第94話 月血のダンジョン
林の奥に開いた歪みは、普通のダンジョンゲートとは明らかに違っていた。
俺がこの世界で見てきたダンジョンの入口は、どれも黒い穴のように見えることが多かったのだが、今回は空間が裂け、奥に底の見えない暗がりが広がり、そこから魔力の濁りが漏れてくる。
多少の差はあっても、基本的には異物みたいなものは、口を開けているという印象だった。
だが、目の前のそれは違う――月光だった。
赤みを帯びた淡い白銀の光が、空間の裂け目から滲み出している。
穴というより、薄い布を縦に裂いた向こう側に、別の夜が広がっているように見えた。
裂け目の縁は黒く焦げているわけでも、歪んでいるわけでもない。寧ろ、奇妙なほど滑らかだった。
まるで最初からそこに扉があり、今になってようやく開かれたかのように。
冷たい風が吹く――だが、その冷たさの奥に、ほんの僅かに生ぬるいものが混じっていた。
それは、まるで血のように。
「……嫌な入口だな」
俺が呟くと、隣に立つセレネが小さく頷いた。
「……ええ、そうですね」
セレネの声は静かに響く。
だが、普段よりもずっと硬い。
いつものように笑ってはいるが、目だけが笑っていなかった。
ルクスは俺の半歩後ろにいる。
人型のままだが、耳は完全に立っており、尾の先が膨らんでおり――間違いなく、明らかに不機嫌だ。
「主、内部の匂いが読みにくいです」
「読みにくい?」
「血の匂いが薄く、広く、全体に染みています。獣や魔物の匂いではありません……いや、そもそも、血の匂いが染みついてい――」
「……なるほどな」
面倒だ――場所そのものが敵に近いタイプのダンジョンだろう。
俺は一度だけ背後を振り返る。
俺以外の人達は避難を始めている。
一応ルクスの影を残してあるとはいえ、完全に安心はできない――だが、ここで入口を放置すれば、もっと危険になる。
「――行くぞ」
「はい」
「承知しました」
セレネとルクスの声を聞いてから、俺は裂け目へ足を踏み入れた。
――一瞬にして、景色が変わった。
足裏に触れたのは、土ではなく石だった。それは硬く、冷たい。
視線を下げると、黒灰色の石畳がどこまでも続いている。
その石の一つ一つには、細い銀の線で月の紋様が刻まれている――それは、三日月、満月、欠けた月。
それらが規則的に並び、まるで祈りの道のように奥へ伸びている。
周囲は石造りの回廊だった。
高い天井と、古い城を思わせる壁。
壁面には柱が並び、その間に赤黒い蔦のような装飾が絡みついている。
よく見れば、それは薔薇だ、花弁は深い赤。
だが美しいというより、乾いた血が固まって花の形になったような色をしており、空気は冷たい。
なのに、肌の奥には妙な生ぬるさがまとわりつく。
血の匂いがした。
濃くはなく、寧ろ薄い。
だが、薄いからこそ逃げ場がない。
鼻を刺すのではなく、呼吸のたびに肺の奥へ溜まっていくような匂いだった。
「……これは」
俺は回廊の奥を見てみる事にした。
視線の先には直線に伸びる廊下の先は暗い。だが完全な闇ではなく、壁の燭台に青白い炎が灯っている。
炎は揺れていない。風がないのに燃えているのではなく、最初からそこに描かれた、まるで絵のような光だった。
「……普通のダンジョンではないな」
第一人称ははっきりと、そう思った。
この世界のダンジョンは、確かに異常だ。
地下洞窟、廃墟、森、遺跡、人工施設めいたもの、いろいろな形を取る。
だが、それでもどこか発生した空間という印象がある。
ここは違う。
まるでここには意思があるかのように。
誰かが美意識を持って、誰かを迎えるために整えた場所のような――つまり、待っていたかのように。
「――セレネ」
呼ぶと、セレネは少し遅れてこちらを見る。
「……はい」
「大丈夫か」
「……ええ」
返事はある。だが、いつもより一拍遅かった。
セレネは壁の薔薇を見ていた。
白い指先が、袖の中で小さく握られている。
目は穏やかだ。
しかし、その奥に明らかな緊張があった。
「それは、見覚えがあるのか?」
「……似ています」
「何に?」
「昔、月の祭殿へ続く回廊に似ています……」
そこで言葉が切れた。
セレネは自分で続きを飲み込む。
俺はそれ以上、すぐには聞かず、代わりに床へ視線を落とす。
月の紋様が刻まれた石畳。
その銀線の一部が、わずかに赤く濁っている。
踏んだ瞬間に反応する罠ではない。
もっと深い場所から、赤が滲んでおり、まるで、この城そのものに血が巡っているようだった。
「……主」
ルクスが低く言う。
「奥から複数の気配があります」
「……魔物か?」
「魔物、とは言い切れません。形が薄い。もしかしたら影か、残滓か……少なくとも生きた獣ではありません」
「それとも、このダンジョンの眷属とかいたりするのか?」
「その可能性が高いですね」
ルクスの言葉を聞いて、俺は小さく息を吐いた。
正直、身体はまだ回復していないことは自分でもわかっているので、このまま動けるかどうかわからない。
魔力の流れも鈍く、長期戦になれば不利だ。
――だが、ここは引くわけにはいかない。
この場所はセレネを呼んでいる。
それなら、俺はその隣に立つ必要がある。
セレネと契約してから、彼女に厄介ごとに巻き込まれる事を承知したのだから。
「進むぞ、良いな?」
「はい」
「わかりました」
三人は、そのままゆっくりと進む。
石畳を踏みしめ、回廊を進み、一歩ごとに、靴音がやけに響いた。
かつん、かつん、と。
音は真っ直ぐ奥へ伸びるはずなのに、途中で吸われるように消える。
外で感じた音が吸われる感覚と同じだ。
そして、壁の薔薇が、こちらを見ている気がした。
花弁の中心に小さな黒点があり、それが瞳のように見える。
ただの装飾だと分かっていても、気分がいいものではない。
しばらく進むと、回廊が開けた。
そこは小さな中庭のような場所だった。
しかし、空がなく、そして天井がない、と言うべきなのだろうか?
上を見上げると、暗い夜空が広がってのだが、その夜空は本物ではない。
月があった。
赤く濁った白い月。
祖父母宅から見上げた月よりも近く、大きく、そして偽物めいている。
表面には血管のような赤い筋が走り、ゆっくりと脈打っているように見えた。
「……偽モノの月か」
俺は呟いてしまった。
その月光が、中庭へ降り注いでいる。
石畳には大きな円形の紋様が刻まれ、中心には枯れた噴水があった。
噴水の皿には水ではなく、黒赤い液体が薄く溜まっている。
血に見える、だが、匂いは薄い。
それが逆に不気味だった。
セレネが息を呑む音がした。
「……セレネ?」
彼女は噴水ではなく、月を見ていた。
まるで、目を逸らせないように。
あるいは、何かを見つけてしまったように。
「この月は……」
セレネの声がかすかに震える、その反応だけで、十分だった。
まるで、この世界はセレネの記憶に触れるための構造だ。
彼女の過去をなぞり、痛みを引きずり出すために形作られて――嫌な趣味だな。
「主、気配が増えてます」
そのように言いながら、ルクスが前に出る。
回廊の奥、柱の陰、赤黒い薔薇の向こう。そこに薄い影がいくつも揺れた。
人型に見える、だが、人ではない。
輪郭が曖昧で、赤い目だけが月光の下で光っている。
まだ襲っては来ない。
こちらを見ているだけだ。
迎えに来たのか。
もしかして、監視しているのか。
それとも、奥にいる誰かへ知らせているのか。
俺は短く息を吐き、黒星を出そうと手を動かしたのだが、すぐにやめた。
今はまだ、相手の出方を見るべきだ。
「セレネ」
「……はい」
「無理なら下がれ」
「いいえ……これは、私が向き合うべきものです」
「おいセレネ、一人で、とは言ってないだろ」
そう言うと、セレネは一瞬だけ目を見開いた。
それから、ほんのわずかに笑う。
「……はい、ご主人様」
「私もいるぞ」
「そうですね、ルクスも居ましたね」
その笑みは儚く、俺とルクスの姿を見せ静かに笑ったのだった。
次の瞬間、中庭の奥にある大きな扉が、ひとりでに軋んだ。
黒い鉄と赤い薔薇で飾られた扉、その隙間から、さらに濃い月血の気配が漏れてくる。
セレネの表情が、明らかに強張った。
そして、小さく呟く。
「……この気配……」
その声と同時に、セレネの目は見開くのだった。
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