第99話 奪われたもの
「――あなたに奪われた”モノ”を、返してもらいに来たの」
少女の声は、静かだった。
怒るつもりもなければ、静かに泣くわけでもなく、そして殺意を向けているだけではない。
ただ、王座の上から淡々と、そのように告げたのだ。
彼女のその一言で大広間の空気が変わった。
――赤い月光が、さらに濃くなった。
血色のステンドグラスから落ちる光が、床の月と薔薇の紋様をなぞり、まるで古い傷口が開いていくように赤く滲んだ。
左右に並ぶ燭台の白い炎は揺れず、そして風などない。
それなのに、広間全体が微かに震えているような感覚がある。
俺は両手で黒星と白雨を握ったまま、姫を見ていた。
玉座に座る少女は、相変わらず俺の方を見ていない。
正確には、俺もルクスも視界には入っているのだろう――だが、意識の中心にいない。
彼女が見ているのは、セレネ自身だけだ。
「……奪った」
セレネが小さく呟く。
その声はいつも通り穏やかな声に聞こえたが、普段のセレネならそこにあるはずの余裕がなかった。
綺麗に整えられた水面に、小さな石が落ちたような揺らぎがあった。
少女は、頬杖をついたまま目を細める。
「ええ。あなたは奪ったわ」
「……」
「あの時も、そうだった」
少女の指先が、玉座の肘掛けをゆっくり撫でる。
白い指が、血の気がないのに爪だけが薄く赤い。
「あなたはいつもそう、正しい顔をするのね……静かで、優しくて、救う側みたいな顔をして」
彼女のその言葉は淡々としている。
だが、奥に沈んでいるものは冷たく重い。
「でも、あなたがした事は私にとって、救いではなかった」
セレネの表情が、ほんの少しだけ硬くなる。
俺は口を挟まなない。今はまだ、聞くべきだと思った。
彼女は何を奪ったと言っているのか、そしてセレネが何に反応しているのか。
それを知らないままで居るのには、この場にある感情は重すぎる。
「私たちはは月へ届くはずだった……血に堕ちたのではないわ。血を通して、月へ近づこうとしたの。飢えも、渇きも、痛みも、すべて捧げれば……夜の一族はもう一度祝福を得られるはずだった」
「それは、違います」
セレネが息を吸い、声をかける。
対し、不機嫌そうな顔で姫は視線を向けている。
「違う?」
「ええ……あなたたちは、すでに呪いに呑まれていました」
セレネ自身の声は震えていない。
けれど、完全に安定しているわけでもなかった。
ある意味、情緒不安定なのかもしれないが、それでも彼女は真実を告げる為に話を続けた。
「血を捧げれば救われるという考えそのものが、呪いの中にあったものです……あのまま続ければ、あなたも、あなたの一族も、月へ届くどころか――」
「滅びた?」
少女が、言葉を奪うように続けた。
「だから封じたの?」
「……はい」
「そう、セレネは優しいのね」
少女は笑った。
綺麗に、華麗に。
しかし、その笑顔は怖さを感じた。
「あなたはとても優しくて、とても正しい……そして、とても残酷なのね」
「それ、は……っ」
「あなたは言ったわ。止めるしかなかった、と。救う方法がなかった、と。けれど、それはあなたの都合でしょう?」
少女の深紅の瞳が、わずかに濃くなる。
「私は頼んだかしら、セレネ。止めて、と。封じて、と。眠らせて、と」
「……」
「私から、選ぶ権利を奪ったのはあなたよ?」
彼女の言葉と同時に次の瞬間、大広間の空気がさらに冷えた。
俺は一瞬だけセレネを見ると、彼女は真っ直ぐに少女を見ていた。
逃げてはいない――だが、痛みを感じていないわけではなかった。
指先が、袖の内側で握られて、白い衣の裾がわずかに揺れる。
それは風ではなく、彼女の内側の揺れが魔力に出ているのだろう。
「――姫」
セレネが呼ぶ。
少女の瞳が、ほんの少しだけ細くなった。
「――その呼び方、嫌いではないわ」
「私は、あなたを救えませんでした」
「ええ、知っているわ」
「けれど、あの時、あのままにしておくこともできなかった」
「それも知っているわ」
淡々とした返事で、彼女は答えていた。
だが、その淡さが返って傷を深く見せる。
「――知っているのよ、月影の巫霊」
少女は玉座から立ち上がらない。
ただ、頬杖をついたままで少しだけ身を傾ける。
「あなたが間違っていなかったことくらい、わかっていたの」
その言葉に、セレネの表情がわずかに変わる。
対し、少女の話は続いている。
「私たちが壊れかけていた事も。血に酔っていた事も。月の名を借りて、取り返しのつかない”存在”へ進んでいたことも」
声は静かで、淡々だった。
まるで、自分の罪を認めるようでいて、彼女の言葉はどこか他人事のようでもある。
「でもね……正しかったからといって、奪われた痛みが消えるわけではないのよ」
彼女の言葉に対し、セレネは何も言えなかった。
そう、その沈黙が、答えだった。
それを聞いて、俺はようやく内容の意味を理解し始めていた。
――セレネは救うために封じ、封じられた側からすればそれは未来を奪われた事と同じだった。
結局の所、解決しない。
少女、姫と呼ばれている存在は、セレネを憎んでいる。
だが、それだけではない。
――縋っていたのだ。
――覚えていてほしかった、
――忘れてほしくなかった。
あの時、自分を見たセレネに、今も答えを求めている――そういう目をしていた。
「あなたはまた奪うのね」
「また、ですか?」
「ええ」
少女の視線が、一瞬だけ俺へ向いた。
だが、それは興味というより確認のように見えた。。
「今度はその主の隣で、また誰かを守る顔をしている」
「ノアは関係ありません」
「関係あるわ……あなたが大切にするものは、いつもあなたを正しい側に立たせる。守るため、救うため、止めるため。そう言えば、あなたは何でも奪える」
「それは……違います」
「違わないわ」
少女の声が、ほんの少しだけ低くなり、それは多分、初めてだったのだろう――感情が滲んだ。
「あなたは私から、夜を奪った。月へ届く道を奪った。一族の終わりを見届ける権利も、壊れていく自由も、最後に泣く事さえ……何もかも、全て奪った」
赤い月光が、玉座の周囲で濃くなる。
「そして今も、その顔をしているのよ、セレネ」
目を見開き、セレネの唇が僅かに震えた。
彼女が今、どのような感情を見せながらその場に立っているのか、俺には分らない。
それぐらい、彼女の今の感情は”重い”のだ。
「……私は……あなたから、多くのものを奪いました」
微かに呟くように、そしてセレネは口を開いた。
その声は静かだった。
しかし、真っ直ぐな瞳で、少女に目を向けている。
「それを、なかった事にはしません」
「――では返してくれるの、セレネ……私の夜を。私の月を。そして、私が失った”モノ”を」
「それは――」
「返せないのでしょう?……知っているわ。だから来たの」
少女はゆっくりと肘掛けから手を離す。
立ち上がるわけではないが、それでも、大広間全体の気配が変わった。
「返せないなら、奪い返すだけよ、セレネ」
その言葉を言った瞬間、床の薔薇紋が赤く脈打つ。
棺からこぼれる霧が濃くなり、玉座の背後の赤い月が、まるで瞳のようにこちらを見下ろした。
少女は、まだセレネだけを見ていた。
「ねえ、月影の巫霊」
その声は冷たく、優雅で、どこかひどく寂しかった。
「今度は、あなたの大切なものから奪ってあげるわ、何もかも全て……例えば、そこにいるあなたの主とか、ね」
静かに笑う少女の姿は、とても残酷な瞳をしている。
そして再度その視線は、俺に向けられた。
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