第93話 開かれる
裂ける音は、一度きりでは終わらなかった。
きし、と――遠くの空間が軋む音がしている。
硝子に細い罅が入るような音が、夜の奥から何度も響いてくるかのように。
祖父母の家の庭は、もう先ほどまでの庭ではなく、変わっていった。
赤みを帯びた月光が草木の影を不自然に長く伸ばし、地面の下からは相変わらず、どくん、どくん、と心臓めいた気配が伝わってくる。
風は止まったままの状態で、そして虫の声もない。
世界が、音を忘れたみたいのように、それがなかったのだ。
「……林の方か」
俺は視線を上げると、家の向こうに細い道を挟んだ先に小さな林がある。
昼間に見た時は何の変哲もない場所だったはずなのに。
その奥には使われていない空き地がある、その程度の場所だ。
――だが今は違う。
林の奥だけ、月光が赤く濃く、白い夜の中で、そこだけ血を垂らしたように染まってきていた。
「主、あちらです」
ルクスが声をかけてきた。
銀髪の間から覗く耳が鋭く立ち、尾の先がわずかに膨らんでおり、機嫌が悪い時の反応だ。
「ああ、分かってる」
「……近づかない方がいいと言っても、聞かないのでしょうね」
「……なら言うなよ」
「一応、確認しただけですよ」
相変わらず口が悪い――だが、その声には明確な警戒が混じっていると言う事は長い付き合いだからか理解していた。
セレネは縁側から一歩降り、俺の隣に立った。
白い衣が赤い月光を受けて、淡く染まっている。
その姿は美しい――だが、普段の柔らかさよりも今はひどく硬く見える。
俺はそんなセレネに声をかけた。
「セレネ」
「――はい」
「無理はするなよ」
そう言った瞬間、セレネがこちらを見た。
少し驚いたような顔をして、それからふっと笑う。
「それをあなたが言いますか?」
「俺が言うから意味があるんだろ?」
「……あなたは昔からそうですね。自分より人の事を気にするタイプなのですから」
彼女のはそのように言いながら、何処か懐かしそうな顔で言う。
まるで、過去の俺を見ているかのように。
だが、次の瞬間にはもう表情を引き締めていた。
「……これは、ただのダンジョン発生ではありません。あの子の気配そのものではない。ですが、あの子に繋がる何かがこちら側の空間を媒介にして形を作ろうとしています」
「つまり、向こうから扉を作ってるのか」
「そうですね……以前、ヴィーシャのような感じとは少し似ているかもしれないですが」
それを聞いて俺は面倒だな、と思ってしまった。
この世界のダンジョンは、ただでさえ前の世界と繋がっている気配を見せ始めている。
その上、今度はセレネの過去の因縁までこちらへ滲んできた。
俺だけの問題ではない。
それが、何より厄介だった。
俺だけの問題だったら、ある意味で楽なのだな、と考えてしまうのだが。
「乃亜!」
背後から智明の声がした。
振り返ると、智明は祖母を支えながら廊下の奥から戻ってきていた。
祖母は寝間着の上に羽織を掛けた姿で、明らかに状況を飲み込めていない。
だが、こちらを見る目はちゃんと定まっている。
「乃亜、これは……」
「すみません、説明は後です……家の中にいても安全とは限りません。叔父さん、おじいさんとおばあさんを連れて、少しでもここから離れてください」
「お前は?」
「……用事を済ませてから行く」
「……どこへいくんだ?ちゃんと戻ってくるんだろうな?」
その言葉に、俺は答える事が出来なかった。
智明も、俺の視線の先を見て理解したらしい――顔を歪める。
「……あそこか」
「ああ」
「お前、まだ退院したばっかだぞ」
「それは、知ってる」
「……お前が、やらなきゃいけないのか?」
智明はそう言いながら、苛立ったように髪を掻いた。
そう、これは俺自身がやらなければならない事。
セレネを受け入れた時から、決まっていた事なのだ。
「――俺がやらなきゃいけないんだ。ごめんな叔父さん」
静かに笑いながら答える俺に、智明は一瞬何かを言いかけたのだが、その言葉を飲み込んだ。
だが、次に口にした声は低く、腹を括ったものだった。
「分かった。こっちは何とかするから、ちゃんと戻ってこいよ」
「ああ、そのつもり……死ぬつもりなんて、ないからな」
俺と智明はそのように言葉を交わす。
それに対し、祖父はまるで理解しているかのように俺に目を向けた後、静かに頷いていた。
動揺はあるはずなのに、判断が早い。
「母さん、行くぞ」
「でも、お父さん、乃亜が……」
「今は足を引っ張らないことが先だ」
祖父の言葉は厳しいが、冷たいわけではなかった。
祖母は俺を見て、唇を引き結ぶ。
「……無茶は、しないでね乃亜。例え今のあなたが別人でも、あなたは私の知っている乃亜なのだから」
「……出来る限り、頑張ります」
まるで、本当の家族の一人のように心配してくれる。
その言葉だけでありがたいと思う。
俺と言う、”ノア”と言う存在を、”家族”として受け入れてくれた。
心配してくれているのだと、理解出来た。
俺の言葉に対し、不満そうな顔をして答えた。
「信用できない言葉ね、本当」
こんな状況なのに、祖母は困ったように笑った。
その笑い方が、少しだけ胸の奥に残ってしまった。
「乃亜!」
今度は理央の声だった。
見ると、理央、透花、花宮の三人が玄関の方へ向かう途中で足を止めていた。
理央は靴を履いたまま、こちらを真っ直ぐ見ている。
「無理はするなよ。何かあれば連絡してくれ」
「大丈夫だ。お前たちに手伝ってもらうことはない」
「……そうか」
理央は一度だけ唇を噛んだ。
言い返したいことはあるのだろう。
だが、今ここで自分たちがついて行けば、足手まといになることも理解している顔だった。
「分かってる。俺たちが行っても邪魔になるって事くらいは」
「……」
「だから、勝手に突っ込んだりもしねえ」
そう言ってから、理央は少しだけ視線を落とした。
拳が、靴の横で小さく握られる。
「でも、もう何も知らないフリはできない」
「おい、理央……」
「俺たちは足手まといかもしれない。戦えないかもしれない。けど、完全な部外者でもない。少なくとも、何も知らなかった頃にはもう戻れないから」
その言葉に、透花が小さく頷いた。
「私も……怖いよ。正直、今すぐ逃げたいくらい怖い。でも、だからって全部任せて、何も聞かないまま待ってるだけにはなりたくない」
「……」
「ついて行って迷惑になるなら、ちゃんと離れる。けど、何かあったら教えて……お願い、乃亜くん」
花宮も、いつもの軽さを少しだけ抑えた声で続ける。
「うん。私たちが今ついて行ったら、多分邪魔になるのは分かってる。だから逃げる。ちゃんと逃げるし、勝手なこともしない」
「……花宮」
「でもさ、完全に蚊帳の外にしないでよ。記録とか連絡とか、外からできることがあるなら言って。怖いけど、何もできないまま知らないふりする方が、もっと嫌だから」
三人の声は、どれも強くはなかった。
怖がっているのはわかる――もしかしたら死ぬかもしれないから。
面倒だ。本当に、面倒になった。
だが同時に、少しだけ理解してしまう。
こいつらはもう、完全な部外者ではいられないのだろう。
”ノア”という存在を知り、”乃亜”が沈んでいることを知り、それでも目を逸らさないと決めてしまった。
乃亜を傷つけた過去を、俺は簡単には許せないし、信用もできない。
だが、その言葉で少しだけ救われてしまった自分がいることも、否定できなかった。
思わず、舌打ちをする。
「……分かった。勝手なことはするな。近づくな。危ないと思ったらすぐ逃げろ」
「ああ」
「連絡がつく状態になったら、必要なことだけ伝える」
「うん」
「外からできることがあれば、その時に連絡する」
「了解。ちゃんと逃げるわ」
「……無事でいてね、乃亜くん」
「お前たちもな」
そう返すと、透花が少しだけ目を見開いた。
理央も、花宮も、ほんの一瞬だけ黙る。
余計なことを言ったかもしれない。
だが、撤回する気にもならなかった。
そして三人は今度こそ玄関を出ていった。
答えを見送ってから、俺はルクスへ視線を向けた。
「ルクス、おじいさんとおばあさんと叔父さん、あと三人の方に何か来たら知らせろ」
「私が主から離れると?」
「俺の願い、聞いてくれるな?」
「…………承知しました」
「めっちゃ不満そうな顔をしているぞ、ルクス」
不満そうだったが、ルクスは従った。
ルクスの足元から淡い白銀の影が伸び、家の方へ滑るように消えていく。
セレネは林の奥を見つめたまま、静かに息を吐いた。
「ノア、ルクス――開きます」
その言葉と同時に、遠くの赤い月光が縦に裂けた。
音は小さい、だが、空間そのものが切られるような感覚が庭まで届く。
林の奥に、黒ではなく、淡い月光色を帯びた歪みが浮かび上がり、その中心から、冷たい風が吹いた。
――血の匂いがした。
生き物の血ではない。
月に溶かされ、長い時間をかけて冷えきったような血の匂い。
俺は一歩、林の方へ踏み出した。
「行くぞ」
セレネが隣に並び、ルクスが背後についた。
それと同時に、ゆっくりと血の匂いが広がっていくのを感じた。
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