第87話 月のない朝
次の日の朝、空は妙に白かった。
昨日の夜あれだけ気になっていた月は、当然もう出ていない。
それでも、家の外に残っている空気はどこか冷えており、夜の名残というには薄く、だが完全に消えたとも言い切れないような半端な静けさを感じた。
朝の祖父母の家は早い。
台所の方からは祖母の立てる物音が聞こえてくるし、廊下の向こうでは誰かが戸を開ける気配もした。
廊下の戸を開けたのは叔父の智明だった。
理央たちも起き始めているらしく、昨日よりのんびりとした時間のようなモノが家の中に広がっている。
その中で、一人だけ外れた場所に立っている気配があった。
縁側へ出ると、予想通り、セレネがいた。
白い衣を揺らしながら、庭の先――いや、もっと遠くの空気を見ているかのように。
今は月などどこにもない。
朝の空は淡く明るく、昨夜みたいな異様な白さも表面上は引いている。
それでもセレネは、まだ見ていた。
「セレネ」
「おはようございます、ノア」
「夜が明けたから、もう、月はないぞ?」
「ええ、そうですね……」
声をかけると、セレネはいつもの笑顔で挨拶をしてくれた。
穏やかな表情は変わらない。
だが、その目の奥にはまだ昨夜の緊張が残っている。
俺は再度、問いかける。
「それなら、何を見ているんだ?」
「残り香のようなモノなのでしょうか?」
「月、のか?」
「……それだけではありません」
そう言って、また視線を空へ戻す。
朝の空の下で見るセレネは、昨夜より少しだけ現実に近い。
夜の月光の中では、こいつは本当に人ではない何かに見え――だが、こうして朝の空気の中にいると、どこかひどく疲れた人間にも見えた。
「まだ気になるか?」
「ええ、そうですね」
「昨日よりも?」
「……いいえ」
セレネは少しだけ目を伏せる。
「昨日よりは、はっきりとしている感じがしますね」
「何が?」
「……思い出してしまいました」
セレネのその言葉に、俺は少しだけ黙った。
昨夜のセレネは、何かを感じていた。
だが、それが何かを言葉にしきれていない。
今の言い方だと、一晩でその輪郭が少しだけ浮かび上がったのだろう。
庭木を風が揺れ、遠くで鳥が鳴く。
朝の音は穏やかなのに、その沈黙だけが少し重く感じるかのように。
「ノア……いいえ、ご主人様」
やがて、セレネが小さく言った。
「――私と初めて会った日の事を覚えておりますか?」
その問いに、記憶を少し探る。
もちろん覚えている、忘れるはずがない。
ルクスと契約してから、半年ほど経った頃だ。
前の世界では自分は別に何物でもなかった。
正義の味方でもなければ、悪人でもない。
ただ、これから自分自身で何かを始めなければならない――そのように思いながら、生きていた。
セレネとの出会い――それは、依頼を受けて立ち寄った場所だ。
「お前との出会いが、お前が”人食いの怪物”と呼ばれていた時だったな……」
「ふふ、そうでしたね」
そこまで口にした時点で、記憶の輪郭がはっきりしてくる。
ある森の湖の所で、人間を殺している魔物がいるという噂があった。
その近くの村からの依頼だったのだが、荒っぽい感じの依頼だった。
夜に人が消え、死体が見つかることもある。
血の気が抜けたような傷を負って、湖の近くに転がっている、と。
当時の俺は、そういう噂を聞けばお金を稼ぐ為に動いていた。
”冒険者”と言う感じの仕事をしていたと思う。
「ご主人様はあの時、まだ今よりずっと無茶をしていた人でしたね」
「今も似たようなものだろう?」
「今は少しだけ、自覚がある分、マシですよ……」
そう言って、ほんの少しだけ笑った。
だが、その笑みもすぐに消える。
「――森は静かでした」
セレネの声が落ちる。
「静かすぎるほどに」
「……そうだな」
あの日、月の光が湖の面に白く落ちていた。
森は妙に明るいのに、奥へ入るほど音が消える。
鳥も、獣も、何も寄りつかない。
血の匂いだけが、薄く、長く残っていた。
「そこで私はあなたと出会いました」
そう言った時、セレネは空ではなく、庭の先の地面を見ていた。
まるで、その光景が今もそこにあるみたいに。
「傷だらけで、泣いていたな」
「……そう、ですね」
答えは小さい。
「俺は人食いの怪物を探しに行ったはずだった」
「ですが、主が見つけたのは私でしたね」
「魔物でもなく、人間でもない女をな……」
「その言い方は少しひどいですね」
「事実だろう?」
「まぁ、そうですけど……」
セレネはそう言って、少しだけ目を細めた。
朝の光の下でも、その横顔には夜の名残があった。
いや、違う。昨夜の気配に引きずられて、もっと古い記憶が表へ出てきているのだ。
「ご主人様は、あの時……私を見つけて、最初に何とおっしゃったか覚えていますか」
「確か……死ぬのか、と言ったような気がする」
「半分正解です」
「半分?」
「正確には」
セレネは、そこでほんの少しだけ昔を思い出すような顔をした。
そしてとてもいい笑顔で答えたのだ。
「“まだ死ぬな”でしたよ」
その言葉に、胸の奥で記憶がひっかかった。
ああ、そうだったかもしれない。
泣いていて、傷だらけだった。
それでも、あれはただ弱っている顔ではなかった。
死にたいのに、壊れたいのに――死ぬことすら、出来ない、そんな訴えが頭の中に響いたような気がしたからこそ、俺はあの時――。
「……嫌な記憶を思い出したな」
「私にとってはあの出会いは幸福でした……生きる意味を見つけたのですから……ですが、別の世界に行っても、”奴ら”は追ってくる」
「どういう意味だ?」
「……そんな、感じがしたのです」
そのように言いながら、再度空に視線を向ける。
彼女はわかっていたのかもしれない。
これから、自分自身にとっての”運命”が待ち受けているのではないだろうか、と。
だからこそ、俺は思わず声をかけて手招きする。
「セレネ」
「……ご主人様?」
突然手招きをされて視線を向けると、俺はその場にしゃがみ込み、隣の床を叩く。
その意味を理解したセレネは再度、ふふっと笑い、近くに行き、隣に座り込む。
セレネはそんな彼自身を見て、笑う事しか出来ない。
俺も、隣に座ったセレネを見た瞬間、自分は何をやっているのだろうと我に返ったのだから。
「フフ、無意識でしかご主人様?」
「……黙って座ってろ」
「それでは要求しますわ。頭を撫でてくださいね」
「……はいはい」
楽しそうに笑いながらそのように答えるセレネに逆らえなくなった俺は要求通りに彼女の頭を撫でるのだった。
相変わらず綺麗に、そして楽しく笑うセレネに対し、俺はそのまま彼女のとの出会いを思い出していたのだった。
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