第88話 湖の森
あの頃の俺は、冒険者の仕事をしていた。
大層な理想があったわけじゃない。
ただ、生きるために動き、金を得て、次の場所へ進んでいて――その手段として一番都合がよかったのが、それだった。
魔物を狩ったり、貴族の護衛をしたり、素材を持ち帰ったりもしていた。
時には、依頼という形にすらなっていない厄介ごとへ首を突っ込む事もしていたことを思い出す。
ある理由でルクスと契約してから半年ほど――ようやく一人で動くだけの形が整い始めた頃だ。
まだ今ほど手札と言うモノは多くはなかった。
だが、少なくとも死なない程度で切り抜ける、それだけのことは、もう身についていた。
――人食いが住んでいるバケモノの森の話を聞いたのは、街道沿いの小さな宿場町だった。
酒場の隅で流れていた噂話で、俺は話を聞いてみた。
夜に森へ入った人間が帰ってこず、帰ってきても、ひどく怯えていて、話が支離滅裂になる。
何人かは死体で見つかり、傷口はあるのに血が妙に少なく、湖の近くへ打ち捨てられていた、と。
最初はよくある怪談めいた話だと思った。
だが、話が広がるにつれて、ある一転の話が繋がる。
――そこには、泣いている美しい女性がいると。
そこでようやく、ただの獣型魔物ではないと判断した。
「――主」
酒場を出たあと、ルクスが低く言った。
「嫌な匂いがします」
「血か?」
「それだけではありません」
白銀の狼王は、夜の風へ鼻先を向けるようにわずかに目を細めた。
「湿った呪詛のようなものが混じっている……」
「それは……厄介そうだな」
「引く選択肢もありますが、どうします?」
「あると思うか?」
「主の判断に任せますが……どうやらなさそうだ」
ルクスはそのように言った後、静かに笑う――最近ちょっとだけ生意気になっただろうかと感じつつも、それはある意味俺に慣れてきてくれたのだろうと考える事にした。
そもそも、止めると言う選択肢などない。
冒険者の仕事として見ても、放っておけば被害は増える。
何より、その手の2泣いている女”は大抵ろくでもない形で本体が潜んでいる、うん、間違いなく。
俺はルクスと共に夜のうちに森へ入った。
今日の月が高かった。
空は妙に澄んでいて、雲もない。
湖の方角から吹く風は冷たく、森の中へ入るほど温度が落ち、枝葉が月光を細く裂いて、足元へ白い模様を落としていた。
――静かすぎる森だ。
鳥の声がしない。
獣の気配もない。
枝を踏む自分たちの足音だけが、やけに響く。
「生き物が逃げていますね、あるいは近づくことを恐れている、と言う感じです」
嫌そうな顔をしながら、ルクスが言う。
「どっちでも大差ないな」
「ええ」
俺とルクスは他愛の花話をしつつ、湖へ近づくほど、血の匂いが濃くなる。
だが、新鮮なものではなかった。
乾ききる手前の、嫌に甘ったるい匂いだ。
俺は腰の短剣へ手をかけたまま、月光に白く浮かぶ湖面を見る――そして、その岸辺で見つけた。
――女だった。
白い髪に白い衣、月の下で、その姿だけがやけにくっきりと見える。
膝をついたまま、肩を小さく震わせていおり――泣いていた。
だが、その涙の綺麗さと、身体の傷の生々しさが噛み合っていなかった。
腕。肩。脇腹。足。
そこから血が流れている――いや、流れていた跡がある。
裂傷というより、何かに抉られたような傷だった。
衣はところどころ破れ、足元の草には黒ずんだ血が落ちている。
普通の人間であれば、あの時点でとっくに倒れている。
それでも女は生きており、泣きながら、月を見ていた。
ゆっくりと俺は警戒をしながら近づく。
「……おい」
声をかけると、女の肩がぴくりと揺れ、こちらを見る。
その目を、今でも覚えている。
綺麗で、だが、それ以上に壊れかけていた。
助けを求めている目でも、敵意のある目でもない。
死にたいのに死ねないものが、最後に月を見上げているような目だった。
ルクスが一歩前へ出る。
「主、下がってください」
「敵意はあるか?」
「……読みにくい、です……魔物なのかも断言できない」
女はそのやり取りを聞いているのかいないのか、ぼんやりとした目でこちらを見ていた。
涙が頬を伝って落ち、だが、その顔には“助け”を求めていない。
代わりにあったのは、ひどく静かな諦めだった。
だから俺は、最初にそう言った。
「……まだ死ぬなよ」
無意識にその言葉が出てしまったのだ。
それを聞いた女の目が、わずかに見開かれた。
「……どう、して?」
掠れた声で問いかけた。
思ったより若く、見た目以上に、声の方が先に弱っていた。
「俺はそもそもお前を死なせるために来たんじゃない」
「……」
「森の人食いを探してる」
「それなら――」
女は笑った。
笑った、というにはあまりに力のない動きだったが。
「もう、そこにいますわ」
その言葉と同時に、湖畔の空気が変わった。
ルクスが低く唸る。
「主!」
直後、女の背後――湖面に映る月の影が、ぐにゃりと歪んだ。
一瞬にして反射的に横へ跳ぶ。
次の瞬間、さっきまで俺が立っていた場所の地面が抉れた。
水ではなく、血とも影ともつかない黒い塊が、獣の爪みたいな形で突き出していた。
「――なるほどな」
そのように言いながら俺は短剣を抜いた。
「本体はそっちか」
「月に寄った呪性です!水面を媒介にしています!」
ルクスが叫ぶように言いながら動き、俺も同じように動く。
湖が不気味に揺れ、風もないのに、月の映り込みだけが波立っていた。
女は動かない。
いや、動けないのかもしれない――血を失いすぎており、それでもまだ意識があること自体がおかしかった。
なら、先に片づけなければならない。
「ルクス、右から回れ!」
「承知しました!」
俺の言葉に対し、白銀の影が一気に森を駆ける。
それに合わせて、湖面から黒い腕がいくつも伸びm月を映す水そのものが、何かを喰って育ったみたいに粘ついた魔力を帯びている。
冒険者の仕事には、こういう魔物が時々おり、それに対しては面倒だが、対処法はある。
「水面を砕くぞ!」
「了解」
ルクスが横から氷混じりの風刃を放ち、俺は正面から踏み込み、月の映る一点へ剣を叩き込んだ。
次の瞬間、高い音が鳴る。
水面ではなく、薄い膜を割ったみたいな感触だった。
瞬間、湖の中央で黒い塊が悲鳴じみた歪みを上げる。
人型とも獣型ともつかない、不完全な影だ。
「なるほど……寄生型か」
「……最悪ですね」
ルクスが嫌そうな顔をしながら低く返した。
あれは湖と月光と血を餌に育つ呪性の塊。
人を殺して、その恐怖や断末魔まで喰っていたのだろう――そこへ何か別の要因が混ざって、半端に人格めいた反応を持ち始めている。
だから泣く女を見せている。
誘い込み、近づいた人間を喰うために。
だが――
「――違うな」
俺は湖畔の女を見る。
あれは囮ではない。
彼女は本当に泣いており、そして傷ついている。
そして、その傷の深さに対して生きすぎている。
「ルクス、湖の核を割るぞ……こいつは俺が取る」
「危険です」
「分かってる、けどやらなきゃならない」
「……わがままですね、本当に」
既に諦めているのか、ルクスの表情はあまりよくない。
対し、影がこちらへ殺到する。
俺はそれを短剣で捌きながら、一気に女の方へ距離を詰め――近くで見て、やはり確信した。
彼女は人間じゃない。
体内に”何か”気配が濃すぎる。
傷口から流れる血にすら、薄い光が混じっていた。
「……立てるか?」
「……無理、です」
「だろうな」
女は泣きながら答える。
その声には不思議と芝居がなかった。
湖の中央でルクスが核へ食らいつく。
黒い影が暴れ、森全体が軋むように揺れた。
「なら俺の手を取れ」
「え……」
「連れていく」
突然の言葉に驚いた彼女だったが、手を伸ばす事をしない。
だから俺は女の腕を取った。
体温がひどく冷たい。
人の体温じゃなく、まるで月光そのものに触れたみたいな冷たさだ。
「どうして」
また同じことを聞く。
「どうして、まだ……」
「死なせる方が面倒だからだ」
それは、俺自身の本音だった。
女はその返事に、ほんの少しだけ目を見開き、次の瞬間、湖の核が砕ける。
ルクスの咆哮と、黒い影の断末魔――月の映り込みが揺れて、森を縛っていた呪性が一気に崩れた。
その余波の中で、俺は傷だらけの女を抱え上げる。
白い髪が腕の中へ零れ、女はなおも涙を流していたが、さっきまでの瞳をしていなかった。
消えかけた火が、かろうじて残っているような目をしていた。
「お前、名前は?」
森を抜けながら聞くと、女はしばらく答えなかった。
やがて、掠れた声で言う。
「……セレネ」
それが、セレネとの最初の出会いだった。
月夜の湖の森で、人喰いの呪性と一緒に見つけた傷だらけの女だった。
あの時はまだ知らなかった――あの名前の先に、どれだけ深い月の因縁と、血の記憶が続いているのかを。
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