第89話 月影の巫霊
森を抜ける間、セレネはほとんど喋らなかった。
気を失っているわけではなく、意識はちゃんとある。
だが、それを表へ出す力が尽きかけているのが分かった。
腕の中の身体は異様に軽い。
人間の女を抱えている感触とも少し違う感じがする。
骨や肉の重さより、まるで何かをかき集め、それを抱きかかえるかのような感じの奇妙な冷たさと薄さがあった。
後ろからはルクスがついてくる。
湖の核を砕いたことで、森を満たしていた呪性は急速に薄れている。
さっきまであれほど静かだった森に、ようやく小さな生き物の気配が戻り始めている。
「――主」
ルクスは声をかけてきた。
対し、俺は返答する。
「どう、見ますか?」
「面倒なのを拾った感じが最初の印象」
「それは……何も言えませんが、とりあえず同意します」
「ははっ、だろうな」
俺は笑いながら彼女の体を抱える。
セレネの身体がわずかに揺れた。
会話が聞こえているのだろうかわからないが、それに対して怒る気力もないらしい。
ただ睫毛が震えただけだ。
「……捨てますか?」
ルクスの言葉は本気だったと思う。
冷たいが、いつものこと――自分の主人の負担になるかどうかでしか物を見ていない。
「そうだな……捨てた方が面倒になるかもしれないぞ?」
「それは何故?」
「生きてるやつを見捨てた後味は悪いからな」
「主は時々そういう無駄を言います……」
「無駄でもそうなんだから仕方ないんだ、それが”俺”なんだから」
俺の言葉に対し、ルクスはそれ以上何も言わなかった。
ただ、静かにため息を吐きながら自分の主人の後をついていくのだった。
▽
宿場へ戻ったのは夜明け前だった。
まだ空は暗く、東の端がかすかに白み始めた程度――宿の裏口を叩くと、眠そうな顔の亭主が出てきて、俺の腕の中を見た瞬間に目を剥いた。
「な、何だそりゃ」
「森で拾ったんだ
「拾ったで済むもんじゃねえだろ!」
「治療できるやつを呼んでくれないか?誰でも良い」
「お、おう!」
宿の店主はすぐさま外に出て、治療できる人を呼びに行く。
お陰で、騒ぎになった――まぁ、当然だろう。
冒険者が、血まみれの白い女を抱えているのだ。
しかも、女の肌は青白いを通り越して月光みたいに淡く、流れた血にさえどこか普通ではない気配があった。
それでも、まだあの頃の俺は運が悪いとこういうこともある――で、押し切れる程度には若かった。
必要以上の説明をせず、まず治療を優先させる。
町医者が呼ばれたが、部屋へ入ってすぐ困った顔になった。
「傷は深い。深いが……」
白髪混じりの医者はセレネの脇腹を見て眉を寄せる。
「何だこりゃ」
「治せるのか?」
「治すというか、縫うしかねえ……しかし、変だな」
「何が?」
「血が止泊まってねぇのに、死ぬほど減ってねえ?」
町医者はそのように言いながら、首を傾げる。
つまり、目の前の女は普通ではないし、人間ではないと言う事なのかもしれない。
人間なら、あの傷でここまでもたない。
かといって魔物にしては、目の前のセレネはあまりに脆く、静かで、壊れかけていた。
結局なのだが、町医者には“そういう体質だ”と押し切った。
胡散臭そうな顔はされたが、金を余分に積んだらそれ以上は聞かれなかった。
治療の間、俺とルクスは部屋の外で待った。
朝日が昇る――夜を越えた疲労がじわじわ身体へ戻ってきた。
湖の核を壊したこと自体は大した消耗ではなかったが、森に満ちていた呪性が思ったより粘ついていて、知らないうちに神経を削られていたらしい。
「――主」
壁にもたれたままルクスが言う。
「まだ迷っていますね」
「何をだ」
「”あれ”をどうするか、です」
ルクスの発言に対し、俺は否定する事をしなかった。
不思議と手を伸ばし、助け出してしまった。
だからといって、責任まで持つ義理はない。
傷が塞がった時点で町に置いて去るという選択肢もある。
だが、あの湖にいたものが単なる事故ではないことも分かっている。
あの女――セレネは、あの呪性と無関係ではない。
「主は拾うと決めたのでしょう?」
「俺はただ……拾っただけだ」
「拾った時点で同じですよ」
「おい、なんだその言い方は」
「事実ですから」
ルクスは淡々としていた。
こいつは俺の癖をよく知っている――放っておけないものを拾った時、口では“面倒だ”と言いながら結局最後まで見ることを。
昼近くになって、ようやく町医者が部屋から出てきた。
「……とりあえず、命は繋いだ」
「そうか」
「だが、起きてからどうなるかは知らん。熱もあるし、消耗もひでえ。あと……」
医者は少し声を落とす。
「あの嬢ちゃん、人間じゃねえだろ?」
「……何でそう思う?」
「長く生きてりゃ分かる。人間にしちゃ綺麗すぎるし、傷の治り方もおかしい。ああいうのは大体、魔物だ」
「それは、アンタにとっては困るのか?」
「俺は医者だ。診る相手が人間だろうがそうでなかろうが、死にかけてりゃ診るさ……金も積まれているしな」
町医者はそのように言いながら笑って答えてくれた。
それから俺は部屋へ入ると、セレネは目を閉じたまま横たわっていた。
白い包帯が脇腹と肩に巻かれ、寝台の上で呼吸だけがかすかに上下している。
近くで見ると、本当に人形みたいだった。
長い白銀髪が枕へ流れ、薄い唇も頬も色がない。
なのに、生きている――森で見た時よりも静かだが、その分だけ余計に壊れ物めいて見えた。
ルクスが扉の近くで立ち止まったまま言う。
「……主」
「何だよ」
「近づきすぎないでください」
「……寝てるだろ」
「それでもです」
ルクスは警戒している――まあ、当然か。
俺は寝台の脇の椅子へ腰を下ろした。
セレネは動かなかったのだが、それから一時間後ぐらいに薄く目を開けた。
淡い紫の瞳――焦点が合うまで少し時間がかかる。
やがて、その目が俺を捉えた。
「……どうして」
第一声がそれだった。
「おい、それ前も聞いたぞ?」
「どうして、助けたのですか」
「しつこいな」
「答えて、ください」
弱々しい声で、俺に問いかける。
それでも、その問いだけは消えないらしい。
俺は少しだけ考えてから、正直に答えた。
「死なせてほしいって顔をしていたからだ」
「……」
「そういう奴を放っておくと、後味が悪いんだよ」
そのように言うと、セレネの睫毛が震えた。
彼女は涙を流す事はなかった。
「私は……助けられるような存在では、ありません」
「そうかもな」
「なら――」
「それでも死なせる理由にもならない」
言い切ると、セレネは少しだけ目を閉じた。
泣く代わりみたいに、細い息を吐く。
「――主」
ルクスが後ろから低く呼ぶ。
余計なことを言うな、という声音だっただが、俺は無視した。
「お前の名前は……」
「私の名前はセレネです」
「人間じゃないのか?」
「ええ」
「じゃあ、お前は何なんだ?」
「嘗て、私は”月影の巫霊”と呼ばれていたものです。」
その単語は、当時の俺には馴染みが薄かった。
精霊でも、魔族でも、亜人でもない。
もっと古く、もっと霊的なものだと直感で分かる。
月影の巫霊――月の加護を受けた、半ば神官、半ば霊体のような存在。
夜と月光に近く、傷や呪い、魂の揺らぎに強く関わる種だと、昔どこかで聞いた覚えがあった。
人の世から離れて生きることが多く、めったに表へ出ない。
治癒や浄化に長ける一方で、月に属する呪いや血の因子とも深く結びつく――そういう、ひどく面倒な系統の存在だったはずだ。
だからこそ、目の前のセレネの弱り方は妙だった。
本来ならもっと強く在るはずのものが、今は傷だらけで寝台に沈んでいる。
「巫霊、か」
「今はもう、そんな名に意味はありませんが……」
「まぁ、巫霊だのなんだの俺には関係ないがな」
まるでどうでも良い存在だなと言う感じに答える俺の姿を見たセレネがゆっくり目を開ける。
その目に初めて、かすかな驚きが浮かんだ。
「あなたは――」
「……何だよ」
「変な人ですですね」
「それは……よく言われる」
この会話の後に、部屋の空気が少しだけ緩んだ。
ほんのわずかだ。
だが、森で見た時よりはましな顔をしていた。
壊れかけたままでも、完全に諦めた目ではなくなっていた。
「ひとつ聞く……湖のあれは何だ?」
「……私を追っていたものです」
「作ったのはお前じゃないのか?」
「私ではありません……そもそもあのようなモノを作れることが出来ないので」
「だろうな」
「ですが、無関係ではありません」
「……どういう意味だ?」
「それを話せば――」
声が、ほんの少し低くなった。
ちらっと俺に目を向けて、再度答える。
「関係のない、あなたも巻き込んでしまいますから」
セレネの言葉を聞いた瞬間、ルクスがあからさまに嫌そうな顔をした。
「主、もう十分です」
「そうか?」
「それ以上は厄介事を抱え込むだけですから……もしかして、巻き込まれるおつもりですか?」
「厄介事じゃない時があったか?」
「ありません。だからやめてほしいだけです」
ルクスの発言は珍しく率直だった。
セレネはそのやり取りを聞いて、ほんの少しだけ口元を緩めた。
笑った、というほどでもない。
だが、沈んだ顔の中に初めて生まれた、ほんのわずかな変化だった。
「……本当に、変な人ですね」
そのように笑った彼女の姿は、いままでで一番きれいな顔をしていたのかもしれない。
だからこそ、その時はそれ以上追及しなかった。
セレネはまだ弱っている。無理に全部を吐かせてもろくなことにならない。
それでも、この時点で薄く察してはいた。
「とりあえず……休め」
立ち上がりながら言う。
「起きたらまた事情を聞くからな」
「え……追い出さないのですか」
「面倒だから後回しだ」
「でも――」
「寝ろ、命令」
そのように、率直に言った俺に対し、また驚いた顔をしている。
そしてそのままセレネは少しだけ黙ってから、小さく答えた。
「……はい」
その返事が、妙に静かだったのを覚えている。
月影の巫霊
あの時はまだ知らなかった。
あの夜の涙が、ただ傷の痛みだけで流れていたわけではない事を。
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