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異世界で処刑された召喚士、冷遇された少年に宿りました~最強の召喚獣たちとダンジョン配信で成り上がり、奪われた人生を取り戻す~  作者: 桜塚あお華
第03章 月影の吸血姫編

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第90話 どうか、私を捨てないでください

 セレネが再び眠ったあと、部屋は妙に静かになった。

 宿場の外ではもう既に朝になっている。

 窓の隙間から薄い光が差し込み、遠くで馬車の音や人の話し声が聞こえ始めており、森で起きたことなど知らない誰かの日常が、もう動き出している。

 だが、この部屋だけはまだ夜の底に沈んでいるようだった。

 寝台の上のセレネは、ほとんど動かない。

 白い髪が枕に広がり、包帯の下からは微かに月光じみた魔力が漏れている。

 呼吸は浅く、生きてはいるが、安定しているとは言い難かった。


「――主」


 扉の横に立つルクスが、低く声を出す。


「今ならまだ置いていけます」

「おい……随分と冷たいな」

「冷たいのではありません。合理的です」

「けど……」

「あれは厄介事です。しかも自分から厄介だと告げている。追われている理由も不明。種も不明。敵も不明。主が抱える理由がありません」

「理由なら言っただろ」

「後味、ですか」

「ああ」

「それは理由として弱い」

「だが、俺には十分だ」


 そう返すと、ルクスは露骨に嫌そうな顔をした。

 まだ契約して半年ほどの頃だが、この狼はすでに俺の扱いを覚え始めていた。

 そして、俺がこういう時、簡単に引かないことも。


「……主は優しすぎる」

「そうか?」

「そうです……本当に優しすぎて……何も言えませんよ」


 そのように言いながらルクスはため息を吐く。

 頭を抱えるような素振りも見せているので、かなり追い込んでしまっているのだろう。

 面倒な主で悪いなと思いながら、俺は椅子に座り直し、寝台のセレネを見る。

 彼女は眠っている。

 眠っているはずなのに、その眉間には薄く皺が寄っていた。

 夢でも見ているのだろうか?

 その瞬間、部屋の空気が変わった。


「……主」

「ああ」


 俺もすぐに気づいた。

 朝の光が差しているはずの部屋の中で、急に温度が落ちた。

 窓の外では人の気配があるし、宿場は普通に動いている。

 なのに、この部屋だけが切り離されたみたいに静かになる。

 そして、セレネの体から漏れていた月光が、わずかに赤く濁った。


「――来たか」


 俺は短剣に手を伸ばす。

 ルクスが低く唸った。


「血の匂いです」

「さっきの湖の残りか?」

「いいえ。もっと濃い。そしてもっと古い」


 寝台の上で、セレネの指が微かに動いた。

 閉じたままの唇から、掠れた声が漏れる。


「……来ないで」


 それは俺たちに向けた言葉ではなかった。


「お願い……もう、もう……奪わないで……」


 部屋の床に、細い赤い線が走った。

 傷のような線――それが床板の隙間から滲み出し、ゆっくりと円を描いていく。

 魔法陣、いや、呪印に近い。


「ルクス、外を見てくれ」

「承知」


 そのままルクスが窓際へ跳ぶ。

 俺は寝台の脇へ立ち、セレネの身体を庇う位置に入った。

 床の赤い線が震え、次の瞬間、線の中心から黒い霧が立ち上った。

 血の匂いが濃くなり、霧の奥で、何かが笑った気がした。


『――見つけた』


 声だった。

 女とも子どもともつかない、妙に澄んだ声。

 だが、その奥にこびりついた飢えと恨みが、はっきりと分かった。


『月影の巫霊。逃げても、隠れても、月の下にいる限り同じよ』

「……知り合いか?」


 俺が問うと、セレネは目を開けないまま、小さく首を振った。


「違います……あれは、まだ……あの子ではありません」

「あの子?」

「……影です。残り香。けれど、私と繋がっています」


 繋がっている、それだけで十分だった。

 黒い霧が形を変える。

 人の腕のようなものが伸び、寝台のセレネへ向かってゆっくりと近づいてきた。

 ルクスが動くより先に、俺は短剣を振り、刃が霧を裂く。

 手応えは薄いが、完全に無効ではない。

 霧の腕が弾け、赤黒い滴となって床へ落ちる。


『邪魔をするの?』

「するだろ、普通」

『それは罪を抱えたものよ』

「だから?」

『月に背き、血を封じ、姫を泣かせたもの』


 姫――その単語に、セレネの表情が初めてはっきりと歪んだ。


「……やめて」


 か細い声だった。

 だが、その奥に痛みがあった。


「その名を、ここで出さないで……」

『忘れたの?あなたが閉じたのよ』


 霧が笑う。


『あなたが、あの子の夜を奪った』


 深い事情があろうとも、俺には関係ない。

 だが、分かったこともある。

 これは彼女の敵だ。

 そして今のセレネは、戦える状態ではない。

 なら、やることは一つ――俺は短剣を握りしめる。


「ルクス」

「はい」

「宿を壊すなよ」

「努力します」

「努力してくれ頼む」


 ルクスと会話を終了させた俺は短剣を構えた。

 次の瞬間、床の呪印がさらに広がり、黒い霧が獣のような形を取り始め――月光はない。

 だが、窓の外から差す朝の光の中に、ありえないほど赤い影が混じっている。

 ルクスが白銀の爪を構えた。


「主、前に出すぎないでください」

「無理だな。後ろに病人がいる」

「ああ、そうでしたね忘れていましたよ!」


 呆れたように言いながらも、ルクスは俺の隣へ並んだ。

 その姿に、なぜかセレネが小さく息を呑む。


「どうして……」


 また、それか。

 俺は霧から目を離さず答えた。


「死なせる理由がないって言っただろ」

「でも、私は……」

「面倒なら後で聞く。今は黙って寝てろ」


 言い終えた瞬間、霧の獣が飛びかかってきた。

 ルクスが横から噛みつき、俺は正面から呪印の中心へ踏み込む。

 黒い霧の爪が頬を掠め、血が一筋流れた。

 それを見て、霧が嬉しそうに震える。


『血、新しい血!』

「ちっ……気色悪いな」


 俺は短剣に魔力を流し込む。

 湖で割った核の残滓と同じ匂いがする、なら、壊し方も似ているはずだ。


「ルクス、床を凍らせろ!」

「承知!」


 ルクスは魔力を溜めて、冷気が床を走る。

 赤い呪印の線が一瞬だけ鈍り、俺はそこへ短剣を突き立てる。

 次の瞬間、薄い膜を砕くような音がした。


『――また邪魔を』


 霧の声が歪む。


『月影を庇うのね。なら、あなたも覚えておくわ』

「勝手にしろ」

『いずれ姫が目覚める。赤い月の下で』


 霧が崩れ、最後に残った赤い光だけが、セレネの方へ向かった。

 俺はそれを手で払う――熱い。

 掌が焼けるように痛んだが、光は砕けて消えた。

 まるで何事もなかったかのように、部屋に静けさが戻る。

 床の呪印も、黒い霧も、血の匂いも薄れていく。

 ただ、掌には赤い火傷のような痕が残っていた。


「主!また無茶を……」

「平気だ」

「平気ではありません」

「うるさいなぁ、過保護すぎないかルクス?」

「何言ってるんですか主、私は主大好き白銀ですよ」

「ちょっと何言ってんのかわかんない」


 ルクスの視線を無視して、俺は寝台のセレネを見る。

 彼女は目を開けており、淡い紫の瞳が、揺れている。


「……なぜ、そこまで」

「まだ聞くのか」

「だって……私は」

「――セレネ」


 名前を呼ぶと、彼女は言葉を止めた。


「お前が何をしたのかは知らない。何を背負ってるのかも、まだ聞いてない」

「……」

「でも今ここで死にたいなら、俺の前じゃやめろ」


 セレネの瞳が見開かれる。


「俺はそういうのを見ると、邪魔したくなるんだよ。優しいからな」


 笑ながら答える俺の姿を見たルクスが後ろで深くため息を吐いた。

 だが、否定はしなかった。

 セレネはしばらく俺を見ていた。

 やがて、力尽きたように目を伏せる。


「……本当に、変な方」


 セレネは静かに呟き、微かに笑った。

 けれどそれは、初めて少しだけ生きているような笑みだった。


「ノア様」

「何だ」

「もし、私が話せるようになったら……聞いてくださいますか」

「ああ」

「私の罪を」

「おい、聞いてやる」


 即答すると、セレネは静かに息を吐いた。


「……では、それまで」


 細い指が、包帯の上でわずかに動く。

 彼女は真っすぐと俺に目を向けていた。


「どうか、私を捨てないでください」


 その言葉は、祈りのようだった。

 俺は少しだけ黙ってから、答える。


「面倒なのは拾った時点で分かってる」

「……はい」

「だから、俺は最後まで責任を持つから安心しろ」


 俺の言葉を聞いたセレネはゆっくりと、目を閉じた。

 今度の眠りは、さっきより少しだけ穏やかに見えた。

読んでいただきまして、本当にありがとうございます。

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