第71話 目を開けた先
最初に戻ってきたのは、音だった。
一定の間隔で落ちる、微かな水音。
規則的で静かで、ひどく現実的な音だ。
次に匂いが来る――薬品と、消毒液と、清潔すぎる布の匂い。
鼻の奥に薄く刺さるその感じで、ここがどこかはだいたい察しがついた。
ここは、病院だ。
目を開ける前から、身体の重さで分かる。
腕が鈍く重く、胸の奥はまだ少し熱を持っていて、息を吸うたびにわずかな痛みが残っている。
全身が、自分のものではあるのに少し遠い。
――バハムートの反動か。
意識の底でそんなことを思いながら、ゆっくり瞼を持ち上げた。
白い天井が見えた。
やや遅れて、視界の端にカーテンの影と、点滴の管が入る。
右腕に引っかかる違和感の正体も、それで分かる。
「はぁ……起きたか」
低い声がして、首だけそちらへ向けた。
乃亜の叔父である、篠宮智明が、ベッド脇の椅子に座っていた。
ジャケットは脱いでいて、シャツの袖も少しだけ乱れている。
顔には露骨に疲労が出ていたが、それでも目だけははっきりこちらを見ていた。
その少し後ろ、窓際の薄暗いところに、半透明の白銀が立っており――あ、ルクスだ。
完全に顕現しているわけじゃない。
輪郭は薄く、月明かりが人の形を真似ているような曖昧さがある。
それでも淡い金の瞳だけはいつも通り鋭く、こちらをまっすぐ見ていた。
「……二人とも、いるのか」
喉が掠れていた。
思っていたより声が出ない。
智明がすぐに立ち上がる。
「乃亜、水飲むか」
「少し……だけ」
「そうか、ちょっと待ってろ」
そのようにいいながら、ペットボトルの水を渡す。
微かに動くてで受け取り、起き上がろうとしたのだが、うまく起き上がれない。
智明はそんな俺に対し、身体をゆっくりと起こしてくれた。
そのまま口をつけて、数口飲んで、息をつく。
「……悪い」
「謝る事じゃねぇよ……気分は?」
「最悪、とまではいかない」
「そうか……災難だったな、乃亜」
「……ああ、そうだな」
話をしつつも、身体はだるく感じた。
無理やり魔力を流し過ぎた後の感覚に近く感じている。
骨の内側に熱が残っていて、筋肉は妙に重く、少し動くだけでも鈍い痛みが走る。
乃亜の身体には、明らかに負担が大きすぎた。
ルクスが窓際から一歩だけ近づいた。
半透明の輪郭が、わずかに揺れる。
「――主」
「ああ、ルクス」
「無茶しすぎましたね……そして、ミュールに何か言われましたか?」
「起きてすぐそれかよ……まぁ、色々と、な……そばに居てくれてありがとう」
ルクスに対して礼を言うと、彼は何も言わず静かに言いを吐いた。
その二人のやり取りに、智明が小さく息を吐いた。
対し、俺は智明に目を向けて問いかける。
「どのくらい寝ていた?」
「丸一日は越えてるな……」
「……そうか」
「医者には過労と極度の消耗って説明された」
「……まぁ、間違ってはいないな」
「間違ってなくても困るんだよ、こっちは」
その言い方は少し荒かったが、怒鳴るほどの強さはなかった。
怒っているというより、気が抜けたあとの疲れが混じっている。
多分、この人もかなり無理をしたのだろう。
きっと、家族とのやり取りもあったはずだ。
「……他はどうだった?理央たちは?」
「全員無事だし、生きてるぞ」
「そうか……」
「……何があったんだ?」
「隠しエリアに飛ばされて、ある敵と遭遇して理央たちに俺が”久城乃亜”ではないとバレた」
結局、説明出来ずにその場に倒れてしまった――理央たちもきっと、俺の説明を待っている違いない。
しかし、もう一つの感情が芽生えてしまっている。
(……会いに、行きたくないなぁと言う気持ちが強いな、これは)
バレてしまったのは、しょうがない。
しかし、それでも――俺が”乃亜”ではないと言う事を知らされてしまった。
どのように話をすればいいのかわからない。
そんな事を考えていた矢先、ルクスの視線に気づき目を向けると、すごく嫌そうな顔でこちらに目をッ向けていた
「主はやはり、あの人間どもを気にかけるのですね?」
「まぁ……目の前で死なれなかっただけましだ」
「……」
「そう睨むな」
「睨んではいません」
「いや、睨んでいるだろうお前。本当乃亜大好きだな」
智明の言葉を聞いて、ルクスはふんっと視線を逸らすような行動に出た。
少しだけ、空気が緩んだ。
病院の白い部屋の中で、そんな小さなやり取りができること自体、ひどく奇妙だった。
ついさっきまで――前の世界で彼女が裂け目から現れていたとは思えないほどに。
だが、現実は消えていない。
同時に、まだ何も終わっていないのだ。
「……叔父さん」
そう呼ぶと、智明は少しだけ目を上げた。
「学校は?」
「ああ、一応今日から臨時休業、お休みだ」
「休み?」
「実習中の異常ってことで、かなり揉めてるらしい。詳しいことはまだこっちにも全部入ってない」
「……そうか」
「あと、もう一つだけ言っておかなければならない」
「え?」
そこで一度言葉を切る。
突然そのように言ってきたので首を傾げているとめんどくさそうな顔を再度見せながら彼は答えた。
「お前の……いいや、正式には乃亜の家族だな。その家族とも、少し話した」
「少しで済んだのか?」
「済んでねぇな」
その答えに、少しだけ息が漏れた。笑いに近いものだったかもしれない。
智明は真面目な顔のまま続ける。
「とりあえず今は、何も考えなくていい」
「それは、無理かな?」
「だろうな」
「だが休むよ……流石に体がうまく動けないからな」
「そうしてくれ……俺が何とかするから」
笑いながらそのように返されたが、最後の言葉が妙に真剣な声だった。
まるで全てを任すかのように――智明はそのように言ったように感じながら。
ふと、再度ルクスが静かにこちらを見ていた。
その目には責める色も、苛立ちも、安堵も、全部あった。
いつものことだが、分かりやすいのか分かりにくいのか微妙な顔だ。
「……ゆっくりと、休んでください主。他の者たちもそのように思っております」
「……悪いな、ありがとうルクス」
「いえ、今回はある意味俺たちのせいですからね」
彼はそのように言った後、静かに消えた。
きっと”彼ら”の所に戻ったのであろう。
智明もそんな二人のやり取りを見た後病室から出ていき、残された俺は再度横になり、目を閉じる。
(……叔父さんの言う通り、とりあえず寝ていよう……考えるのは、身体が動くようになってからだ)
そのように考えた後、俺はゆっくりと眠りにつくのだった。
しかし、数日後。
叔父である智明が笑顔を見せながら言ってきた。
「ノア!父さんの家に行くぞ!」
「……は?」
その言葉にどのように返したらいいのかわからなかった俺だった。
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