第77話 祖父とのやり取り
夜は静かだと思う。
祖父母の家は古いが、そのぶん夜の音がよく分かる。
柱がわずかに軋む音と風が庭木を撫でる気配と、そして遠くで鳴く虫の声。
どれも小さい音なのに、それも結構気になってしまう。
きっと、新しい場所だからなのかもしれない。
理央たちももう部屋へ入っている。
智明も、さすがに今日は早めに横になったらしい。
祖母の動く気配も薄れていて、家全体が夜の深さへゆっくり沈んでいくのが分かった。
――俺は眠れなかった。
身体は間違いなく疲れているはずなのに、眠れない。
横になれば重さが骨の奥まで沈むし、まだ本調子ではないのも自覚している。
だが、場所が変わったことと、明日以降に増える面倒を考え始めると、意識だけが妙に冴えてしまう。
俺は結局部屋を出てしまった。
部屋を出ると、まず廊下が暗い。
端の方に置かれた小さな足元灯だけが、床板に淡い色を落としていた。
そもそもどこへ行くというわけでもなく、静かな空気の中を少し歩いていると、足元に気配が寄った。
見れば、黒猫姿のミュールが音もなくついてきていた。
金色の目だけが妙に楽しそうに見える。
「お前は寝なくていいのか」
小声で言うと、ミュールは尻尾を一度だけ揺らす――どうやら返事の代わりらしい。
そのまま居間の前を通りかかった時だった。
「起きていたのか?」
思わず視線を上げると、居間の障子が少しだけ開いていて、その向こうに祖父が座っていた。
灯りはついているが、暗く見えてしまう。今日の夜は深い色をしていたからなのかもしれない。
卓の上に急須と湯呑みが一つ置かれており、どうやらまだ寝ていなかったらしい。
「……ええっと、はい」
俺は短く返した。
「入るか?」
「……いいんですか?
「ああ、座って話をする方が楽だろう?」
祖父の言葉に断る理由もなかった。
ミュールが先にするりと入り、部屋の隅へ丸く収まり、俺はその後へ続いた。
畳の上に座ると、祖父は向かいへ湯呑みを置いた。
湯気はもう薄い。
だが、温かさは残っているらしかった。
「少し冷めているが、それでも良いか?」
「十分です」
湯呑みに手を触れると、じんわりとした熱が指先へ移る。
祖父はすぐには話し始めなかった。
ただ静かにこちらを見ており、その目は昼間と同じだった。
その瞳を見て、何を言われるかは、だいたい察していた。
「この家は久しぶりか?」
「……そうですね」
「そうか」
「……」
何を言って、何を話せばいいのだろう?
そもそも会話が続かない。
俺は、目の前の祖父に、どの言葉を言えばいいのか、全く持って混乱している状態だった。
しかし、次に出た言葉に対し、俺は驚く事しか出来なかった。
「……一つ、聞くことがあるんだ」
「え?」
「――君は誰だ?」
その言葉を聞いて、俺は思わず息が一瞬出来なくなってしまっていた。
それと同時に、ああこの人は間違いなく、智明の父親だと認識する事が出来た。
智明も俺が”久城乃亜”だと言う事に気づいた。
息子同様、父親も目が良い。
祖父は、恐れても居なければ、怒りもなかった。
ただ、事実確認をしてくる言葉だった。
ミュールが部屋の隅で目を細める。
俺は少しだけ息を吐いた。
「……いつから、気づいていたんですか?」
「最初から……君が乃亜ではないと言う事、見ればわかった」
「はは……叔父さんも鋭かったけど、あなたも鋭いな……」
「智明も知っていたのか……まぁ、私の息子だしな」
「……」
俺はただ、笑う事しか出来なかった。
とりあえず、どこからどこまで話せばいいのか、考えなければいけない。
しかし、誤魔化しきれるとも思っていない。
湯呑みを卓へ戻す。
その小さな音がやけに大きく感じられた。
「確かに俺は、久城乃亜本人じゃない……だけど、敵でもありません」
「敵ではない、か?」
「はい」
「では君はどうして乃亜の体に入っている?」
「……乃亜は生きている。ただ、どうしようもなく、心も身体も、壊れてしまって、このままでは死ぬ一歩手前でした」
「……
問いは短い。
だが、急かしてはいない。
「別の世界の人間です」
そう言うと、祖父の目がほんのわずかに細くなった。
「異世界、という言い方の方が分かりやすいかもしれません」
「……」
「事情があって、今は乃亜の身体を借りています」
「……美紗希のせいか?」
「多分……ですけど」
祖父は黙って聞いてくれていた。
同時に、その原因は自分たちの娘、そしてその家族にあると言う事が分かったらしい。
その話を聞いて、苦々しい顔をしている祖父の姿があった。
「乃亜は今、どうしているんだ?」
「消えては、いません……今は深く沈んでいるだけです」
「沈んでいる?」
「はい。魂の形では、まだここに……俺の中に居ます」
「……戻せるのか?」
その問いだけは、少し重かった。
「――乃亜は必ず戻します。そのために、俺は動いているから……必ず、この身体を返します。絶対に」
真剣に、俺は自分の気持ちを伝えると、一瞬驚いた顔をした祖父は先ほどの同じ顔に戻る。
そこで小さく息をついた。
まるで、話を一つ飲み込んだ時の呼吸だった。
「智明はどこまで知っている?」
「一応ほとんどは話しました」
「……では一緒に来た彼らは?」
「……まだ、色々と話しておりません」
理央、透花、そして花宮――この三人には絶対に話さなければならないと思っている。
しかし、どのように話せばいいのかわからない。
濁っている顔をしていたからなのか、祖父はそんな俺の顔を見つめながら言った。
「――明日、ちゃんと話しなさい」
「……」
「きっと、彼らもわかってくれるはずだ……大丈夫。そんな顔をするな」
「……はい」
声音は静か――だが、そこにははっきりとした線があった。
この家にいるなら、見えている違和感をなかったことにはさせない。
そして、そのまま祖父の優しさが、静かに伝わってくる事を感じながら。俺は静かに頷く。
「にゃーん」
ゆっくりと、黒猫のミュールが俺の足にすり寄ってくる。
まるで、だいじょうぶだよのあ、と言っているかのように――俺はそんなミュールを見て、何処か安心感を覚えながら、黒猫を優しく抱きしめたのだった。
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