第96話 血に濡れた眷属
大扉の奥へ進むと、空気の質が変わった。
先ほどまでの回廊にも血の匂いはあるのだが、それは壁や床に染みついた古い記憶のように見える。
薄く、広く、逃げ場のない匂い――しかし今、鼻先を掠めるそれはもっと生々しい。
誰かが、つい先ほどまでここで血を流していたような匂いのようい感じてしまった。
石造りの長い回廊。
左右の壁には赤い燭台が並び、炎は青白く揺れている。
床には月と薔薇の紋様が刻まれていたが、その溝の一部に赤黒い液体が溜まっている。
血に見える――だが、それが本物の血なのか、魔力なのかは分からない。
天井は高いはずなのに、圧迫感がある。
まるで見えない何かが上からこちらを見下ろしているようだった。
「……いるな」
俺が呟くと、ルクスが小さく頷いた。
「はい。ですが、位置がずれます」
「霧か?」
「近いですね……匂いがあるのに、身体がない」
――厄介な相手、なのかもしれない。
前の世界でも、血や霧を媒介にする魔物は面倒だった。
単純に斬れば倒れる獣とは違う。
実体をぼかし、傷を逃がし、こちらの感覚を狂わせる。
しかも、この場所そのものが敵に近い。
吸血種の眷属がいるなら、地の利は完全に向こうにある。
「……セレネ」
「はい」
「今、浄化は使えるか?」
「一応使えます。ただ、この場所では少し重く感じますね」
「そうか、じゃあ無理はするな」
そう言うと、セレネはほんの少しだけ目を細めた。
「……さっきから無理はするな、と言う言葉ばかりですね」
「今のお前には必要だろ」
「……ええ。そうですね、そうかもしれないです」
彼女はその言葉に対し、否定しなかった。
それだけで、やはり普段とは違うのだと分かる。
その時――回廊の奥に立ちこめていた赤黒い霧が、ゆっくりと人の形を取った。
最初は影のようだった。
だが、次第に輪郭が定まっていき細い手足と長い髪が現れる。
顔は見えないが、目だけが赤かった。
それは、人間の少女にも見える。
だが、人間ではなく、首筋から胸元にかけて黒い血のようなものが流れ続けており、床に落ちるたび霧へ変わっていた。
「眷属かっ!」
俺が言うと、セレネが静かに頷いた。
「おそらく。完全な吸血種ではありません。血と影で作られた使い魔に近いものです」
「斬って死ぬか?」
「すぐには」
「すぐに死んではくれないのか、厄介だな……」
そんな事を呟いていた瞬間、眷属が消えた。
いや、消えたように見えただけだ。
赤い霧が床を滑り、次の瞬間には俺の横合いに回り込んでいる――速い。
「主!」
ルクスが動いた。
白銀の爪が横から振るわれ、眷属の身体を裂く。
だが、裂けたはずの傷口から血霧が噴き出しすぐに肉の形へ戻ろうとする。
「マジか、しぶといぞこれ」
俺は一歩下がりながら、袖で口元を覆う。
眷属が纏う霧の中に、微かな甘い香りが混じっている。
それは、花の香りに似ていたが、吸えば頭の奥が鈍る類のものだ。
魅了なのか幻覚なのか――どちらにせよ吸うべきではない。
「ルクス、匂いを嗅ぐな……嫌な感じがする」
「承知」
「セレネ、霧を薄めろ。完全浄化じゃなくていい」
「はい」
俺の言葉に対し、セレネが白い指を伸ばす。
次の瞬間、月光が細い糸のように広がりはじめ、同時に床を這う血霧に触れた。
赤黒い霧が、じゅ、と小さな音を立てて薄れる。
その時、眷属が初めて反応した。
赤い目がセレネへ向く。
それは敵意というより、命令に従って対象を確認したような目だった。
しかし、次の瞬間、眷属の輪郭がぶれた。
回廊の壁に、いくつもの影が映る。
一体だったはずの眷属が、三体、四体と増えたように見えた。
だが、気配は一つ、間違いなくそれは幻覚だ。
「目で追うな、ルクス」
「匂いも散っています」
「なら難しい事をいうが、音で拾え」
「本当に難しいですねそれ……あなたが言うなら従いましょう
ルクスはそのように言った後、意識を集中するかのように眼を鋭くさせる。
同時に、俺は短く息を吐く。
目の奥が少し重く感じる。
もしかしたらこの霧の影響が、しかし完全には遮断できていない。
状態異常への対策が必要だ。
力押しで行く相手ではないと考えた俺は、両手の指を軽く鳴らした。
「――契約武装、解放」
俺は右手を前へ出した。
「顕現しろ――黒星、白雨」
掌の中に、黒と白の光が宿り、次の瞬間、二丁の拳銃が現れた。
ヴィーシャの時に握ったが、相変わらず掌へ馴染む。
今の身体では無茶はできないが、近づかれる前に崩すなら、これがいい。
「セレネ、眷属の核は?」
「胸ではありません。血霧の中に散っています」
「……やっぱり、面倒だな」
「ですが、繋ぎ目はあります」
「それを早く逝ってくれ、場所は?」
俺の言葉に対し、セレネがわずかに目を細める。
そしてそのまま、セレネはある場所に目を向けた。
「……左奥の影。薔薇の紋様の上です」
「よし、分かった」
俺はそのまま黒星を向けると、眷属の幻影が一斉に動いた。
赤い爪が伸び、霧が回廊を満たし――俺は、撃つ。
次の瞬間、黒星の弾丸が闇を裂き、左奥の影を貫いた。
乾いた銃声が石壁に跳ねた。
弾丸はただの魔力弾ではない。
血霧の流れを束ねていた見えない糸を撃ち抜く。
眷属の動きが一瞬止まった。
「――ルクスっ!」
「承知」
白銀の影が走り、ルクスの爪が眷属の胴を裂いた。
今度は傷口がすぐに塞がらない。
血霧が漏れ出し、形が崩れる。
だが、まだ終わらない――崩れた眷属の口元が、笑った。
音もなく、赤い霧が俺の足元から立ち上る。
そのまま視界が一瞬、別の景色に塗り替わる。
月の湖で傷だらけのセレネ。
そこに赤い瞳の少女の影が映る。
「……幻覚か」
思わず奥歯を噛みしめてしまう。
その光景は、まるでセレネの過去を映しているかのように――本当に嫌な手だと実感する。
「ノア!」
セレネの声が響いた。
白い月光が俺の周囲を包み、赤い幻が割れる。
視界が戻った瞬間、眷属の爪が目前にあった。
俺は急いで白雨を横へ撃つ。
白銀の弾丸が壁に当たり、角度を変えて跳ね、そのまま眷属の腕を横から撃ち抜いた。
爪が逸れ、頬を浅く掠めたが、致命傷ではない。
「主!」
「ああ、平気だ」
「平気ではありませんよ!」
「悪い、後で色々と聞くから、今はやめてくれ……」
そのまま、俺は続けて黒星を撃つ。
今度は足元に、床に広がる血霧の中心を穿つ。
同時にセレネが浄化の光を落とした。
白い月光が赤黒い霧を焼き、眷属の身体が大きく歪んだ。
人の形が崩れ、霧になり、薔薇の花弁のような血の欠片が宙に散る。
それでもまだ再生しようとしている。ばらばらになった欠片が、互いに引き寄せ合うかのように。
「……しつこいな」
俺は白雨を上へ向けて撃った。
弾丸が天井近くで弾け、複数の軌道に分かれ、雨のように降る白銀の弾が再生しかけた血の欠片を一点ずつ撃ち抜いていく。
最後に残った核のような赤い雫へ、黒星を向けた。
「終わりだ」
銃声の音が再度響き、同時に赤い雫が砕けた。
音が途切れた後、回廊に静けさが戻る。
血霧が薄れ、甘ったるい香りも消えていく――だが、完全には消えていないだろう。
砕けた眷属の残滓が床へ落ち、月の紋様の上で小さく震えている。
セレネがそれを見つめた。
「これは……」
「何か分かるか?」
「これは、伝令です」
「伝令?」
首を傾げる俺に対し、セレネは膝をついて残滓に触れない距離で手をかざす。
白い光が滲み、赤黒い残滓の中に小さな映像のようなものが浮かんだ。
浮かんだのは月光の玉座と、赤い薔薇。
そして、こちらに背を向けた小さな影。
長い髪をした少女の姿。
深紅の瞳だけが、振り返らずにこちらを見ている気がしてならない。
残滓が、声にならない声を漏らす。
――来て。
俺の背筋に冷たいものが走る。
まるで、俺たちを試しているかのように。
セレネが小さく息を吐く。
「……やはり、誘われています」
「俺たちをか」
「いいえ違いますよ、ノア」
セレネの目が、奥の回廊へ向かう。
「私を、誘っているんですよ」
静かに笑いながら、セレネは答えた。
その言葉を聞いて、俺はきっと、嫌な顔をしていたに違いないだろう。
その顔を見て、セレネは再度、笑ったのだった。
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