第78話 俺は久城乃亜ではない
「――無理はしちゃだめよ、ノア」
セレスがそのように言っていたような気がする。
彼女は昔から、俺の事をまるで弟のように心配してくれる――しかし、怒ると怖い。
祖父との会話が終わった後は、怒りは収まったようなのだが、彼女は夢の中で自分の頭を優しく撫で、微笑んでいるように見えた。
そして、いつの間にか朝を迎えたのである。
目を開けると同時に、台所から音が聞こえる。
きっと、祖母が朝食を作っているのであろうと考えながら。
だが、そんな穏やかな朝の気配とは裏腹に、今日の居間には別の張りつめた空気が満ちていた。
祖父の言葉通り、全員が顔を揃えている。
うん、朝食の前だ。
卓の上には、まだ何も並んでいない。
祖母の意図は明白だ――話を先にするために、あえて朝食の支度を止めているのだろうと理解しながら、俺は汗を流していた。
居間の空気は凪いでいたが、それは決して穏やかな静けさではなかった。
理央は椅子に深く腰掛けたまま、膝の上で強く手を組んでいた。視線は真っ直ぐ俺に向けられているが、そこにあるのは敵意ではない。何かを覚悟し、すべてを受け入れようとする聞く側の顔だ。
透花は背筋をピンと伸ばし、わずかに強張った表情で座っていた。
恐怖はあるはずだ。それでも逃げ出そうとはしていない。
花宮はいつもよりずっと静か――何かを値踏みするように動いていた瞳は収まり、むしろ何もかもを見透かそうとするかのように、まっすぐと俺を捉えている。
祖母は心配そうな面持ちで、祖父は昨日と変わらず、全てを見極めるかのような沈黙を守っていた。
智明だけが、妙に普段通りに振る舞っていた。
下手に深刻な空気を醸し出さないのが、彼なりの気遣いなのだろう。
全員が待っている。俺が口を開くのを。
「……」
小さく吐き出した息が、妙に大きく響いた。
面倒なことだ、と思う。
だが、ここまで来て沈黙を貫くわけにはいかない。
祖父に促されたから、というだけではないのだが、もはや現状を誤魔化しきれないのだとはわかっていた。
「……祖父や、叔父さんには言っていたけど、俺は”久城乃亜”ではない……です」
――言い切った。
その言葉を言った瞬間、一瞬で居間の空気が張り詰めたのを感じた。
誰もが、息を呑み、その話を聞いていたのかもしれない。
そのまま、俺は話を続けた。
「今、俺がこうしてここにいるのは、乃亜の身体を借りている」
「借りてる、って……」
思わず漏れたのは、透花の震える声だった。
口に出すつもりはなかったのだろう、すぐに彼女は口元を硬く結ぶ――だが、その動揺はもっともだった。
「正確には、一時的に預かっている、に近い……そもそも俺は、最初から乃亜を奪うつもりじゃない。目を覚ましたら乃亜の体に居たんだ……」
「……じゃあ」
今度は理央が口を開いた。
目の前の男を、責めるつもりはないのかもしれない。
ただ、どうしても確認しなければならないという切実な響きがあった。
「どうして、そうなったんだ?」
理央の言葉に、俺は話を続ける。
「俺は本来、別の世界の人間なんだ……」
そう告げると、澪がわずかに目を細めた。
「この世界とは違う場所で生きていた。そこで死んだ、そしてさっきも言った通り、気づいたら乃亜の身体の中にいた」
「……」
「詳しい理屈はまだ全部分かっていない。だが、少なくとも偶然とは思っていない」
そう、偶然とは思えないんだ。
裂け目、異世界とダンジョンの繋がり――そして、あのヴィーシャの言葉も気になる。
しかし、その詳細までを語る必要がない、むしろ、出来ない。
今、必要なのは、俺が「何者か」という事実を認めることだけなのだから。
「……乃亜本人は消えていません……今もいる。ただ、深く沈んでいるだけだ」
「沈んでる……」
花宮が小さく反芻する。
その声には、彼女が予感していたことと、事実として突きつけられた重さが混じっていた。
「じゃあ……お前はその身体から出るつもりなんだな?
「ああ」
「乃亜を返すために動いてる?」
「そうだ」
その瞬間、沈黙が居間を支配する。
全員が、突きつけられた事実に必死で向き合おうとしているのが分かる――ただの嘘や狂言ではないが、そう簡単に飲み込める話でもない。
透花は視線を逸らす事が出来ないのかもしれない、怖いのだろう。
それでも、今の俺を確かめようとしている。
「えっと、あの……聞いてもいい?」
透花が躊躇いがちに声を上げた。
「何だ?」
「――乃亜くんは、ちゃんと戻ってこられるの?」
その問いが、この場において最も重いものだった。
そう、もしこのまま戻ってこなかったら――しかし、そんな事、俺は絶対にしない。
「必ずこの身体を返す。そのために、俺は動いているんだ」
「……本当に?」
「約束する」
「……」
透花は深く頷いた。
だが、今の言葉が誤魔化しではないと受け入れたのだろう。
その時、突然祖母が初めて声を上げた。
「難しい話をしているのは分かるわ……でも、まず一つだけ聞いていい?」
「何、ですか?」
「あなた、その身体で無理をしすぎてるんじゃないの?」
不意を突かれてしまった――そこか、と思う。
この人は、何をおいてもまず乃亜の”身体”の心配してくれる。
同時にまるで、俺自身を見ているようにも見えた。
「……しているでしょうね」
「『でしょうね』じゃないのよ」
祖母は困ったように眉を下げた。
ため息を吐きながら突然俺の両頬を鷲掴みにしながらジッと見つめ、話を続ける。
「昨日も顔色、全然良くなかったもの!」
「あの、えっと……」
「美味しいモノ食べてる?本当に無理してないのよね?ちゃんと寝てるの?」
「あ、う……」
何をどういえばいいのかわからない俺に対し、助け舟を出したのは智明だった。
「はぁ……母さん……今はそこだけじゃないだろ?」
「大事でしょうが!」
「まあ、そうなんだけどね……話がそれるからとりあえずどいてくれ」
智明と祖母のそのやり取りに、張り詰めていた空気がわずかに和らぐ。
祖父はまだ黙ったままだが、その目はとてもやさしい。
すると、理央が低く念を押すように言った。
「……本当に、お前は乃亜じゃないんだな」
「ああ」
「でも、乃亜の身体にいるんだ……」
「そうだ」
「乃亜にちゃんと体を返すつもりでいる」
「そのつもりだ」
何度も同じことを聞いた後、理央は小さく息を吐き出した。
何度も確認することで、自分の中に事実を押し込もうとしているのだ。
「じゃあやっぱり、あの配信の人も……」
と、花宮は静かに呟いたが、それを聞いていた智明が遮る。
そのまま、祖父が、静かに口を開いた。
「話の筋は分かった……少なくとも、約束はちゃんと守るらしい」
「当たり前ですよ!」
「ならいい」
祖父は目を細め、最後にこう言った。
「ただ、聞いた以上、確かめる必要はあるな」
予想していた通りだ。俺は小さく頷く。
つまり、乃亜には出来ない事をやればいい、と言う事だろう。
「もちろん、証明は出来ます」
そのように言い、静かに息を吐いた。
そのまま俺は黒猫のミュールと目が合い、手招きすると嬉しそうに笑いながら俺の膝に乗る。
それと同時に、俺は意識を集中させ、召喚の形を取るのだった。
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