第101話 吸血姫の夜
大広間の月が赤く染まり、その瞬間、空気が変わる。
ただ魔力が濃くなっただけではない。
場所そのものの性質が塗り替えられていくような感覚だった。
床に刻まれた月と薔薇の紋様が赤く脈打ち、壁のステンドグラスから落ちる光が、血の幕のように広がっていく。
燭台の炎が白から赤へ変わり、棺に絡みついていた薔薇が音もなく開きながら花弁の奥から薄い血霧がこぼれた。
少女は、玉座の前に立っていた。
見た目だけなら、こちらが武器を向けることを躊躇うほど儚い――が、違う。
彼女が立ち上がっただけで、大広間全体が彼女のモノになった。
「……ヴィーシャのような感じじゃねぇな」
思わずそのように呟いてしまった。
ヴィーシャのような圧ではない――あの女は嵐のような存在だった。
こちらの骨を砕き、血を沸かせ、命を削ることすら楽しむ熱そのモノ、俺との戦いを楽しむ女だ。
しかし、目の前の少女は違う。
静かで、冷たい。
だが、そこにいるだけで逃げ場を奪う。
敵が襲ってくるのではなく、まるで夜の世界そのものがこちらを包み込み、ゆっくり首を絞めてくる。
「……ルクス、前に出すぎるなよ」
「ええ、そのつもりです」
「セレネ」
「はい」
「お前が中心になれ、いいな?」
俺がそう言うと、セレネは一瞬だけこちらを見た。
淡い紫の瞳が、赤い月光を受けて少し揺れているが、先ほどまでのような迷いは薄れていた。
「はい、ご主人様」
俺の言葉に対し、セレネが一歩前へ出る。
白い衣が月光を受け、足元に淡い光の輪が広がった。
それは吸血鬼姫の赤い夜に対抗するように、静かに、けれど確かに広がっていく。
白い月光と赤い血霧が、床の上でぶつかった。
音はなく、ただ空気が震えた。
姫が眠たげに目を細める。
「……前に出るのね」
「ええ」
「昔は、もっと迷っていたのに」
「今も、迷っています」
セレネは静かに答えた。
「ですが、退きません」
「……そう」
少女の唇がわずかに動く。
微かに動かしながら、紅い瞳が静かに揺らいだ。
「――なら、少しだけ遊びましょう」
言葉が終わる前に、血霧が広がった。
速い、というより、避ける場所がなかった。
床から、壁から、棺から、薔薇から――大広間のあらゆる場所から赤黒い霧が立ち上がり、こちらの足元を飲み込もうとする。
俺はすぐに黒星を撃った。
銃声が響き、それと同時に黒い弾丸が血霧の流れを貫き、魔力の束を一つ断つ。
だが、霧は消えない。
断たれた部分を別の流れが埋める。
やはり本体を撃つだけでは足りない。
これは空間支配――この大広間全体が、彼女の夜として機能している。
「セレネ、右側の燭台!」
「はい!」
セレネが指を振ると白い月光が細い弧を描き、右側の燭台を包み込むと同時に赤い炎が一瞬だけ白く戻り、その周囲の血霧が薄れ――隙ができる。
「ルクス、そこを押さえろ!」
「承知っ!」
ルクスが白銀の影となって動くと同時に、爪が床を掠めて血霧の流れを裂いた。
だが、次の瞬間、霧の中から無数の蝙蝠が湧き上がる。
黒い翼と、赤い目、口元から見える小さな牙が見え、明らかにただの蝙蝠ではない。
一匹一匹がまるで血の塊に近い。
ルクスが爪で薙ぐと、蝙蝠は霧に戻り、すぐ別の場所で形を取り直す。
「しぶといな……っ」
「本体ではありませんから」
そのように、セレネが言った。
彼女の言葉は落ち着いているが、顔はどこか引きつっている。
少女が触れるたび、彼女の魔力がわずかに揺れ、俺はそれを見る。
今回は、セレネが主戦力だ。
この戦いで正面から押し返せるのは彼女しかいない。
俺が無理に前へ出れば、ただ足を引っ張る――今の身体ではなおさらだ。
だからこそ、俺の役目は違う。
今度は、俺が支える側なのだから。
「セレネ、正面は見るな。そうだな……月を見ろ」
「……月を?」
「あいつ本体じゃなくて、この場の支配点だ。赤い月が一番濃い」
少女の背後――高窓の向こうにある偽りの赤い月、あれがこの空間の中心に近い。
セレネは一瞬で意図を理解した。
「なるほど……分かりました」
次の瞬間、彼女の足元に白い月輪が生まれる。
淡く、静かで、清らかな光――それが床を這う血霧を押し返しながら、赤い月光へ向かって伸びていく。
少女の深紅の瞳が、少しだけ細くなった。
「……あなたの月で、私の夜を侵すのね」
「この夜は、あなた一人のものではありません」
「――いいえ」
少女が手を上げる。
「ここは、私の夜よ」
赤い月光が一気に濃くなった。
視界が歪み、大広間の壁が遠ざかっていき、玉座が近づく。
そのまま床の絨毯が赤い水面のように揺れ、足元が沈む錯覚が走った。
――幻覚だ。
分かっていても、身体が一瞬反応する。
肺の奥に甘い匂いが入り込み、意識の輪郭がぼやけかけた。
「……っ」
俺は奥歯を噛み、黒星を自分の足元へ撃った。
魔力の流れを断つと同時に幻覚の膜が一瞬だけ破れる。
「ノア!」
「平気だ。前を見ろ」
セレネが振り返りかけたのを、声で止める。
今、彼女の意識をこちらに向けさせるわけにはいかない。
多分だがあの少女はそれを狙っている。
大切なものから奪う――その言葉通りに彼女はセレネの視線を揺らそうとしている。
俺を傷つければ、セレネは揺れ、守ろうとする。
その隙に、少女は彼女の夜を広げる――ある意味、嫌な戦い方だ。
正面からぶつかってくるヴィーシャとは真逆だ。
あいつなら、俺を見て笑いながら斬りかかってくる。
だが、あの少女は違う、こちらの感情の隙間に霧のように入り込む。
「黒星っ!」
俺はもう一発撃つ。
今度は左奥のステンドグラスにめがけて赤い光を強く落としている一点を撃ち抜いた。
硝子が割れる音はしない――だが、赤い光の流れが一瞬乱れる。
「セレネ、今だっ!」
「はい」
彼女自身の白い月輪が広がる。
セレネの手から放たれた月光が、血霧を裂き、赤い蝙蝠の群れを浄化していく。
彼女は動かず、ただ、玉座の前に立ったまま気怠げにこちらを見ている。
まるで、自分の指先を少し動かすだけで十分だと言わんばかりに。
実際、それで十分だった。
彼女の影が伸びる。
床を這い、壁を登り、天井から垂れ下がる。
その影が形をとり、細い手となってセレネの足首へ絡みつこうとした。
「下だ!」
俺が言うより早く、セレネは月光を落とした。
影の手が白い光に焼かれ、音もなくほどける。
だが、次の影が来る。
三つ、五つ、そして十――数が多すぎる。
「ルクス、右半分を抑えろ。俺は左を見る」
「はい、承知しました」
俺の言う通りに、ルクスが右へ走る。
白銀の風刃が影を裂き、血霧を押し返した。
俺は息を吸い、白雨を構え、発砲した。
白銀の弾丸を壁へ撃ち、反射させ、直線では届かない影の根、角度を変えて撃ち抜く。
白雨の弾丸が跳ねるたび、影の手が崩れた。
だが、少女の表情は変わらない。
「器用ね」
彼女が俺を見る。
「でも、あなたでは足りない」
「ああ、わかってるさそんなの――だから、俺が倒すつもりはない」
俺のその言葉に、少女の瞳がわずかに動いた。
俺はセレネを見る。
「セレネ」
「はい!」
「俺とルクスが道を作る。お前が押し返せ!」
セレネの表情が、ほんの少しだけ変わる。
普段なら、彼女が俺を支える。
俺が前に出て、彼女が治癒し、守り、整える。
しかし、今回は違う。
セレネが前に出で、俺はその道を作る。
――それでいいんだ。
いや、今回はそうでなければならない。
セレネが一歩前へ出た。
白い月光が彼女の足元から広がり、赤い霧を押し返す。
髪が浮き上がり、淡い紫の瞳が、少女を真っ直ぐに捉えた。
「――姫」
セレネが静かに呼ぶ。
「私は、あなたを忘れませんし、自分の罪も永遠に忘れるつもりはありません」
「忘れないだけ?」
「でも今回は、何があっても引きません」
白い月輪が大きくなり、少女の赤い夜と、セレネの月光が大広間の中央でぶつかった。
空気が震え、床の紋様が割れるように光り、棺の薔薇が赤い花弁を散らす。
ステンドグラスに描かれた白い影と眠る少女が、歪んだ光の中で揺らいだ。
少女は、その光景を見ていた。
そして、ほんの少しだけ表情を変える。
笑ったのか。
泣きそうになったのか。
それは、判断できない顔だった。
「あなたは、いつもそう……正しくて、優しくて、最後には残酷な事をするのね、そこは変わらない」
そこで、少女はゆっくりと片手を胸元へ添えた。
それは芝居がかった仕草ではなかった。
王族が、自らの名を告げる時のような、静かで当然の動作だった。
「私の名は、エルヴィーラ・ルナ・ヴェルミリア」
その名が大広間に落ちた瞬間、空気が震えた。
名前そのものに、血と月の魔力が宿っている。
床の月紋が一斉に赤く脈打ち、棺に絡む薔薇が音もなく花開き、ステンドグラスに描かれていた眠る少女の絵がほんの一瞬だけこちらを見たように感じた。
「……真名に近い響きです、主」
「ああ」
ルクスの言葉の意味は俺にも分かった。
そしてこの空間そのものに刻まれた支配権のようなものであり、彼女が名乗った事で大広間はさらに強く“夜”へ変わった。
赤い月光が、少女――エルヴィーラの周囲でさらに濃くなり、血霧が彼女の背後に翼のように広がった。
その姿は、美しかった。
美しく、冷たく、ひどく寂しい。
エルヴィーラはセレネへ向けて、静かに言った。
「あなた、また私を救わないのね」
その一言でセレネの月光が一瞬だけ揺らいだ。
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