第90話 どうか、私を捨てないでください
セレネが再び眠ったあと、部屋は妙に静かになった。
宿場の外ではもう既に朝になっている。
窓の隙間から薄い光が差し込み、遠くで馬車の音や人の話し声が聞こえ始めており、森で起きたことなど知らない誰かの日常が、もう動き出している。
だが、この部屋だけはまだ夜の底に沈んでいるようだった。
寝台の上のセレネは、ほとんど動かない。
白い髪が枕に広がり、包帯の下からは微かに月光じみた魔力が漏れている。
呼吸は浅く、生きてはいるが、安定しているとは言い難かった。
「――主」
扉の横に立つルクスが、低く声を出す。
「今ならまだ置いていけます」
「おい……随分と冷たいな」
「冷たいのではありません。合理的です」
「けど……」
「あれは厄介事です。しかも自分から厄介だと告げている。追われている理由も不明。種も不明。敵も不明。主が抱える理由がありません」
「理由なら言っただろ」
「後味、ですか」
「ああ」
「それは理由として弱い」
「だが、俺には十分だ」
そう返すと、ルクスは露骨に嫌そうな顔をした。
まだ契約して半年ほどの頃だが、この狼はすでに俺の扱いを覚え始めていた。
そして、俺がこういう時、簡単に引かないことも。
「……主は優しすぎる」
「そうか?」
「そうです……本当に優しすぎて……何も言えませんよ」
そのように言いながらルクスはため息を吐く。
頭を抱えるような素振りも見せているので、かなり追い込んでしまっているのだろう。
面倒な主で悪いなと思いながら、俺は椅子に座り直し、寝台のセレネを見る。
彼女は眠っている。
眠っているはずなのに、その眉間には薄く皺が寄っていた。
夢でも見ているのだろうか?
その瞬間、部屋の空気が変わった。
「……主」
「ああ」
俺もすぐに気づいた。
朝の光が差しているはずの部屋の中で、急に温度が落ちた。
窓の外では人の気配があるし、宿場は普通に動いている。
なのに、この部屋だけが切り離されたみたいに静かになる。
そして、セレネの体から漏れていた月光が、わずかに赤く濁った。
「――来たか」
俺は短剣に手を伸ばす。
ルクスが低く唸った。
「血の匂いです」
「さっきの湖の残りか?」
「いいえ。もっと濃い。そしてもっと古い」
寝台の上で、セレネの指が微かに動いた。
閉じたままの唇から、掠れた声が漏れる。
「……来ないで」
それは俺たちに向けた言葉ではなかった。
「お願い……もう、もう……奪わないで……」
部屋の床に、細い赤い線が走った。
傷のような線――それが床板の隙間から滲み出し、ゆっくりと円を描いていく。
魔法陣、いや、呪印に近い。
「ルクス、外を見てくれ」
「承知」
そのままルクスが窓際へ跳ぶ。
俺は寝台の脇へ立ち、セレネの身体を庇う位置に入った。
床の赤い線が震え、次の瞬間、線の中心から黒い霧が立ち上った。
血の匂いが濃くなり、霧の奥で、何かが笑った気がした。
『――見つけた』
声だった。
女とも子どもともつかない、妙に澄んだ声。
だが、その奥にこびりついた飢えと恨みが、はっきりと分かった。
『月影の巫霊。逃げても、隠れても、月の下にいる限り同じよ』
「……知り合いか?」
俺が問うと、セレネは目を開けないまま、小さく首を振った。
「違います……あれは、まだ……あの子ではありません」
「あの子?」
「……影です。残り香。けれど、私と繋がっています」
繋がっている、それだけで十分だった。
黒い霧が形を変える。
人の腕のようなものが伸び、寝台のセレネへ向かってゆっくりと近づいてきた。
ルクスが動くより先に、俺は短剣を振り、刃が霧を裂く。
手応えは薄いが、完全に無効ではない。
霧の腕が弾け、赤黒い滴となって床へ落ちる。
『邪魔をするの?』
「するだろ、普通」
『それは罪を抱えたものよ』
「だから?」
『月に背き、血を封じ、姫を泣かせたもの』
姫――その単語に、セレネの表情が初めてはっきりと歪んだ。
「……やめて」
か細い声だった。
だが、その奥に痛みがあった。
「その名を、ここで出さないで……」
『忘れたの?あなたが閉じたのよ』
霧が笑う。
『あなたが、あの子の夜を奪った』
深い事情があろうとも、俺には関係ない。
だが、分かったこともある。
これは彼女の敵だ。
そして今のセレネは、戦える状態ではない。
なら、やることは一つ――俺は短剣を握りしめる。
「ルクス」
「はい」
「宿を壊すなよ」
「努力します」
「努力してくれ頼む」
ルクスと会話を終了させた俺は短剣を構えた。
次の瞬間、床の呪印がさらに広がり、黒い霧が獣のような形を取り始め――月光はない。
だが、窓の外から差す朝の光の中に、ありえないほど赤い影が混じっている。
ルクスが白銀の爪を構えた。
「主、前に出すぎないでください」
「無理だな。後ろに病人がいる」
「ああ、そうでしたね忘れていましたよ!」
呆れたように言いながらも、ルクスは俺の隣へ並んだ。
その姿に、なぜかセレネが小さく息を呑む。
「どうして……」
また、それか。
俺は霧から目を離さず答えた。
「死なせる理由がないって言っただろ」
「でも、私は……」
「面倒なら後で聞く。今は黙って寝てろ」
言い終えた瞬間、霧の獣が飛びかかってきた。
ルクスが横から噛みつき、俺は正面から呪印の中心へ踏み込む。
黒い霧の爪が頬を掠め、血が一筋流れた。
それを見て、霧が嬉しそうに震える。
『血、新しい血!』
「ちっ……気色悪いな」
俺は短剣に魔力を流し込む。
湖で割った核の残滓と同じ匂いがする、なら、壊し方も似ているはずだ。
「ルクス、床を凍らせろ!」
「承知!」
ルクスは魔力を溜めて、冷気が床を走る。
赤い呪印の線が一瞬だけ鈍り、俺はそこへ短剣を突き立てる。
次の瞬間、薄い膜を砕くような音がした。
『――また邪魔を』
霧の声が歪む。
『月影を庇うのね。なら、あなたも覚えておくわ』
「勝手にしろ」
『いずれ姫が目覚める。赤い月の下で』
霧が崩れ、最後に残った赤い光だけが、セレネの方へ向かった。
俺はそれを手で払う――熱い。
掌が焼けるように痛んだが、光は砕けて消えた。
まるで何事もなかったかのように、部屋に静けさが戻る。
床の呪印も、黒い霧も、血の匂いも薄れていく。
ただ、掌には赤い火傷のような痕が残っていた。
「主!また無茶を……」
「平気だ」
「平気ではありません」
「うるさいなぁ、過保護すぎないかルクス?」
「何言ってるんですか主、私は主大好き白銀ですよ」
「ちょっと何言ってんのかわかんない」
ルクスの視線を無視して、俺は寝台のセレネを見る。
彼女は目を開けており、淡い紫の瞳が、揺れている。
「……なぜ、そこまで」
「まだ聞くのか」
「だって……私は」
「――セレネ」
名前を呼ぶと、彼女は言葉を止めた。
「お前が何をしたのかは知らない。何を背負ってるのかも、まだ聞いてない」
「……」
「でも今ここで死にたいなら、俺の前じゃやめろ」
セレネの瞳が見開かれる。
「俺はそういうのを見ると、邪魔したくなるんだよ。優しいからな」
笑ながら答える俺の姿を見たルクスが後ろで深くため息を吐いた。
だが、否定はしなかった。
セレネはしばらく俺を見ていた。
やがて、力尽きたように目を伏せる。
「……本当に、変な方」
セレネは静かに呟き、微かに笑った。
けれどそれは、初めて少しだけ生きているような笑みだった。
「ノア様」
「何だ」
「もし、私が話せるようになったら……聞いてくださいますか」
「ああ」
「私の罪を」
「おい、聞いてやる」
即答すると、セレネは静かに息を吐いた。
「……では、それまで」
細い指が、包帯の上でわずかに動く。
彼女は真っすぐと俺に目を向けていた。
「どうか、私を捨てないでください」
その言葉は、祈りのようだった。
俺は少しだけ黙ってから、答える。
「面倒なのは拾った時点で分かってる」
「……はい」
「だから、俺は最後まで責任を持つから安心しろ」
俺の言葉を聞いたセレネはゆっくりと、目を閉じた。
今度の眠りは、さっきより少しだけ穏やかに見えた。
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