「何を見ている」
「いえ。俺より重傷に見えるなと」
「お前にだけは言われたくない」
「俺はもう歩いていいって言われました」
「私もだ」
「腕、上がるんですか」
「試してやろうか」
「遠慮します」
椎菜が壁から背を離す。
「検査結果は」
「傷は塞ぎ直してもらいました。魔力回路の炎症が引くまでは、戦闘と高出力の魔力使用は禁止です」
「当然だ」
「椎菜さんは?」
「左肩の筋組織を損傷。二日で戻る」
「二日」
「治癒術を使えばな」
「俺も二日くらいで」
「お前は最低でも一週間だ」
「何で知ってるんですか」
「担当術師に聞いた」
「本人より先に?」
「お前は都合の悪いことを隠す」
「隠してません」
「では、腹部の出血を黙っていたのは何だ」
「聞かれなかったので」
「それを隠したと言う」
椎菜の目が細くなる。
怒っている。
現場では言い争う余裕もなく、そのまま二人とも治療へ運ばれた。
『あとで話がある』
しっかり覚えていたらしい。
「あの状況では、他に方法がなかったでしょう」
「現場へ来たことを言っているんじゃない」
「じゃあ、何ですか」
「自分の限界を偽ったことだ」
「三回振れるって正直に言いました」
「全力で一度振れば傷が開くと分かっていただろう」
神一郎は答えなかった。
椎菜はそれを肯定として受け取った。
「お前は、自分が倒れるところまでを任務に含めて考える癖がある」
「倒れるつもりはありませんでした」
「つもりの話などしていない。結果を予測できたかと聞いている」
あの時、傷が開く可能性は分かっていた。
それでも成功させればいいと思った。
カイルを止められるなら、自分の傷は後で治せばいいと。
「……できました」
「ならば次からは、その先まで考えろ」
「その先?」
「お前が倒れたあと、誰が運ぶ。誰が治療する。お前が抜けた穴を誰が埋める」
椎菜の言葉に、昨夜の治癒術師の声が重なる。
あなた一人の命ではありません。
「守るためなら、何をしてもいいわけではない」
椎菜はまっすぐに神一郎を見ていた。
「お前が誰かを守ろうとするように、お前を守ろうとする者もいる。それを忘れるな」
奈々。
優子。
椎菜。
父や母も、そうだったのだろうか。
神一郎を守るために、何も知らせなかった。
だが、守られた側に何も残らないわけではない。
知らされなかったことへの怒りも。
何も選ばせてもらえなかった痛みも残る。
「椎菜さんは」
「何だ」
「俺に無茶をするなって言いますけど、自分が同じ立場ならどうしてました?」
「必要なことをする」
「傷が開いても?」
「開かないようにする」
「答えになってません」
「私はお前より強い」
「またそれですか」
「事実だ」
椎菜はわずかに口元を緩めた。
結局、この人も自分と同じなのだ。
違うのは、無茶を無茶のまま終わらせないだけ。
自分だけで何とかしようとする神一郎に対して、椎菜は周囲の力まで使って任務を成立させる。
昨日の戦いもそうだった。
椎菜がカイルの動きを止め、神一郎が魔力を斬った。
一人では、どちらも成功していない。
「次は、最初から頼れ」
考えを読んだように椎菜が言う。
「命令ですか」
「忠告だ」
「なら、椎菜さんもです」
「何がだ」
「一人で現場へ行って、肩をやられてたでしょう」
「あれは必要な負傷だ」
「そんな負傷あります?」
「ある」
「じゃあ、俺のも必要な負傷です」
「お前は一週間。私は二日だ」
「治る日数で決めるんですか」
「そうだ」
「横暴だな……」
「誰の上官だと思っている」
「俺の上官ですよ」
「なら従え」
昨日と同じやり取りに、神一郎は小さく息を吐いた。
椎菜が廊下の奥へ歩き出す。
「どこへ?」
「カイル・ウェーバーの病室だ」
神一郎は顔を上げた。
「会えるんですか」
「意識は戻っていない。面会も許可されていない」
「じゃあ、どうして」
「家族が到着した」
その一言で、神一郎の足が止まる。
カイルの手首に巻かれていた、色褪せた腕輪を思い出す。
「娘さんも?」
「ああ」
「行きます」
「そのために待っていた」
椎菜は振り返らずに答えた。
*
カイルが収容されているのは、通常の病室ではなかった。
医療区画の最奥。
厚い隔壁と封印術で外部から遮断された、魔力汚染患者用の集中治療室。
廊下と病室の間は透明な壁で区切られている。
その向こうに、何本もの管と魔装具へ繋がれたカイルの姿があった。
現場で膨れ上がっていた身体は、元の大きさへ戻っている。
だが、あれほど太かった腕は不自然なほど細く見えた。
皮膚の下には黒い筋が残り、胸元を覆う固定具の隙間から弱い光が漏れている。
人工魔力核は、まだ体内にある。
その前に、二人の人影が立っていた。
一人は三十代ほどの女性。
もう一人は、十歳にも届かない少女だった。
少女の手には、カイルが身に着けていたものと同じ色の糸が握られている。
「お父さん、眠ってるだけ?」
少女の声が、静かな廊下へ落ちた。
女性はすぐに答えられなかった。
「……そうよ」
「いつ起きるの?」
「先生たちが、今頑張ってくれてるから」
「今日?」
「分からないの」
「明日?」
「ごめんね。まだ、分からないの」
少女は透明な壁へ小さな手を当てた。
「お父さん、明日は休みだって言ってた」
女性の肩が震える。
「新しい腕輪、作ったの。前の、もうぼろぼろだから」
握られていた糸が、腕輪の形になっていることに神一郎は気付いた。
青と白。
不揃いに編まれた、新しい腕輪。
「渡してもいい?」
「……起きたら渡そうね」
「うん」
少女は素直に頷いた。
その横顔に、戦闘中のカイルの表情が重なる。
名前も。
自分がどこにいるのかも失いかけていた。
それでも、娘のことだけは残っていた。
神一郎は声をかけることができなかった。
自分が止めた。
助けたのかもしれない。
だが、カイルの身体を傷付けた戦いの中に自分もいた。
何と名乗ればいいのか分からない。
女性がこちらに気付いた。
神一郎の制服と、隣に立つ椎菜を見る。
「騎士団の方ですか」
椎菜が一歩前へ出た。
「アトランティス騎士団二番隊隊長、中嶋椎菜です。こちらは三番隊副隊長の藤崎神一郎」
女性の視線が神一郎へ移る。
「夫を止めてくださった方だと聞きました」
その言葉に、少女も振り返った。
「お兄ちゃんがお父さんを助けたの?」
答えが喉に詰まる。
助けたと言い切るには、カイルの姿はあまりにも痛々しい。
「俺だけじゃない」
ようやく出たのは、そんな言葉だった。
「ここにいる人たちが、みんなで助けたんだ」
「じゃあ、お父さん起きる?」
嘘は言えない。
大丈夫だとも。
必ず起きるとも約束できない。
神一郎が答えられずにいると、少女は不安そうに眉を下げた。
その時、病室の中で警告音が鳴った。
カイルの胸元から黒い光が強く漏れる。
「離れてください!」
医療騎士が廊下を走ってくる。
透明な壁へ幾重もの術式が浮かび、病室を封鎖した。
カイルの身体が寝台の上で大きく跳ねる。
黒い筋が首元まで伸び、閉じていた目が開いた。
「あなた!」
女性が壁へ駆け寄る。
「お父さん!」
少女も呼ぶ。
声が届いたのか。
カイルの目が、ゆっくりとこちらへ向いた。
焦点は合っていない。
それでも唇が動いた。
「……リナ」
少女が目を見開く。
「お父さん! 私、ここにいるよ!」
「リナ……」
カイルの右手が、わずかに持ち上がる。
透明な壁の向こう。
娘へ触れようとするように伸びる。
しかし腕は途中で止まり、寝台へ落ちた。
人工魔力核が再び脈打つ。
「鎮静術を上げろ!」
「魔力回路への侵食が再開しています!」
「外部供給を遮断! 核の出力を抑えろ!」
白い治癒光がカイルを包む。
黒い光と白い光が押し合い、病室全体が明滅した。
「お父さん!」
少女の叫びに、カイルの口がもう一度動く。
「にげ……ろ」
「大丈夫だよ! 怖くないよ!」
「ちがう……おれ、から……」
途切れた声。
自分が娘を傷付けることを恐れている。
力を失っても。
寝台へ縛られていても。
カイルの中には、昨日の記憶が残っている。
「もう戦わなくていい」
気付けば、神一郎は透明な壁の前へ出ていた。
カイルの目がわずかに動く。
「あなたを動かしていた魔力は切りました。ここには騎士がいる。だから、もう誰も傷付けなくていい」
「きし……」
「娘さんも守ります」
カイルの視線が、神一郎から少女へ移る。
「だから今は、自分が戻ることだけを考えてください」
言葉が届いているのかは分からない。
それでも、カイルの強張っていた右手が少しずつ開いていく。
黒い光が弱まった。
治癒術の白い光が胸元を覆い、警告音が止まる。
「出力、低下しました」
「鎮静状態へ戻ります」
医療騎士たちの声が聞こえる。
カイルの瞼が閉じる直前、その唇がかすかに動いた。
「……たすけて」
昨日と同じ言葉。
だが今度は、はっきりと神一郎に向けられていた。
「助けます」
神一郎は答えた。
「必ず」
背後で椎菜が何も言わずに立っている。
約束できる状況ではない。
そう叱られても仕方がないと思った。
だが椎菜は、神一郎の言葉を止めなかった。
*
「人工魔力核の摘出は不可能です」
集中治療室に隣接する説明室で、担当の医療騎士はそう告げた。
壁面には、カイルの身体を映した立体映像が浮かんでいる。
胸部中央の黒い核。
そこから全身へ伸びる、細い魔力回路。
神一郎が切断したことで多くは消えていたが、心臓と脳へ繋がった数本だけが残っている。
「どうしてですか。魔力との接続は切ったはずです」
「運動機能を支配していた回路は切断されています。しかし、核そのものはすでに臓器の一部と融合している」
医療騎士が映像を拡大する。
黒い核の表面へ、心臓から伸びた血管が絡み付いている。
「無理に取り外せば、心肺機能が停止します」
「では、核を残したまま治療を?」
椎菜の問いに、医療騎士は表情を曇らせた。
「現状では、それしかありません。ただし人工魔力核は、今もカイルさんの生命力を魔力へ変換しています」
「止められないのか」
「外部から出力を抑えてはいます。しかし完全には停止できません。核を止めれば、融合した臓器まで停止する可能性があります」
生かすためには、命を削る核を動かし続けなければならない。
核を止めれば死ぬ。
動かし続けても、いつか死ぬ。
「残された時間は」
神一郎の問いに、医療騎士はすぐには答えなかった。
「分かりません」
「予測でも」
「今の消耗速度が続けば、一週間。出力が再び上昇すれば、それより短くなる可能性もあります」
一週間。
頭の中で、その言葉だけが残った。
壁の向こうでは、何も知らない少女が父親のために新しい腕輪を握っている。
「延ばす方法は」
「人工魔力核の構造が分からなければ、治療法も作れません。現在、解析局が回収した外装を調べています」
「俺たちも行きます」
椎菜が立ち上がる。
「中嶋隊長?」
「現場で核の魔力を直接見たのは、私と神一郎だ。役に立つ可能性はある」
「しかし、お二人とも治療中では」
「戦闘はしない」
「藤崎副隊長は安静が必要です」
「歩行の許可は出ています」
神一郎がすぐに答える。
医療騎士は椎菜を見た。
止めて欲しいらしい。
椎菜はわずかに考えたあと、神一郎へ視線を向ける。
「痛みは」
「ありません」
「正直に」
「動けば少し。でも、解析を見るだけなら問題ありません」
「出血は」
「止まってます」
「魔力は極力使うな」
「分かりました」
「一時間ごとに診察へ戻す。それでいいか」
最後は医療騎士へ向けた言葉だった。
しばらくの沈黙のあと、医療騎士が諦めたように頷く。
「必ず戻してください」
「約束する」
「俺にも確認してくださいよ」
「お前に聞いたら戻らないと言うだろう」
「言いません」
「なら問題ない」
椎菜は説明室を出る。
神一郎はその背中を追いながら、もう一度だけ集中治療室を見た。
眠るカイル。
そのそばから離れない家族。
あと一週間。
あまりにも短い。
必ず助けると言った。
何の根拠もない約束だった。
それでも、口にした以上は諦めるつもりはなかった。
*
解析局は、本部の地下にある。
医療区画の白とは違い、壁も床も暗い灰色で統一されていた。
幾重もの認証を通り、神一郎と椎菜は最奥の解析室へ入る。
透明な隔壁の向こうに、現場から回収された人工魔力核の外装が浮かんでいた。
大きさは、握り拳より少し小さい。
黒い鉱石にも、機械の部品にも見える。
表面には血管のような細い溝が走り、その内側を弱い光が流れていた。
胸元で脈打っていた時とは違う。
外装の一部だけになっても、まだ生きているように見える。
「団長」
デスクの前に立つ新谷悠斗が振り返った。
「来たか」
「カイル・ウェーバーの容体を確認していました」
「聞いている」
団長の目が神一郎へ向く。
「一週間だそうですね」
「解析局の見立ても同じだ」
「核を止める方法は」
「今探している」
「何か分かりましたか」
「分かったことと、分からないことが増えた」
団長がデスクへ手を触れる。
人工魔力核の周囲に、複数の術式が浮かんだ。
「外装の材質は、魔力伝導率の高い鉱石と生体組織の複合体。アトランティスで一般的に使われる魔装具技術とは異なる」
「人間界で作られたものですか」
「その可能性はある。ただし、人間界だけの技術とも考えにくい」
椎菜が外装を見つめる。
「魔力を持たない者が、人工魔力回路を設計することはできない」
「ああ。少なくとも、アトランティス側の協力者がいる」
「十年前の組織ですか」
神一郎の問いに、団長は答えなかった。
代わりに、別の映像を表示する。
古い研究施設。
以前で見せられたものと同じ記録だ。
床へ散らばる機材の中に、黒い欠片が映っている。
「これは」
「十年以上前、総一郎が追っていた研究施設から回収された映像だ」
画像が拡大される。
不鮮明ではある。
それでも、黒い欠片の表面を走る細い溝は、目の前の外装とよく似ていた。
「人工魔力核は、あの頃から存在していた?」
「完成していたかは分からない。当時の回収品に、核そのものは含まれていなかった」
「持ち出されたということですか」
「あるいは、最初から映像だけを残した」
椎菜が団長を見る。
「こちらへ存在を知らせるために?」
「今回と同じようにな」
十年前。
そして今回。
技術を隠したいのなら、帝都の中心に近い場所へ実験体を放つ必要はない。
誰にも見つからない場所で試せばいい。
それをしなかった。
カイルは、騎士団に発見されるよう仕向けられている。
「相手は、俺たちが核を調べることまで分かっていた」
「おそらく」
「なら、解析した結果も相手の目的に含まれている可能性があります」
椎菜の言葉に、団長が頷く。
「だから解析を止める、というわけにもいかない。カイルを救うには調べるしかないからな」
「見せたいものだけを見せられている、と言うことか」
神一郎が呟く。
「それでも、見ないわけにはいかない」
椎菜の声は冷静だった。
「ならば、相手が隠したものまで見つければいい」
解析術師が卓上の術式を切り替える。
「外装の内側に、識別情報と思われる刻印があります」
黒い欠片の一部が拡大された。
肉眼では傷にしか見えない細い線。
光でなぞると、三つの文字が浮かび上がる。
『K-01』
「カイルの頭文字か」
神一郎の声に、術師が首を横へ振る。
「偶然の可能性もあります。ただ、末尾の数字は検体番号と考えるのが自然です」
「検体第一号」
「少なくとも、今回の形式では」
第一。
なら、第二がいる。
カイルを作った者が、一度で実験を終えるはずはない。
胸の奥に嫌な感覚が広がる。
「行方不明者を調べてください」
「すでに帝都全域で照合している」
団長が答えた。
「直近一か月、カイルと似た状況で消息を絶った者は十一名。人間界側まで含めれば、さらに増える」
「十一人も」
「全員が関係しているとは限らない」
「でも、次の検体がいる可能性はある」
「ああ」
今この瞬間にも、誰かが人工魔力核を埋め込まれているかもしれない。
カイルと同じように。
自分の意思とは関係なく、身体を作り替えられている。
「拘束中の李静蘭に確認を」
椎菜が言った。
「中国側でも、類似研究の噂があったはずです」
「すでに照会した」
「回答は?」
「本人がお前たちに直接話すと言っている」
神一郎は眉を寄せた。
「どうして俺たちに」
「条件だそうだ」
「拘束されてる立場で条件を出すんですか」
「あの少女らしいだろう」
団長は疲れたように息を吐いた。
「十分後、聴取室へ移送される。椎菜、神一郎を連れて行け」
「了解しました」
「俺も?」
「藤崎神一郎が来なければ話さない、と名指しだ」
「嫌な予感しかしないな……」
「奇遇だな。私もだ」
椎菜の声には、隠す気もない警戒が滲んでいた。
*
聴取室の中央には、一枚の透明な壁がある。
向こう側へ入ってきた李静蘭は、騎士団の拘束衣を身に着けていた。
両手首には魔力を封じる枷。
長い黒髪は後ろでひとつにまとめられ、表情は相変わらず動かない。
胸元の傷は治療されている。
神一郎と相打ちになった場所だ。
静蘭の視線が、神一郎の腹部へ向いた。
「まだ生きていたか」
「それはこっちの台詞」
「私の傷は、お前のものより浅い」
「胸を刺された人が言うことじゃないだろ」
「急所は外した」
「俺が外したんですけど」
「胸を狙っておいて…?」
「……たぶん」
「なら、そういうことにしておく」
静蘭の口元がほんの少しだけ動く。
笑ったのか、神一郎には分からなかった。
「無駄話はそこまでだ」
椎菜が二人の間へ言葉を挟む。
「人工魔力核について知っていることを話せ」
「命令する立場?」
「少なくとも、お前よりはな」
「そう」
静蘭は椅子へ腰を下ろした。
「では、何も話さない」
「李静蘭」
「椎菜さん」
神一郎が止める。
これでは話が進まない。
「俺を呼んだ理由は?」
静蘭の視線が神一郎へ戻る。
「確認したかった」
「何を」
「お前が、あれを斬ったという報告」
「核そのものは斬ってない。身体へ繋がっていた魔力だけだ」
「やはり」
静蘭はわずかに目を細めた。
「玄嵐で受けた時も感じた。お前の剣は、魔力回路の境界へ触れる」
「ツキカゲのことを知っているのか」
「剣の名だけなら。中国側にも記録がある」
「どんな記録だ」
「藤崎沙耶の剣。魔力を断ち、術式を殺す黒い刀」
母の名が出る。
神一郎は胸ポケットのツキカゲへ手を当てた。
今はボールペンの形に戻っている。
「母さんがツキカゲを使っていた?」
「それ以上は知らない」
「人工魔力核と、ツキカゲに関係が?」
「核ではない。核を作った者が警戒していた」
室内の空気が変わった。
椎菜が一歩、透明な壁へ近付く。
「誰だ」
「名前は知らない」
「嘘をつくな」
「嘘ではない。FOXにいた頃、研究資料の護送任務を一度だけ受けた」
静蘭は拘束された両手を見る。
「中身は知らされなかった。任務中に襲撃を受け、資料の一部が流出した」
「いつの話だ」
「三年前」
「襲撃者は」
「不明。味方の経路と認証を知っていた。内部の者が手を引いた可能性が高い」
「資料には何が書かれていた」
「回収した断片を見ただけだ。魔力を持たない兵士へ、人工的な回路を形成する理論。完成には程遠いと判断され、封印指定になった」
「中国が人造騎士を研究していたのか」
「逆だ」
静蘭が短く答える。
「研究者を捕らえ、奪った資料を解析していた」
「研究者の名前は」
「記録から消されていた」
「またか……」
父と母が追っていた組織。
中国が捕らえた研究者。
そして今、帝都へ現れた人工魔力核。
すべてが同じ線で繋がっているように見える。
だが、見えている線そのものが誰かに用意された可能性もある。
「その資料に、ツキカゲが?」
「藤崎沙耶の名と共に記録されていた」
静蘭の声が少し低くなる。
「人工回路の定着を阻害する危険因子。接触を避けるべき魔装具として」
「母さんは、人造騎士と戦ったことがある?」
「そこまでは分からない」
「他には」
「白い魔力」
神一郎の呼吸が止まる。
「何だって」
「資料の大半は欠損していた。ただ一文だけ残っていた」
静蘭は神一郎の目を見た。
「『白色回路は、人工核の拒絶を抑制する』」
奈々。
名前を聞く前に、その姿が浮かんだ。
沙耶から受け継いだ、白い治癒魔力。
「その白色回路というのは」
「知らない」
「本当に?」
「私は研究者ではない。命令された資料を運んだだけだ」
「なら、どうして今まで黙っていた」
椎菜の声が鋭くなる。
「黒瀬祈莉の件で、奈々の魔力を見ただろう。気付かなかったとは言わせない」
「確証がなかった」
「それだけか」
静蘭は答えない。
「李静蘭」
「中国へ戻れば、私は任務に失敗した処分を受ける」
不意に返ってきた言葉は、質問への答えになっていなかった。
「余計な情報を渡せば、処分の理由が増える」
「今さら国へ戻れると思っているのか」
「戻るかどうかと、戻れるかどうかは別」
静蘭の表情は変わらない。
それでも一瞬だけ、優子の姿がその向こうに見えた気がした。
命令に従うことを生き方として教え込まれた二人。
優子はそこから離れようとしている。
静蘭はまだ、自分を縛る命令から逃れきれていない。
「今は、話す理由ができた」
静蘭が言う。
「次の人工核が完成すれば、中国にも持ち込まれる」
「自分の国を守るためか」
「それが任務」
「命令されてないだろ」
「命令がなくても、すべきことは分かる」
神一郎には、その言葉が少しだけ意外だった。
静蘭は命令がなければ動かない兵士だと思っていた。
だが今、彼女は自分で情報を渡すことを選んでいる。
本人が認めるかどうかは別として。
「もうひとつ」
静蘭が続ける。
「資料には、検体の年齢が記録されていた」
「年齢?」
「適応率が最も高いと予測されていたのは、魔力回路が完成する前の人間」
嫌な予感が、輪郭を持つ。
「子どもか」
「十代前半から後半」
カイルは四十二歳だった。
第一検体。
研究者は、その結果を見ている。
次に選ぶなら。
「若い人間を狙う」
「可能性は高い」
静蘭の答えと同時に、聴取室の扉が開いた。
団長が入ってくる。
表情を見ただけで、良い知らせではないと分かった。
「帝都北区で、十六歳の少女が行方不明になっている」
神一郎は立ち上がった。
「いつですか」
「三日前。カイルと同じ日だ」
「名前は」
「エマ・クラウス。騎士団への所属歴はない。魔力反応も確認されていない一般人だ」
「捜索は」
「すでに始めている。だが、通常の失踪事件として届けられたのは今朝だ」
三日。
カイルが連れ去られ、人工魔力核を移植され、帝都へ放たれるまでと同じ時間。
「次の検体」
神一郎が呟く。
「まだ断定はできない」
椎菜が言う。
「だが、急ぐ必要はある」
静蘭は透明な壁の向こうで目を伏せた。
「遅ければ、次が始まる」
*
解析室へ戻った時には、すでに昼を過ぎていた。
神一郎の腹部は熱を持ち始めている。
椎菜には気付かれていたが、一時間ごとの診察で悪化はしていないと確認され、今度は安静とならずに済んだ。
人工魔力核の外装を囲む術式は、先ほどよりも増えていた。
解析術師たちが慌ただしく行き交っている。
「何か出たのか」
団長の問いに、解析責任者が頷いた。
「人工回路の形成術式を、一部だけ再現できました」
空中へ人体の模型が浮かぶ。
魔力を持たない人間の身体。
胸部へ黒い核が埋め込まれる。
核から伸びた回路が、血管と神経に沿って全身へ広がっていく。
「人工魔力核は、宿主の身体を魔装具として認識しています」
「人を、武器として扱っている?」
「近い表現です」
解析責任者が術式を動かす。
「通常の騎士は、本人の生命活動によって生まれた魔力を、自身の回路で制御する。しかし人工魔力核では順序が逆です」
黒い核が脈打つ。
外から流れ込んだ魔力が、人間の身体を内側から書き換えていく。
「核が先にあり、その核を動かすために宿主の身体を作り替える」
「だから本人の意思と関係なく動いた」
「はい。宿主の脳から出た命令より、人工核からの指令が優先されます」
力を与えたのではない。
力を動かす部品へ、人間を変えた。
カイルは騎士にされたのではない。
人工魔力核の入れ物にされた。
「止める方法は」
神一郎が尋ねる。
「核と身体の主従関係を逆転させる必要があります」
「そんなことができるんですか」
「通常なら不可能です。一度形成された魔力回路は、宿主の生命活動と結び付きます。外部から書き換えれば、身体が耐えられない」
「通常なら、ということは」
椎菜が言葉を拾う。
解析責任者は答える前に、団長を見た。
団長が無言で頷く。
空中の映像が切り替わった。
今度は黒ではない。
淡い白色の魔力回路。
細い光が人体の中心から全身へ広がり、傷付いた臓器を包んでいる。
見覚えがあった。
何度も見ている。
奈々が治癒術を使う時、その身体から溢れる光。
「赤坂奈々の魔力回路です」
分かっていても、名前を聞いた瞬間に胸が強く脈打った。
「どうして奈々の記録がここにある」
声が低くなる。
「以前の魔力検査で取得したものだ」
団長が答えた。
「本人の同意を得た検査記録だ。無断ではない」
「それを、人工魔力核と比べたんですか」
「カイルの回路を解析した術師が、類似に気付いた」
二つの人体模型が並ぶ。
左は、人工魔力核から伸びる黒い回路。
右は、奈々の身体に定着した白い回路。
色は違う。
形も、完全に同じではない。
それでも、魔力を持たない人間の身体へ、後から回路が作られているという点では似ていた。
「どこまで似ている」
椎菜が尋ねる。
「基礎構造の六割以上が一致しています」
「六割……」
「偶然では説明できません」
解析責任者が二つの映像を重ねる。
白と黒。
いくつもの回路が同じ場所を通り、同じように臓器と結び付いていた。
「人工魔力核の術式は、赤坂奈々の回路を模倣した可能性があります」
「待ってください」
神一郎は解析卓へ手をつく。
腹部が痛んだが、今は気にならなかった。
「奈々の回路が作られたのは十年以上前です。母さんが命を使って定着させた。どうして、その構造を相手が知っているんですか」
「沙耶の治療を記録していた者がいた」
団長の声が重い。
「あるいは、最初から奈々くんの事故そのものが、仕組まれていた可能性もある」
「奈々は実験体だったって言うんですか」
「そうは言っていない」
「同じでしょう」
「神一郎」
椎菜の声が飛ぶ。
「落ち着け」
「これが落ち着いていられますか」
奈々が巻き込まれた事故。
母が命を失った治療。
父が十年以上追い続けた組織。
そのすべてを、誰かが見ていた。
沙耶が奈々を救った奇跡さえ、兵器を作るための資料に変えられた。
「許せるわけないだろ……」
握った拳が震える。
「許す必要はない」
椎菜が隣に立つ。
「だが、怒りで見落とすな」
「何をですか」
「二つは、同じではない」
椎菜が重なった回路を指す。
白と黒。
似ている。
だが魔力の流れ方が違う。
黒い回路は、核から身体の外側へ広がっている。
白い回路は、身体の中心から魔力を受け入れ、全身へ馴染むように枝分かれしていた。
「人工魔力核は、身体を支配するために回路を作る」
解析責任者が説明する。
「赤坂奈々の回路は、宿主の生命を維持するために作られている」
「母さんが、そうした」
「最初はそうです。しかし現在の回路は、藤崎沙耶が移植した当時の形とは変化していると考えられます」
「変化?」
「十年以上の時間をかけて、赤坂奈々自身の身体に合わせて成長している」
白い回路がゆっくりと脈打つ。
その中心に、人工魔力核のような異物はない。
奈々自身の心臓が動き、その命に合わせて魔力が巡っている。
「藤崎沙耶から与えられた魔力は、すでに赤坂奈々のものになっている」
解析責任者の言葉が、静かに落ちた。
与えられた力。
だが、与えられたままではない。
奈々は十年以上、その力と共に生きてきた。
泣いて。
笑って。
誰かを治したいと願い、自分の意思で魔力を使ってきた。
母の魔力だから奈々を生かしているのではない。
今はもう、奈々自身がその魔力を生かしている。
「カイルさんの回路にも、同じ変化を起こせれば」
神一郎が顔を上げる。
「助けられるんですか」
「可能性はあります」
「どれくらい」
「現時点では、成功率を算出できません」
「ゼロではない?」
「はい。ただし、そのためには赤坂奈々の魔力を、さらに詳しく調べる必要があります」
室内が静まり返った。
結局、そこへ行き着く。
カイルを助けるために。
次の実験体を救うために。
人工魔力核を安定させるために、奈々の力が必要になる。
そして相手も、それを知っている。
今回の事件が、騎士団に人工魔力核を解析させるためのものなら。
奈々との類似へ気付かせることまで、計画に含まれているとしたら。
「奈々を呼ぶことには反対です」
言葉は考えるより先に出ていた。
団長が神一郎を見る。
「理由は」
「相手は奈々を知っている。母さんの治療も、白い回路も。ここで奈々を調査へ加えたら、向こうの狙いどおりになるかもしれない」
「では、何も知らせず遠ざけるのか」
「それが一番安全です」
「本当に?」
団長ではない。
椎菜の声だった。
「何ですか」
「奈々が何も知らなければ、安全だと言い切れるのか」
「少なくとも、事件からは離せます」
「相手はすでに奈々を知っている。こちらが離しても、向こうから近付く可能性はある」
「なら、騎士団で守ればいい」
「本人には何も知らせずに?」
神一郎は答えられなかった。
先日、自分が怒ったばかりだ。
父も母も、神一郎を守るために何も知らせなかった。
知らない方がいい。
巻き込みたくない。
そうやって全部を勝手に決め、話の外へ置いた。
今、自分が奈々へしようとしていることも同じではないのか。
「守ることと、信じることは違う」
椎菜が言う。
「何も知らせず遠ざけるのは簡単だ。だが、それは奈々くんが自分で選ぶことを信じていない」
「選ばせたら、奈々は協力するって言います」
「だろうな」
「危険だと分かっていても」
「それでも、選ぶのは奈々くんだ」
「もし何かあったら」
「起こさないために私たちがいる」
迷いのない答えだった。
神一郎は白い魔力回路を見る。
奈々は、自分の魔力と向き合うと決めた。
黒瀬祈莉に狙われ、自分の力が母の命と繋がっていると知っても、逃げなかった。
守られるだけではなく、自分も誰かを守りたいと言った。
それを知っているのに、また何も知らせずに遠ざけるのか。
カイルの娘へ、必ず助けると言った。
そのために奈々の力が必要かもしれない。
だが奈々は、誰かを救うための道具ではない。
助けるかどうかも。
危険へ踏み込むかどうかも。
本人が決めるべきだ。
「……俺が話します」
神一郎は顔を上げた。
「人工魔力核のことも。母さんの魔力と似ていることも。相手に狙われる可能性も、全部」
「反対ではなかったのか」
団長が尋ねる。
「今も、できるなら巻き込みたくないです」
それは本音だった。
奈々には、普通に学校へ通っていてほしい。
友人と笑い、家族のいる家へ帰ってほしい。
騎士でも。
治癒術者でも。
誰かから与えられた力を持つ少女でもなく。
ただの赤坂奈々として過ごせる時間を守りたい。
「でも、何も知らせないのは違う」
自分がされて嫌だったことを、守るという理由で奈々へ繰り返したくない。
「奈々に話して、奈々が決めたことを信じます」
団長はしばらく神一郎を見ていた。
やがて、小さく頷く。
「分かった」
「人間界へ戻る許可をください」
「その傷でか」
「話をするだけです」
「転移門まで歩けるのか」
「歩けます」
「診察は」
椎菜が口を挟む。
「人間界の騎士団支部で受けさせます、1時間ごとである必要もありません」
「椎菜さん」
「私も同行する」
「肩、負傷してるでしょう」
「お前よりは軽い」
「二人とも残れ」
団長の一言で、神一郎と椎菜の声が止まった。
「中嶋隊長は引き続き人工魔力核の解析を指揮。神一郎は医療区画へ戻れ」
「団長」
「今すぐ行けとは言っていない。人間界との転移門を開くには、事件後の魔力障害を確認する必要がある。最短でも夕方だ」
「それまで待てと?」
「待つのも任務だ」
反論しようとして、腹部が痛んだ。
今の状態で強引に戻れば、奈々へ会う前にまた治療室へ運ばれる。
それでは何の意味もない。
「……了解」
「素直だな」
「自分の状態を正しく判断しました」
団長の口元がわずかに緩む。
「少しは学んだか」
「昨日から散々言われましたから」
椎菜がデスクへ向き直る。
「神一郎」
「はい」
「奈々くんに会ったら、ひとつ確認してほしい」
「何ですか」
「彼女の魔力に、最近変化がなかったか」
「変化?」
「人工核の出現と、奈々の回路が無関係とは限らない。眠れない、身体が熱を持つ、意図せず魔力が漏れる。その程度のことでもいい」
「分かりました」
「それから」
「まだあるんですか」
「自分の傷を隠すな」
「奈々にですか」
「見れば分かるだろうが、先に言え。あの子を余計に心配させるな」
「……努力します」
「努力ではなく実行しろ」
「了解」
神一郎は解析室を出る前に、もう一度二つの回路を見た。
黒と白。
どちらも、後から与えられた力。
だが同じではない。
一方は人を支配し。
もう一方は、人と共に生きている。
その違いがどこで生まれたのか。
答えを知る者は、まだいない。
*
夕方。
人間界へ続く転移門の前で、神一郎は胸ポケットのツキカゲを確かめた。
黒いボールペン。
父と母から託された剣。
これもまた、与えられた力だ。
自分が選んで手に入れたものではない。
それでも、どう使うかは自分で決めてきた。
カイルを傷付けるためではなく、救うために振るった。
その選択まで誰かから与えられたわけではない。
「藤崎副隊長、準備が整いました」
転移術師の声に、神一郎は顔を上げる。
門の中央へ青白い光が満ちていく。
この先は人間界。
奈々と優子が待つ、いつもの街。
今頃は学校を終え、二人で帰っている頃だろうか。
奈々に何から話せばいい。
人工魔力核。
カイルと、その娘。
母の治療が模倣されていたこと。
奈々の魔力が、誰かに狙われている可能性。
どれも、聞かせたくない話ばかりだった。
それでも話す。
守るために隠すのではなく。
共に向き合うために。
転移門へ足を踏み入れようとした時、端末が震えた。
画面に表示された名前を見て、神一郎の指が止まる。
赤坂奈々。
まるでこちらの迷いを見透かしたようなタイミングだった。
通信を開く。
『神一郎?』
聞き慣れた声。
それだけで、張り詰めていたものが少しだけ緩む。
「奈々」
『今、大丈夫? 昨日から連絡がないから、何かあったのかなって』
「悪い。少し、立て込んでた」
『その言い方、何かあった時の言い方だよ』
「そんなことない」
『あるよ。神一郎、隠すの下手だもん』
すぐに見抜かれた。
椎菜の言ったとおりだ。
『怪我、悪くなってない?』
「少し開いた」
『少し?』
「もう治療は終わってる」
『本当に?』
「本当だ」
『椎菜さんに代わって』
「何で」
『神一郎の“大丈夫”だけだと信用できないから』
「今、椎菜さんはいない」
『じゃあ優子に確認してもらう』
「どうやってだよ」
『そっちに行けばいいんでしょ』
「待て。奈々」
思わず強い声が出る。
通信の向こうが静かになった。
まただ。
危険から遠ざけるために、何も言わず止めようとする。
神一郎は一度、息を吐いた。
「……悪い」
『ううん』
「そっちには来なくていい。俺が今から戻る」
『人間界に?』
「ああ、すぐ後に椎菜さんも戻るよ」
青白い光が、転移門を満たしている。
神一郎はその前へ立った。
「奈々に話したいことがある」
『私に?』
「大事な話だ」
少しの沈黙。
奈々が息を飲む音が聞こえた。
『分かった。待ってる』
「朝倉さんも一緒?」
『うん。今、隣にいるよ』
通信の奥から、優子の声が聞こえる。
『神一郎君、奈々を不安にさせる言い方しないでよ』
「聞こえてる」
『聞かせてるの』
「椎菜さんみたいなこと言うな……」
『何か言った?』
「何でもない。二人でいてくれ。すぐ行く」
『うん』
通信を切る。
話せば、奈々は事件へ関わることを選ぶかもしれない。
いや、きっと選ぶ。
カイルのことを知れば、放っておけないと言う。
それが怖くないわけではない。
だが、奈々は守られるだけの少女ではない。
沙耶から与えられた力を、自分の意思で誰かを救う力へ変えてきた。
その奈々を信じる。
今度は、自分が。
神一郎は青白い光の中へ踏み出した。
騎士ではない者から始まった事件は、まだ入口にすぎない。
人工的に作られた黒い心臓。
沙耶が遺した白い魔力。
二つが交わる時、何が起きるのか。
その答えを知るために。
そして、次に力を与えられようとしている名も知らない誰かを救うために。
神一郎は、奈々の待つ世界へ戻った。
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