第100話 月影の巫霊の過去【セレネ視点】
――今度は、あなたの大切なものから奪ってあげるわ、何もかも全て。
その言葉を聞いた瞬間、私は呼吸を忘れた。
赤い月光の差す大広間と、血色のステンドグラス
棺に絡みつく赤黒い薔薇に、玉座に座る小さな吸血鬼の姫。
全てが酷く遠く見えた。
目の前にいるのは、かつて私が封じた存在。
救えなかった少女――止めることしかできなかった夜の姫。
けれど、彼女の言葉が向いた先は、もう過去だけではなかった。
”大切なもの”
その言葉で、私の視線は無意識にノアへ向いた。
黒星と白雨を握り、私と姫の間に立つ主。
前回の戦いで、まだ身体は本調子ではない。
先の戦いで深く傷つき、今も無理をして立っており――それでも、彼は当然のようにそこにいる。
あの夜と同じように――月の湖で傷だらけの私を拾った時と同じように。
「……奪う、ですか」
私は静かに呟いた。
声は震えていなかった。
けれど、自分でも分かる――いつものようには考えられることが出来ない。
私は今、同様しているのだ。
胸の奥に沈めていたモノが、赤い月光に照らされて浮かび上がってくる。
罪と後悔、そして、忘れられない少女の瞳。
「ええ」
玉座の上で、姫が気怠げに頬杖をついたまま答える。
「あなたが私にしたように」
「……」
「あなたは、奪った側なのよ。月影の巫霊」
その言葉を、私は否定できなかった。
――嘗て、月の祝福を受けた夜の一族がいた。
彼らは本来、血を啜る怪物ではなく、夜に生き、月光を糧とし、長い時間を静かに過ごす、美しく誇り高い一族だった。
人の世から離れ、森と湖と古い城を抱きながら満ち欠ける月に祈りを捧げる者たち。
彼らにとって月は神であり、母であり、帰る場所だった。
その中に、一人の姫がいた。
幼く見える少女――けれど、その瞳には長く生きた者の静かな孤独があった。
銀白にも淡い金にも見える髪を持ち、深紅の瞳で月を見上げる子供。
誇り高く、我が儘で、寂しがりで、誰よりも月を愛していた。
私は、彼女をよく覚えている。
初めて会った時、姫は月の祭壇の上に座っていた。
白い膝を抱え、退屈そうに夜空を見上げながらこのように静かに言った。
――あなたが、月影の巫霊?
その声は今と同じだった。
気怠げで、冷たくて、けれど奥に幼い寂しさを隠していた。
あの頃は、まだ間に合うと思っていた。
夜の一族に起きていた異変は、最初は小さなものだった。
月光だけでは足りず、祈りだけでは渇きが満たされない――少しずつ、彼らは血を求めるようになった。
最初は獣の血になり、次に、人の血になり、そして血そのものに祈りの意味を重ね始めた。
血を捧げれば、月へ近づける。
渇きは試練であり、飢えは祝福への階段である。
痛みも、狂気も、すべて月に至るための儀式なのだと。
――それは呪いなのだと。
誰かが作ったものかもしれない。
長い飢えが生んだものかもしれない。
あるいは、一族自身の願いが歪んで形を持ったものかもしれない。
だが、どちらにせよ、彼らは壊れ始めていた。
私は月影の巫霊として呼ばれた。
浄化し、鎮め、必要なら封じるために
そう、救うために――けれど、救えなかった。
「あなたはまだそういう顔をするのね」
姫の声で、私の意識が現在へ戻る。
玉座の上で、姫は静かにこちらを見ていた。
深紅の瞳は冷たく、その奥底には消えきらない熱があった。
「痛そうな顔。悔いている顔。わたくしを忘れていない顔」
「私は、忘れたことはありません」
「なら、どうして来なかったの?」
その問いは鋭く、私は一瞬、答えられなかった。
彼女、一族を封じた後、何度も考えてしまった――あれでよかったのかと、もっと別の方法があったのではないかと、姫を眠らせるのではなく、手を取ることはできなかったのかと。
けれど、あの時の私にはできなかった。
血に染まった城に月光を浴びて倒れる夜の一族。
笑いながら泣く者たち、救いを求めながら、差し出された手に噛みつく者たち。
そして、玉座の前で立っていた姫。
彼女は泣いていなかった。
助けてとも言わなかった。
ただ、深紅の瞳で私を見ていた。
――私を見捨てるの、セレネ?
そう聞かれた気がした。
私は止めた、止めるしかなかったのだ。
月光の封印で、姫の時間を閉じた。
血の渇きごと、狂いかけた夜ごと、月の奥へ沈めた。
それが正しいと信じた、少なくともそうするしかなかった。
――だが、完璧ではなかった。
封印は救済ではない。
眠らせることは、手を取ることとは違う。
止めることは、生きる道を示すことではない。
私は、それを知っていた。
「私は……あなたを救えませんでした」
私は静かに答えた。
大広間に声が落ち、赤い月光の中で、吸血鬼姫の瞳が細くなった。
「……ええ。そうね」
「あなたの一族も、すべては救えなかった」
「知っているわ」
「私は、正しい選択をしたのかもしれません。あのままでは、あなたは完全に血に呑まれていた……夜の一族はさらに多くを巻き込みながら最後には自分たちの名すら失っていたでしょう」
「でしょうね」
姫はあっさり認めた。
その淡さが、私の胸をさらに締めつける。
「けれど、それは私の正しさです。あなたの救いではなかった」
ようやくその言葉を口にできた。
あの時からずっと、胸の奥に刺さっていたもの。
ノアに出会い、救われ、それでもなお消えなかった月の傷。
「私はあなたを止めました。封じました。あなたから選ぶ時間を奪いました」
「……」
「それは、今でも私の罪です」
私の言葉を聞きながら、姫はしばらく何も言わなかった。
ただ、玉座の上から私を見ていた。
その視線は冷たく、だが、どこか揺れていた。
「今さら認めるのね?」
「はい」
「謝るの?」
「謝罪で済むことではありません」
「そうね……謝られても、何も返ってこないもの」
その言葉はひどく静かで、私は頷く。
「はい」
「わたくしの夜も、月も、一族も、あの時のわたくしも」
「はい」
「全部、返ってこない」
「……はい」
自分自身の胸が痛む。
それでも、目を逸らしてはいけない。
これは過去だ。
けれど、これは終わっていない過去なのだ。
そして彼女がここにいる以上――私は向き合う必要がある。
逃げることはできない。
ノアの後ろに隠れることもできない。
だからこそ、前に進まなければならない。
「ですが……だからといって、今の主を差し出す理由にはなりません」
私は真っすぐに彼女に目を向け、それと同時に空気が変わった。
姫の深紅の瞳が、わずかに鋭くなる。
「……主」
「ええ」
私はノアの背を見た。
彼は振り返らない、そもそもそういう性格の人ではない。
だけど、こちらに耳を傾けているのも事実。
いつでも動けるよう準備をしながらも、それでも私の言葉を待ってくれている。
あの人は、いつもそうだった。
私に、まだ死ぬなと言った。
面倒だと言いながら、手を離さなかった。
罪を聞くと言い、過去ごと抱えている私に対して、それでも契約してくれた。
だから今度は、私が自分で立たなければならない。
真っすぐに、しっかりと――ノアを守る、大切な”召喚獣”として。
「あなたを救えなかった罪は、私のものです……けれど、ノアは違います。今ここにいるこの方を、私の罪を理由に奪われていい存在ではありません」
「……やっぱり、あなたはまた守る側に立つのね」
「はい」
今度は迷わなかった。
「私は、守ります。これからも、ずっと」
「わたくしを封じた時のように?」
「いいえ」
私は静かに首を横に振る。
そして、笑顔で答えた。
「あの時と同じではありません……私はもう、一人ではありませんから」
その言葉に、姫の表情が初めてはっきりと変わった。
怒りではなければ、寂しさでもない――もっと鋭く、深いものだ。
静かに、ゆっくりと、彼女は頬杖を解いた。
「……そう」
静かに呟く声と共に、白い指が玉座の肘掛けから離れる。
細い身体が、月光の中でゆっくりと動く。
――小柄な少女が、ついに立ち上がった。
それだけで、大広間の空気が一段重くなる。
赤い月光が彼女の背後で濃くなり、棺に絡む薔薇が音もなく開いていく。
床の血色の紋様が脈打ち、白い炎の中の赤が強く揺れた。
姫は玉座の前に立ち、私だけを見ていた。
「なら今度こそ、終わらせましょう」
その声は冷たく、優雅で、どこか泣きそうなほど静かだった。
次の瞬間、大広間の月が赤く染まった。
ついに100話超えました!本当にありがとうございます!!
読んでいただきまして、本当にありがとうございます。
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