第82話 理央の確認
祖母、祖父宅から外へ出ると、空気が少しだけ軽かった。
朝の光はまだ柔らかく、庭の土は夜の冷えをわずかに残しており、遠くで鳥の声がして、風が草を揺らす音が静かに耳に入る。
さっきまでの居間とは違う、清々しい空気があるかのように感じながら。
「こっちだ」
理央が短く言って、家の裏手の方へ歩いていく。
俺は何も言わず、その後ろについていく。
庭の端、木の影が少し落ちる場所で、理央は足を止め、振り返った。
その顔は、さっきまで食卓で見せていたものとは違っていた。
戸惑いも、ほとんどない。
ただ、何かを決めているかのように、真剣のあ表情をしていた。
「……乃亜」
理央が静かに、俺に目を向けている。
俺を見ているのか、それとも”久城乃亜”を見ているのかわからないが。
「お前の話を聞いて、今すぐ全部理解するのも、全部信じるのも……正直できねえ」
正直に、そのように理央が言った。
無理に飲み込もうとしていない。
そして昔のように、分かったフリをする気もないし、やり過ごすつもりもないらしい。
「だけど……お前の話が、全部嘘だとも思ってねえ」
視線がまっすぐこちらへ向く。
「……今の”乃亜”は、どんな感じになってるんだ?」
――やはりそこから来るか。
俺は静かに息を吐きながら、自分の胸に手を置いた。
乃亜は今、俺の心の中に沈んだ形になっている。
だからこそ、はっきり俺は告げた。
「何度も言った……深く、沈んでいる感じだ。消えてはいない」
「沈んでる、って……」
「意識の奥……表には出てこないが、完全に失われたわけでもない……ただ、壊れかけた心を修復するのは簡単じゃないって事だ」
それを聞いて、理央は少しだけ視線を落とした。
土の一点を見つめるようにして、しばらく黙る。
「壊れかけてるって……壊れてるってことじゃないのか?」
言い方は乱暴だが、本質は外していない。
俺は少しだけ考えてから答える。
「完全に壊れているわけではないな」
「でも、普通じゃねえんだろ」
「ああ、普通ではないな……だからこそ、セレネたちが、そばに居て、支えてくれている」
「……ささえ、てる」
その返しに、理央の肩がわずかに揺れた。
分かっているのだろう?
“沈んでいる”という言葉の意味を。
ただ眠っているわけではない。自分の意思で出てこれない場所にいるということを。
「……俺たちのせいか」
ぽつりと落ちた言葉だった。
風の音に紛れそうなくらい小さい。
だが、はっきりと聞こえた。
「……俺たちが、追い込んだのか」
顔は上げないまま、続ける。
俺ははっきりと、肯定出来なかった。
辛そうな顔をしている事に対し、自業自得だと俺が思っているのは間違いない。
そのまま、理央の話が続く。
「気づいてなかったわけじゃねえ」
「……」
「でも、止められなかった」
「……」
「助けられなかった」
拳が、わずかに握られている。
「――だから、沈んだんだ」
静かに俺はその言葉を言う。
結論のように言っってみると、目を見開いて、そして静かに息を吐いた。
顔からは、青ざめた顔をしているのが分かる。
「俺たちのせいで、壊れたんだな」
その言葉には、逃げがなかった。
責任を押し付けるでも、誰かに転嫁するでもなく、ただ自分の中でそう繋げている。
それが正しいかどうかは別として、少なくとも理央はそう理解している。
だからこそ、理央はその言葉を言ったのかもしれない。
「……助けたい」
小さく、だがはっきりと言った。
理央は顔を上げる。
その目は、さっきまでとは違っていた。
迷いが消えたわけではない。
だが、“どうするか”だけは決めている目だ。
「放っておけねえ」
小さく、短い言葉だった。
けれど、それで十分だったと思う。
「お前がどういう存在かは、まだ全部は分からねえ……でも、乃亜を戻すつもりで動いてるってのは、分かった」
そこで一歩、こちらへ近づく。
「……俺は、何をすれば、乃亜を救える?」
はっきりと、理央はそのように言ってきたことを、俺は聞き逃さなかった。
静かに、何も言わず、俺は真っすぐと理央に視線を向けていた。
「……いいのか?」
「いいも何も……元々、俺は元々友達だったのに……そもそも俺が手を伸ばさなきゃいけなかったんだ」
それは、どこか当たり前みたいな言い方だった。
「今更かもしれないが、今度は絶対に乃亜を見捨てねぇ」
「……」
「それに……借りをそのままにしとくの、性に合わねえ」
”借り”――多分、校外学習での時に助けた事を言っているのであろう。
理屈ではなく、性分の話に落とす。
だが、それが一番信用できるとも思う。
「一つだけ……お前は敵じゃねえんだな、乃亜の?」
「違う」
俺はすぐにその返事をした。
元々俺はこの身体に勝手に入ってきてしまった魂だ。
本来ならば、この身体に居られるわけがない。
その話を、理央に言う。
「この身体を奪うためにいるわけではない。そもそもこの身体に入ってしまったのは、事故だ」
「……」
「乃亜に返す、必ず」
「……ああ、そうか」
「それと」
「なんだよ?」
「――乃亜は、お前たちを恨んではいない」
俺の言葉を聞いた瞬間、理央の動きが止まった。
目が、わずかに揺れる。
「……そうなのか」
「ああ」
「本当に……?」
「少なくとも、俺が見ている限りはな」
沈んでいる――だが、感情が完全に消えているわけではない。
あの奥にあるものは、憎しみではない。
理央はしばらく何も言わなかった。
ただ、その場に立ったまま、何かを噛み締めるように目を伏せている。
やがて、小さく息を吐いた。
「……そうか」
ただ、それだけだった。
だが、その一言で少しだけ肩の力が抜けたのが分かる。
全部が軽くなったわけではない。
後悔も、引っかかりも、消えたわけではない。
それでも、“恨まれていない”という一点は、理央の中で確かに何かを変えた。
「じゃあ、やることは一つだな」
顔を上げる。
さっきよりも、少しだけ真っ直ぐな目だった。
「乃亜を元に戻す」
単純だ――だが、それでいい。
「そのために動かないといけないな」
理央はそう言った。
余計な言葉はない。
決意だけが、そこにあった。
俺はそれを見て、ほんのわずかに息を吐く。
完全に信用したわけではないだろう、こちらも同じだ。
だが――一歩は、確実に縮まった。
風が、庭の木を揺らす。
その音の中で、理央は俺に視線を向けながら、笑うのだった。
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