第97話 玉座の間へ
眷属の残滓が消えたあとも、回廊にはしばらく血の匂いが残っていた。
血の匂いが微かに俺自身の鼻に感じているが、今はそんな事を考えている場合ではない。
俺は黒星と白雨を握ったまま、奥へ続く回廊を見た。
眷属は倒したが、油断はできない。
セレネの言う通り、この眷属たちがただの誘いだったと言うのであれば。
最後には残滓に残された映像と、あの声にならない呼びかけ。
――来て。
それは、明らかにこちらを誘っていた。
いや、正確には俺ではなく、セレネを。
「……行くぞ」
「はい」
俺が言うと、セレネは静かに頷いた。
セレネのその返事はいつも通りに聞こえるが、やはり声が固く感じる
緊張しているのだろうか――しかし、そんな事を言っても、セレネに声をかける事が出来ない。
声をかけたところで、俺が彼女を助ける事は出来ないからだ。
――回廊の奥へ進む。
石畳に刻まれていた月の紋様は、次第に細かくなっていく。
最初は単純な満ち欠けだったものが、やがて複雑な紋章へ変わる。
月と薔薇と杯と棺。そして祈る手と、血を受ける器がある。
どれも美しいが、美しさの奥に悪意のようなモノがあるように見える。
「丁寧に、作られているな」
「ええ、そうですね……まるで――」
「迎えるため、それとも、見せつける為、でしょうね……」
セレネはルクスと俺の言葉を遮るかのように、笑いながら答えた。
誘いこまれている。
それは、間違いない。
この奥に行くと、一体どんな”絶望”が待っているのか、俺には理解出来ない。
しかし、セレネは変わらないいつもの表情を見せているが、無理をしているようにも見えるので、俺は呟いた。
「うん……嫌な趣味だな」
「同感……」
「あら、ルクス。あなたも同じような事を考えるのですね?」
「……セレネ、勘弁してくれないか?」
「フフ」
二人の会話の意味はどういう意味なのか、俺は理解出来なかった。
ルクスは半歩前を歩く。
気配を探りながら、いつでも俺とセレネの前へ出られる位置を保つように。
銀髪の間から覗く耳は立ったまま、尾は静かに揺れ、ただし、その揺れ方は機嫌が良い時のものではないとわかっている。
俺はルクスに声をかける。
「ルクス、匂いは?」
「奥へ行くほど薄くなっています」
「薄く?」
「はい。ですが、消えたわけではありません。寧ろ場所そのものに馴染みすぎて判別しにくい」
「なるほど、つまり奥の方が本命か?」
「私は、そのように見てます」
ルクスの言葉に、俺は頷いた。
そして次の瞬間、回廊の雰囲気が変わる。
石の壁が滑らかになり、赤黒い薔薇の装飾はより精巧になる。
床には長い絨毯が敷かれていた。
その色は、深い赤――血の色に近いが、安っぽいものではない。
まるで、古い貴族の屋敷にでもありそうな、厚く、重く、足音を吸う絨毯。
その上を歩くと、靴音が消えた。
完全な無音はなく、だが、同時に自分自身の足音だけが遠くなる。
まるで、ここから先は声も音も全て許可がなければ響いてはいけないと決められているように。
左右には燭台が並んでおり、そこに銀の燭台がある。
細く長い蝋燭の炎は、赤ではなく白い。
その白い炎の芯にだけ、小さな赤が揺れ、炎なのに温かさはなく、近づくほど肌が冷えた。
壁には血色のステンドグラスが嵌め込まれていた。
赤と白の硝子で作られたそれは、月光を受けて床に歪んだ模様を落としていた。
これは、ただの装飾ではない。
そこには、一つの物語のような場面が描かれていた。
夜空の下で、何人もの人影が膝をついている。
彼らは祈っているようにも、何かを差し出しているようにも見えた。
その中心には、月へ向かって杯を掲げる女の姿があった。
杯の中には赤い液体が満ちており、硝子越しの月光を受けて、まるで本物の血のように輝いていた。
さらにその奥――赤い薔薇に囲まれた場所で、一人の少女が眠っている。
長い髪を広げ、棺にも寝台にも見えるものの中で、静かに目を閉じていた。
そして、その少女へ向かって手を伸ばす白い影が描かれている。
顔までは分からない。
けれど、長い白銀の髪と、月光を思わせる衣。
それが誰を示しているのか、聞くまでもなかった。
その白い影は、少女を救おうとしているようにも見えた。
あるいは、少女から何かを奪おうとしているようにも見えた。
どちらにせよ、その姿が誰を示しているのか、聞くまでもなく、俺は足を止めた。
「……セレネ」
「……」
俺が呼ぶと、セレネも同じステンドグラスを見ていた。
静かに、真っ直ぐに。
そして、俺は思った事をセレネにぶつけた。
「悪趣味だな」
「ええ……本当に」
その声には、珍しくはっきりとした嫌悪があった。
少し嫌そうな顔をした後、悲しそうな顔で呟いた。
「これは……真実ではありません」
「ああ、分かってる」
「私は……あのように美しく手を伸ばしたわけではありません」
セレネはステンドグラスを見上げたまま言う。
「あの時の私は、ただ必死で、怖くて、何も選べなかっただけです……」
「それでも止めたんだろ?」
「それは、止めることしか、できなかった、から……」
セレネは途中、何か喉に詰まってしまうぐらい、切羽詰まった言葉だったのかもしれない。
正しさと救いは、いつも同じではない――それは俺も知っている。
正しかったとしても、残る痛みは消えない。救えなかったものは、いつまでも形を変えて戻ってくる。
今、目の前にあるこの城のように。
「……行こう、セレネ」
「はい」
とりあえず、俺たちは再び歩き出した。
絨毯の先には、さらに広い廊下が続く。
そこにはもう魔物の気配はなかった。
眷属も、影も、霧も出てこない――それが逆に不気味だった。
先ほどの眷属は、本当に門番でしかなかったのだろう。
ここから先は、邪魔をする必要がない。何故なら招かれているからだと思う。
奥へ進むほど、建物はダンジョンではなくなっていく。
壁の造りは古城、床の絨毯は貴族の居館、そして窓の外には偽物の夜空と、赤く濁った月。
どこかに人が住んでいた気配さえあるかのように。
花瓶には赤黒い薔薇が活けられ、机の上には飲まれないまま置かれた杯がある。
壁際の椅子には埃がない。
燭台の炎は誰かが今しがた灯したかのように整っている。
――それなのに、人の気配はない。
生活の形だけが残り、そこに生きる者だけが抜け落ちている。
まるで、居城そのものが眠っていて、主が目覚める時を待っているようだった。
「――主」
ルクスが足を止め、睨みつけるように呟いた。
「この先です」
「ああ」
――分かっている。
回廊の終わりに、大きな両開きの扉があった。これまでの扉よりもさらに大きい。
黒い木材に銀の装飾が施され、その中央には赤い月と薔薇の紋章が刻まれて、扉の左右には棺を模した石像が並んでいた。
――役者は全て揃っている、ということか。
俺は短く息を吐き、黒星と白雨を握り直すと同時に体の奥に残る疲労が、じわりと重くなる。
自分の体はまだ本調子ではないからこそ、無理は禁物。
無理をしてしまったら、俺ではなく、乃亜が傷ついてしまったら、意味がない。
再度、セレネを見る。
「セレネ」
「はい」
「ここからだ、大丈夫か?」
「……ええ」
セレネの横顔は静かだった。静かすぎるほどに。
だが、その肩がほんの少し強張っていることに気づいたので、俺は彼女の前に出るのではなく、隣に立った。
「一人で前に出るなよ」
「……ノアこそ」
「俺は最初から一人で行く気はないし……」
そう言うと、セレネは一瞬だけこちらを見た。
淡い紫の瞳が揺れ、それから、ほんの少しだけ笑った。
セレネと俺の前に、ルクスが静かに前へ出る。
白銀の気配が広がり、扉の向こうの圧を受け止める。
その瞬間、扉が音もなく開いた。
重い扉が開いたのに、軋む音すらない。
ただ、まるで客人を迎え入れるように、静かに、滑らかに左右へ開いていく。
その先にあったのは、大広間だった。
高い天井と赤い絨毯、左右に並ぶ無数の燭台。壁一面には血色のステンドグラスが広がり、そこから偽りの月光が差し込んでいる。
そして広間の奥には、玉座があった。
黒く、細く、棘のような装飾を持つ玉座。
その背後には大きな高窓があり、赤く濁った月がまっすぐそこから覗いており、月光は玉座を照らし、床へ長い影を落としている。
――玉座の前には、棺があった。
白い石で作られた棺は蓋は半ば開いており、その縁には赤い薔薇が絡みついている。
棺の内側から、薄い霧がこぼれ、血の匂いが充満していた。
同時に俺は、ここがただのダンジョン最奥ではないと確信した。
彼女は、誰かを迎え入れようとしている。
そして、その誰かは――。
「……ノア」
セレネの声がした。
静かに、けれど明らかに強張っている。
俺は棺の方へ視線を向けた瞬間、白い霧が揺れた。
ゆっくりと白い霧の中から何か、人型のような姿が見えたのは気のせいだと思いたかった。
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