第92話 月が歪む夜
――あの日の夜、月影の巫霊は俺の召喚獣になった。
過去の記憶は、そこで一度途切れる。
薄暗い宿の一室。
月光に照らされた白銀の髪。
涙を流しながら、それでも初めて少しだけ生きようとしていたセレネの顔。
そして、契約陣が閉じる直前に聞こえた、彼女の静かな声。
――はい、我が主……私のご主人様
あの時の声は、今でもはっきり覚えている。
セレネはいつも穏やかに笑う。
俺や乃亜の魂を支えてくれたり、召喚獣たちの中でもっとも静かに、もっとも優しく、そして一番怖い場所に立っている――だからこそ時々忘れそうになる。
彼女もまた、救われた側だったのだと。
そして同時に彼女は、救えなかったものを背負い続けているのだと。
「……ご主人様?」
小さな声で呼ばれて、意識が現在へ戻った。
意識を戻すとそこは祖父母の家の縁側だった。
夜の空気は冷たく、静かで、月の光が庭へ白く落ちており、隣にはセレネが座っていた。
長い白銀髪を夜風に揺らし、淡い紫の瞳でこちらを見て、そして静かに笑っている。
俺はいつの間にか無意識に、彼女の髪へ触れていたらしく、指先に滑るような感触が残っている。
「……悪い。昔のことを思い出していた」
「ふふ。ノアは、時々そういう顔をなさいますね」
「どんな顔だよ」
「少しだけ、遠くを……別の世界を見ている感じに」
セレネはそう言って、薄く笑った。
その笑みはいつも通り穏やかだ。
だが、昨夜から感じているモノはどうやら消えていないらしい。
過去を思い出したことで少し楽になったのかと思ったが、どうやらそう単純な話ではないらしい。
寧ろ、輪郭がはっきりしてしまった分だけ、彼女は警戒を強めているように見えた。
「セレネ」
「はい?」
「……もしかして、そろそろ来るのか?」
それを聞くと、セレネはすぐには答えなかった。
ただ、庭の向こう――夜空に浮かぶ月を見上げる。
――月は白い、そう見えるはずだった。
だが、よく見ると違う。
端の方が、ほんのわずかに赤い。
血が薄く水に溶けたような、目を凝らさなければ分からない程度の赤みだった。
それを見た瞬間、胸の奥が冷えた。
「……色が変わっているな」
「ええ、そのようです」
セレネの声は静かだった。
静かすぎて、逆に緊張が分かる。
そう、まるで待っていたかのように。
「昨夜よりも、近いですね」
「近い、か」
「はい。月の下を辿って、こちらへ近づいています」
その言葉と同時に、風が止んだ。
それまで庭木を揺らしていた夜風が、不自然なほどぴたりと消える。
葉擦れの音が途切れ、庭が一瞬で絵の中に閉じ込められたようになった。
虫の声もない。
さっきまで聞こえていたはずの小さな音が、一つずつ消えていく。
残ったのは、家の柱がわずかに軋む音と、俺たちの呼吸だけだった。
「――主、セレネ」
「あら、ルクス?どうやら鼻だけはいいようですね?」
「何を言ってる……お前の客だろう、セレネ?」
「……ええ、そうみたいですね」
縁側の影から、ルクスの声がしたので笑顔で返事を返すセレネに対し、ルクスは嫌そうな顔で彼女の向かって答えた。。
同時に淡い金の瞳が細くなっていた。
「匂います」
「血か?」
「ええ、血です。ですが、生き物の血ではないようですね……」
「そうか……」
ルクスがそこまで言ったところで、家の奥から足音が聞こえた。
「……おい、何だ?何かあったのか?」
そこに現れたのは眠そうな顔をしている智明だった。
寝間着に上着を羽織っただけの姿で、廊下の奥からこちらへ向かってきた。
そして、嫌そうな顔をしながら俺たちに目を向けている。
「おい……なんか、急に変だぞ。外の音が消えた」
「気づいたのか?」
「気づくわ、こんなの」
そのまま、智明は縁側まで来て、庭に視線を向ける。
そして、すぐに顔をしかめる。
「……月、赤くないか?」
「少しな」
「おい!少しで済ませるなよ!」
智明は俺たちに向かって叫ぶと、その声に反応したのか、さらに奥の部屋から襖が開く音がした。
理央がまず顔を出し、続いて透花と澪も現れる。
三人とも眠っていたはずだが、表情は硬い。
「何かあったのか?」
理央が声をかける。だが、どうやら警戒している顔をしていた。
俺は、静かに笑いながら答える事しか出来ない。
「……まだ分からない」
「わからないのか?」
「ああ、俺も予想外の事が起きている感じ、だからな……」
静かに笑いながら答える俺に対し、理央は庭と空を見比べる。
透花は縁側の近くで立ち止まり、両手を胸の前で握っており――顔色が少し悪い。
「……怖い……なんか、寒気を感じるのだけど……乃亜くんは感じないの?」
「そうだな……何度も体験しているから慣れた感じだ」
透花の言葉に、俺はそのように返事をする事しか出来ない。
前の世界ではよく経験した事なので、気にしていなかったのだが――普通なら気にする事なのかもしれない。
ふと、花宮は窓の外をじっと見ていた。
「……音、吸われてるみたいだね」
「吸われてる?」
「うん。静かなだけじゃなくて、周りの音がどこかに持っていかれてる感じ」
その言い方に、セレネがわずかに目を細めた。
「鋭いですね」
「え、褒められてる?」
「ええ。今の表現は、近いですよ」
花宮は冗談を返そうとして、途中でやめた。
それほど、今の空気には軽口が馴染まなかった。
その時、廊下の奥から祖父が姿を見せた。
祖母はまだ奥にいるらしい。
祖父は寝起きとは思えないほど静かな顔で、縁側まで歩いてくる。
「……庭の空気が変わったな」
「分かるのか?」
智明が言うと、祖父は短く頷いた。
「長くここに住んでいるからな…・…風が止まっただけなら分かる。だが、これは違う」
そのまま、祖父は庭の土を見た。
その目が、すぐに細くなる。
「地面の下だ」
「……」
俺も視線を落とす。
言われて、初めてはっきり分かった。
庭の土の下、もっと深い場所で、何かが脈打っている。
――どくん。
音でなければ、振動でもない。
だが、確かに感じる――大地の奥に心臓のようなものが一つ埋まっていて、それがゆっくり目覚めようとしているような感覚だった。
「もしかして……いや、まさか、ダンジョンか?」
智明が驚いた顔をしながら答える。
「ですが、普通ではありませんね」
答えたのはセレネだった。
その顔は、もう完全に張りつめている。
普段の穏やかさを保ってはいるが、指先がわずかに握られていた。
「確かにダンジョンが発生したのかもしれないです……しかし、、これは自然発生ではない」
「じゃあ何だ」
「……どうやら、わたしのせいかもしれないですね」
セレネの声が落ち、そして俺に目を向ける。
まるで、あの時のような顔を見せているかのように。
「――場所を。時間を。そして、私を……そう、”姫”が私に手を伸ばしているのでしょう」
その言葉に、全員の視線がセレネへ向いた。
俺は彼女を見る。
月影の巫霊――嘗て、血に堕ちた”姫”を封じた女。
そして今、月の下から何かが彼女を探している。
「セレネ」
「はい」
「相手は、その”姫”って奴か?」
「正直、まだ断定はできません……ですが、限りなく近いと、思います」
セレネは再度、庭の方に視線を向けた瞬間、庭の向こうで闇が濃くなる。
月光の赤みが、ほんの少し強くなり、白かった庭石が、薄い血色を帯びる。
草の影が伸び、まるで何かが、空間の奥でこちらを見ているような感覚があった。
ルクスが一歩前へ出る。
「主、下がってください」
「断る」
「でしょうね、そういうと思ってました」
「分かってるなら言うな」
短いやり取りをしながら、俺は縁側から庭へ降りた。
身体はまだ本調子ではない。
バハムート召喚の反動も完全には抜けていないが、ここで寝ていられる状況ではないことくらい分かる。
「乃亜」
祖父が呼んだ。
俺は視線を向ける。
「何が起きるんだ?」
「まだ分かりません」
「危険か?」
「多分、かなり危険だと思います」
「そうか」
祖父はそれだけ聞いて、すぐに智明へ目を向けた。
「母さんを起こして起こして避難をする……智明たちも行動を開始しなさい」
「ああ、わかった」
祖父の言葉に、智明は苦い顔で頷いた。
理解は追いついていない――だが、動くべきだという判断はできている。
そのまま、理央が俺たちの所に行こうと靴を履こうとするが、俺は声をかける。
「理央、お前たちは避難するんだ」
「ならお前も――」
「だめだ……これは、彼女の戦いだから……彼女の傍にいるのが、主の役目だ」
睨みつけるように、理央に向けて答える。
一瞬、身体が反応したのだが、理央は周りを見回した後、透花と花宮に声をかける。
「透花、花宮、お前たちも避難するぞ!」
「わかった!ほら、透花も!」
「え、でも……乃亜くん!」
透花が何かを言おうと俺に視線を向けるが、俺はそのまま背を向けたまま視線をセレネたちに戻す。
どんどんと、庭が形を成していくかのように。
俺はポケットから携帯を取り出した。
「……圏外。さっきまで普通に入っていたんだがな……」
俺は庭の奥を睨む。
これは事故でも何でもない。
異常が起きて、たまたま祖父母宅の近くに発生したわけではない。
――選んでいるんだ。
セレネ、そして、おそらく俺たちを。
その時だった。
遠くで、何かが裂ける音がした。
硝子を爪で引っかいたような、薄く、冷たい音。
けれど耳ではなく、骨の奥に響くような音だった。
――息を止める。
庭の向こうにある、林のさらに先――月光の赤が、そこだけ濃く滲んでいた。
セレネが静かに立ち上がる。
「……来ました」
その声は穏やかだった。
だが、俺には分かった。
彼女は今、過去を見ている。
そしてその世界が今度はこの世界の夜に、裂け目を開こうとしていた。
読んでいただきまして、本当にありがとうございます。
「面白い!」「続き読みたい!」など思った方は、ぜひブックマーク、下の評価を5つ星よろしくお願いします!
していただいたら作者のモチベーションも上がりますので、更新が早くなるかもしれません!
ぜひよろしくお願いします!




