第91話 月影の契約
セレネが次に目を覚ましたのは、その日の夕方だった。
宿場町は昼の騒がしさを終え、少しずつ夜へ傾き始めている。
窓の外では人の声が遠くなり、馬車の車輪が石畳を叩く音もまばらになっていた。
部屋の中は薄暗いし、灯りはつけていない。
けれど、窓から差し込む夕月の光だけで寝台の白い髪は淡く浮かび上がっているのがわかる。
セレネは目を開けたまま、しばらく天井を見ていた。
呼吸は朝より安定しているのがわかった。。
俺は椅子に座り、欠伸を足ながら窓の外を見ていた。
ルクスは扉の横に立っている。
こいつは結局、昼から殆ど動いていない、警戒を解く気など最初からないのだろうと思いながら、俺はルクスに目を向ける。
「……ずっとそこにいたのですか?」
掠れた声がしたので振り返ると、セレネがこちらを見ていた。
「起きたか」
「ええ……」
「気分は?」
「生きています」
「なら十分だな」
そう言うと、セレネはほんの少しだけ笑った。
笑ったと言っても、唇が微かに動いただけ。
だが、初めて見た時のような諦めきった顔ではないように感じた。
俺は椅子から立ち上がり、水差しの水を杯に注いだ。
セレネへ差し出すと、彼女は少し迷ったあとに震える手で受け取ろうとした。
だが、指先に力が入らず、杯が傾く。
「おい、無理するな」
俺は杯を支え、そのままゆっくり飲ませた。
セレネは一口、二口と水を飲み、細く息を吐いた。
「……ありがとうございます」
「礼を言うほどのことじゃない」
「それでも、言いたかったのです」
そう言われると、返す言葉に困る。
俺は杯を置き、寝台の脇へ戻った。
しばらく沈黙が落ち、外は少しずつ暗くなっていく。
夕暮れと夜の境目――月の気配が濃くなっていく時間だ。
そのせいか、セレネの表情も少し硬くなる。
「……聞いてもらっても良いですか?」
「……話すのか?」
俺が聞くと、彼女は目を伏せ、頷いた。
「私を追っているもののことを。私が、何をしてしまったのかを」
セレネのその言葉を聞いた瞬間、ルクスがわずかに目を細める。
少し、嫌そうな顔をしていたようにも見えたが、俺が視線を向けると何事もないかのように視線を逸らす。
俺が聞くと決めた以上、こいつは文句など、絶対に聞かない。
セレネはゆっくりと息を吸う。
「私はかつて、月影の巫霊として、月に属する呪いを鎮める役目を担っていました」
「……血の呪いか?」
「ええ……嘗て、夜に生きる一族がいました。月の祝福を受け、永く美しく静かに生きる者たちです。彼らは本来、血を啜る怪物ではありませんでした。けれど、長い飢えと呪いが、その在り方を歪めたのです」
その話を聞くと同時、部屋の空気が冷えていくようだった。
セレネの声は穏やかなままなのに、その中には深い痛みが混じっている。
「彼らは少しずつ、血を求めるようになりました。最初は生きるために。次は渇きを癒すために。最後には、自分たちが何を失っているのかも分からないまま、人を襲うようになった」
「……それを止めたのがお前か?」
「一応、止めようとしました」
その言い方ですぐに理解した。
どうやら、成功しなかったのであろう、と。
「私は……救いたかったのです。彼らを。彼らの中にいた、ひとりの姫を」
「姫……」
あの時、敵が言っていた言葉を思い出す。
敵は”姫”と言っていた。
そのまま静かに、セレネは目を閉じた。
「とても美しい子でした……幼く見えましたが、長く生きていて、誇り高く、だけどちょっと寂しがりで……誰よりも月を、そして世界を愛していました」
その声には懐かしさがあった。
同時に、取り返しのつかないものを思い出す苦しさも。
「私は彼女を止めることができませんでした。救うことも、殺すこともできなかった。だから封じました」
「封じた?」
「はい。月の奥へ……血の渇きごと、彼女の時間を止めるように」
セレネの指先が、布団の上で小さく震えた。
「それは正しかったのかもしれません。あのままでは、彼女は多くの命を奪い、最後には自分自身も壊れていたでしょう。けれど……」
「けれど?」
「彼女は、封印する前に、私に手を伸ばしていたのです」
セレネの声が初めて揺れた。
彼女の胸が、強く締め付けられるように感じながらも。
「助けて、と言ったわけではありません。泣いたわけでもありません。ただ……最後に彼女は私を見たのです。私だけを見ていました……なのに私は、救う方法を選べなかった」
ゆっくりと、沈黙が落ちる。
セレネは泣いていない――けれど、泣いているように見えた。
「あの湖の呪性は、その封印から漏れた残滓です。私を追っていたのではなく、私が封じたものの影が、私を覚えていたのでしょう」
「じゃあ、朝の霧も」
「同じです。まだ本体ではありません。ですが、繋がっています」
「その”姫”が、いつか封印を解いて、お前の前に現れると?」
「……ええ、間違いないでしょうね」
セレネは目を開けて、俺を見た。
「だから、私に関わらない方がいいのです……あの子が目覚めれば、必ず私を探しにきます。そして、私を恨み、私を求め、私を責めるでしょう……同時に、私の近くにいるあなたも巻き込まれるのは間違いないです」
「でも俺はもう、巻き込まれちまった」
「それでも、ここで離れれば――」
「それは、嫌だな」
俺が即答すると、セレネは言葉を失った。
どうしてそんな言葉を言ってくるのは、セレネには理解が出来なかったのかもしれない。
「……どうして」
「またそれか」
「だって、分からないのです」
セレネの目が揺れる。
揺れている彼女の姿を、俺は見つめる事しか出来なかった。
「私は……私は失敗した巫霊です。救うべきものを救えず、封じる事でしか止められなかった。今もその影に追われ、関係ない人まで巻き込んでいる。あなたが私を抱える理由など、どこにもありませんよ」
「あるぞ」
「どこに?」
「……お前が、まだ生きてるじゃないか?……生きてるなら、終わってない。終わってないなら、捨てる理由にはならない」
その言葉に、一瞬息を呑むセレネの姿を、俺は見つめる事しか出来なかった。
呆然としながら、静かに呟く。
「……あなたは、本当に」
「変なやつなんだろ」
先回りして言うと、セレネは一瞬だけ呆けた顔をして、それから小さく笑った。
その笑みは、さっきまでより少しだけ柔らかかった。
「ノア様」
「何だ?」
「私は……あなたのそばにいてもいいのでしょうか?」
「それは、俺が決めることじゃない」
「え……」
「お前が決めるんだ」
俺はそう言って、寝台の脇に片膝をついた。
「捨てないとは言った。でも、縛る気もない。逃げたいなら逃げろ。残りたいなら残れ」
「……残りたいと、言えば?」
「俺は、仲間の為ならどんな事もする男だぞ?」
「私が、あなたを巻き込むとしても?」
「厄介事には慣れてる……現にルクスの厄介ごとには巻き込まれたしな」
「……主」
俺の言葉に、ルクスは図星だったのか、引きつった顔で俺に目を向けている。
それが楽しくて仕方がない俺は笑う事しか出来ない。
そのまま、セレネはしばらく黙った。
淡い紫の瞳が、ゆっくりと濡れていく。
同時に今度は、涙をこぼした。
森で見た時とは違い、死にたい者の涙ではない。
まだ生きてもいいのかもしれないと、ようやく気づいた者の涙だった。
「……なら……私を、あなたのものにしてください」
「あなたのものって……流石に……いや、まぁ、いいか」
「主っ、私は――」
「俺が決めた事だ。ルクスは黙ってろ」
「っ……わかりました」
納得していないような顔をしているルクスに対し、俺はセレネの手を取った。
冷たい――けど、前より温度が少しだけある。
セレネは静かに言葉を紡ぐ。
「私は月影の巫霊セレネーー救えなかった月の罪を背負うもの」
窓の外で、夜が深まる。
淡い月光が部屋へ流れ込み、彼女の髪を照らした。
「それでも、あなたが許すなら――あなたの夜を照らす月になりたい」
その言葉と同時に、薄い召喚陣が足元へ広がった。
月光の輪――血ではなく、白い光だけで描かれた契約の形。
俺はその手を握り返す。
「ああ、なら誓え、セレネ」
自然と、言葉が出た。
「俺が死ぬまで、勝手に消えるなよ」
俺の言葉にセレネの瞳が見開かれる。
そして、泣きながら笑った。
「はい、我が主……私のご主人様」
契約陣が静かに閉じる。
月光が部屋の中へ満ち、やがて何事もなかったかのように消え、その夜――月影の巫霊は俺の召喚獣になった。
あの時の俺は、まだ知らなかった。
彼女が背負った”姫”の恨みが、いつか別の世界の月の下で再び俺たちの前に現れる事を。
そして、今なら分かる。
あの時俺が拾ったのは、ただ傷ついた女ではなく、救えなかった過去ごと、それでも誰かを救おうとする、ひどく優しい月だった。
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