第95話 セレネの動揺
扉の隙間から漏れ出した気配は、冷たいのだが、冷たいだけではない。
肌を刺すような寒気の奥に、血のような生ぬるさが混じっている感覚がしてしまった。
月光に濡れた刃を、ゆっくり首筋へ押し当てられているような感覚――俺は扉を見たまま、短く息を吐く。
黒い鉄と赤黒い薔薇で飾られた大扉。
その向こうに何があるのかは、まだ見えない。
けれど、そこから漏れてくる魔力の質は、明らかにここまでの回廊とは違っていた。
薄く漂っていた血の匂いが、少しだけ濃くなる。
床に刻まれた月の紋様が、淡く赤く脈打った。
「ルクス」
「はい」
「中にいるか?」
「複数の気配があります。ただ……」
ルクスの声が、珍しく少し曇る。
「先ほど同様に捉えにくい、色々な匂いがして正直気持ち悪い感じです」
「……嫌だな、それ」
「私も嫌ですよ」
ルクスはそう答えながらも、視線を一瞬だけセレネへ向け、俺もそちらを見る。
セレネは扉を見ている――いつものように穏やかな表情を保ってはいる。
だが、明らかにおかしい。
呼吸が浅い。
指先が袖の内側で小さく震えており、何より、普段なら真っ先に周囲の魔力を読み取り、危険の種類を整理して伝えるはずの彼女が、何も言わない。
――ただ、見ている。
扉の向こうから漏れる月血の気配を、まるで目を逸らせないもののように。
「セレネ」
呼ぶと、彼女はわずかに遅れてこちらを向いた。
「……はい、ノア」
振り向いて、声をかけたが表情が明らかにおかしい。
セレネが揺れている、ように見える。
「……大丈夫か?」
俺は一応聞いてみると、彼女はすぐに笑った。
いつものように、柔らかく、静かに。
だが、その笑みは薄い氷の上に乗っているように見えた。
「……ええ、問題ありません」
「嘘だな」
「……ノア?」
「お前が問題ない時はもっと色々と話をしてくるだろう?今日は全然じゃないか」
俺の言葉に対し、セレネは言葉を止めた。
ルクスが何も言わずに周囲を警戒している。
だが、耳だけはこちらへ向いていた――こいつも気づいているのだろう、セレネが普段とは違うことに。
「遅れてるぞ、セレネ」
「……」
「月の紋様に反応しているし、血の匂いにも……あの変な扉を見てから、呼吸も浅い」
「よく……見ていますね」
「普段、お前に散々見られてるからな」
俺がそう返すと、セレネは一瞬だけ困ったように笑った。
けれど、すぐに目を伏せる。
「……申し訳ありません」
「謝れとは言ってない」
「ですが、私は本来、あなたを支える側です。このような場所で、私が揺れていては――」
「支える側だから揺てしまう、なんて決まりはないだろ?」
言うと、セレネの瞳がわずかに見開かれた。
俺は扉から目を離さず、続ける。
「お前は俺の仲間で、俺の家族で、召喚獣だ……お前は俺の道具じゃない」
「……」
「怖いなら怖いでいい。嫌なら嫌でいい。動けないなら、俺が動くぞ」
自分で言っていて、少し妙な気分になった。
いつもは逆、俺が無茶をして、セレネが止める。
俺が傷つき、セレネが癒す。
俺が人間不信の底へ沈みそうになるたび、彼女は静かに隣へ立ち、沈みすぎないように支えてきた。
――だが今は違う。
セレネが今、過去に引きずられそうになっている。
なら、今度はこちらが支える番なのだろう。
「……ノアは……本当に、ずるい男ですね」
「何がだ?」
「そういうことを、当然のように言うところが、ずるいです」
「それは……当然だろ?」
「ええ、だからずるいのですよノア」
そのように言った後、セレネは少しだけ笑った。
だが、その笑みにはまだ陰がある。
次の瞬間、扉の向こうで何かが動いた。
石の床を爪で撫でるような音、布が擦れるような音、そして遠い場所で誰かが笑ったような、微かな気配。
ルクスも腰を低く落とした。
「来るか?」
「いいえ」
今度は、セレネが先に答えた。
その声はまだ硬いが、少しだけ戻っている。
「誘っていますね」
「誘っている?」
「ええ。この先へ来い、と。逃げるな、と言っている感じがするのです」
「うわ、性格が悪いな」
「…………昔から、そういう子でしたから」
その言葉に、俺はセレネを見る。
セレネは自分で言ってから、わずかに目を細めた。
懐かしさもなければ、怒りでもない。
もっと複雑なものなのかもしれない。
そして俺は、そのセレネを知らない。
後悔していたのかもしれない。
痛みがあるのかもしれない。
そして、消え残った情があるのかもしれない。
その全部が、ほんの一瞬だけ彼女の横顔に滲んだ。
「……”姫”、か」
「まだ、あの子本人とは限りません」
「それでも、近いんだろう?」
「……はい、そうですね」
俺の言葉に対し、セレネは頷き、認めた。
その瞬間、床の月紋がさらに赤く光った。
回廊の壁に絡む薔薇が、音もなく開いていき、そのまま赤黒い花弁の内側から、血の雫に似た魔力が垂れた。
地面へ落ちる前にそれは霧になり、薄く広がり、そこから甘い匂いがした。
花の香りに似ている。
だが、嗅いだ瞬間に喉の奥がざらつく。
血と香料を混ぜ、長い年月を腐らせずに閉じ込めたような匂いだった。
「主、吸わないでください」
「ああ、分かってる」
俺は袖で口元を押さえる。
ルクスが風を起こし、周囲の霧を払った。
だが、霧は完全には消えず、床を這うように残る。
セレネが一歩前へ出た。
「セレネ」
「大丈夫です、だって――」
彼女は俺に視線を向け、静かに笑った。
「――あなたが、そばにいてくれるのでしょう?ご主人様」
何処か苦しそうな顔をしながら、彼女は笑っていたのだ。
白い指先が月光を掬うように動き、淡い光が彼女の手の中に集まり、霧の一部を浄化していく。
赤黒い霧は白い光に触れると、じゅ、と小さな音を立てて消えた。
しかし、その瞬間、セレネの肩がわずかに跳ねる。
「……っ」
「セレネ!」
「だ、大丈夫……問題、ありません」
「問題ない奴の反応じゃないぞ!」
俺は彼女の腕を掴んだ。
冷たい――まるで冷えたような体温だ。
「下がれ」
「ですが――」
「命令だ」
短く言うと、セレネは息を呑んだ。
彼女は俺を見る――驚きと、少しの迷い。
それから、ほんのわずかな安堵。
――本当に、珍しい顔だ。
「……はい」
セレネは一歩だけ下がった。
だが、俺の横に並ぶのではなく、半歩後ろへ。
その位置が、今の彼女の限界なのだろう。
「ルクス」
「承知」
俺の言葉を理解したかのように、ルクスが俺の隣へ出る。
白銀の気配が広がり、血の霧を押し返し、俺は扉へ向けて歩き出した。
そのまま俺とセレネ、そしてルクスの三人は大扉の前に立つ。
扉は、触れる前からゆっくりと開き始めた。
重い音はしない。黒鉄の扉が、まるで来客を迎えるように静かに左右へ割れていく。
その奥には、さらに長い回廊が続いていた。
先ほどよりも広く、天井も高い。
壁には赤い燭台。
床には月と薔薇の紋様。
そして、その奥から漂う気配は、先ほどよりも明確だった。
――ねえ、おいでよ。
誰かが、そのように呟いた声が聞こえた。
その声に反応したのは、セレネだ。
彼女は小さく息を呑み、そして珍しく感情を滲ませた声で、ぽつりと呟く。
「……嫌な子です」
その言葉には、怒りだけではない。
痛みと、懐かしさと、どうしようもない後悔が混じっていた。
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