第70話 夢の中の黒猫
不思議だ――眠ったはずなのに、最初に感じたのは落ちていく感覚じゃなかった。
柔らかいものに沈むような、妙にぬるい静けさを感じる。
目を開けると、そこはいつもの夢の底より少しだけ輪郭の曖昧な場所だった。
暗いのに、足元は夜の水面みたいに揺れていて、そして空気には微かな甘さが混じっている。
この匂いには覚えがあった。
「……ミュール、お前か?」
呼ぶより先に、足元へ小さな黒い影がすり寄ってくる。
そこに居たのは黒猫――ふわふわした毛並みのわりに、目だけ妙に賢そうで何を考えているのか分からない顔をしている。
ミュールは俺の足へ身体を押しつけるとそのままくるりと一周して、当然みたいな動きで膝の上へ飛び乗ってきた。
「んふふ、ばれた」
猫の口で笑ったみたいな声がする。
「ノア、ねてるから、ちょっとだけおじゃま」
「ちょっと、の距離じゃないな」
「だめ?」
「そもそももう乗ってるだろう?」
そう返すと、ミュールは満足そうに目を細めた。
こういうところが、こいつは本当に遠慮がない。
だが、追い払う気にもなれなかった。
夢の中のミュールは、妙に体温がある。
猫姿のまま喉を鳴らしながら、俺の腕に頬を押しつけてくる。
その甘え方は露骨なのに、目の奥ではちゃんと別のことを見ているのが分かる。
「それで、何かあるんだろ?」
俺はミュールの背を撫でながら言った。
「うん、あるよ」
返事は早かった。
ミュールは俺の膝の上で丸くなりかけて、それから思い出したみたいに顔を上げる。
「そと、ちょっとへん」
「外?」
「うん。にんげんのほう。びょういんも、がっこうも、そのまわりも」
声は甘いのだが、言っている言葉は甘くないなと感じながら、ため息を吐く。
ミュールは話を続ける。
「へんって、どういう意味だ?」
「みんな、しずかにしてるのに、ぜんぜんしずかじゃない」
いつもの言い回しだ。
曖昧で、だが感覚としては分かる。
「かくしてる?」
「うん。かくしてる。こわがってる。しらべてる。あと、こっそりのぞいてるのもいるよ」
「学校側か?」
「うーん、それだけじゃないかも」
ミュールの尾が、俺の腕へ巻きつくみたいに揺れる。
「ダンジョンのへんだったとこ、まだちゃんとおわってない。においがのこってる」
「……そうか」
予想はしていた。
ヴィーシャが現れた時点で、あれを“ただの実習中の事故”として処理できるはずがない。
予測だが、学校側は隠すだろう。
だが、隠しきれるとも思えない。
裂け目に異常な魔物。そして、ヴィーシャが出てきた隠しエリア。
もう一つ、異世界側の強者がこちらへ現界した痕跡。
どこまで掴まれているかは分からない。
だが、何かが残っているのは間違いない。
ミュールは俺の膝の上でくるりと向きを変えると、今度は腹を見せるみたいに寝転がった。
さぁ撫でろ!撫でてくれ!と言わんばかりの態度だったので、黙って喉元を指先で掻く。
すると、目を細めながらぽつりと言った。
「ノア、さいきん、べつのいみでむりしすぎてない?」
その言葉を聞いて、少しだけ手が止まる。
「別の意味、か?」
「うん。たたかいだけじゃなくて」
ミュールの声は柔らかい。
「がまんとか、かんがえることとか、にんげんとか」
そのように言われて、少しだけ再度、息を吐く。
戦うことそのものは、慣れている。
無茶をするのも、今さらだ。
だが、最近の疲労はそれだけじゃない。
乃亜の身体のこと。
魂のこと。
学校側のこと。
理央たち三人のこと。
最終的には元の世界との裂け目。
考えることが増えすぎている。
しかも、そのどれもが一つ間違えば乃亜を削る。
「……そうかもしれないな」
正直にそう言うと、ミュールが俺を見上げた。
「やっぱり」
「得意げだな?」
「だって、わかるもん。ノアのにおい、さいきんずっとちがう」
「どんなふうに」
「ねむいのに、ねむれてない、そんなにおい」
それは、自分でも少し分かっていた。
眠っていても休めていない。
夢の底にいる間すら、頭のどこかで現実の方を切り離せていない。
「ミュール」
「なあに?」
「お前、外を見てきたのか」
「すこしだけ」
「どこまで」
「それは、ひみつ」
「言え」
「やだ」
フフっと笑いながら答える。
だが、耳が少しだけ揺れている。
こいつなりに、もう少し言うか迷っている時の癖だ。
「……にんげんのゆめ、いくつか……がっこうのひととか、へんなふうにおびえてるひととか」
「余計なことはするなと言ったはずだ」
「こわさないよ、”まだ”」
「まだ?」
「ノアがだめっていうから、ゆめのはじっこをみただけ」
言い方が嫌すぎる。
だが、“まだ”だけで止めているあたり、こいつなりに自制はしているのだろう。
「ヴィーシャのことも、少し見えた……あれ、やだね」
「それは、同感だ」
「ノアのこと、すごくすきそうだった」
「出来れば……好き、で片づけたくない」
「でも、そんなにちがわないでしょ」
「最悪な意味でな……」
ヴィーシャは嬉しそうだった。
再会を喜び――そのくせ、本気で殺しにきていた。
あいつの中では、その二つは何も矛盾しない。
それが一番厄介だ。
「まさか、あいつが現れるとは思ってなかった」
口にした瞬間、その言葉の重さが夢の中でもはっきり分かった。
ヴィーシャは元の世界では宿敵だ。
裂け目の向こうに存在している可能性は考えたことがあっても、こんな早さで、こんな形で、こっちへ干渉してくるとは思っていなかった。
そしてもう一つ――彼女の弟がもっと厄介だ。
(……別の意味でも会いたくない)
そんな事を考えると、ミュールが俺の手へ、顔を擦り付けてくる。
「ねえ、ノア……ダンジョンと、まえのせかい、つながってるのかな?」
その問いに、すぐには答えなかった。
考えないようにしていたわけじゃない。
むしろずっと頭の隅にはあった。
――この世界のダンジョン、偶然で、繋がれて、そして出来過ぎているかのように。
「関係はある、と思う……少なくとも、ヴィーシャが出てきたことで、ありすぎだなぁと思ってしまった」
「やっぱり」
「あの裂け目は、召喚と少しだけ似ていた。」
ミュールの耳がぴくりと動く。
対し、俺は話を続ける。
「ただし、俺が開く契約の道とは違う。もっと歪で、無理やりで、偶発的だ」
「でも、つながる」
「ああ」
「やだねえ」
ミュールは俺の膝の上で小さく丸くなった。
「ノアのいたせかいが、こっちまでくるの」
「俺も歓迎はしないな」
「ノア、またもってかれちゃうかも」
「流石に持っていかれないだろう」
「ほんと?」
「持っていかれたら、お前らがうるさいだろ?」
「うん、うるさいよ」
少しだけ口元が緩み、そのように答えた。
ミュールはそれを見て満足そうに目を細める。
こいつはこういう小さな変化を拾うのが上手い。
「でも、ノア」
「何だ」
「ほんとに、むりしすぎたら、ねむりごとさらうよ」
「脅しか」
「しんぱい」
そう言って、ミュールは俺の指へ自分の小さな前足を重ねた。
「ノアのねむり、ぼくのものだもん」
相変わらず、言ってることは大概だ。
だが、その声音は思ったより真面目だった。
俺はミュールの頭をもう一度撫でる。
柔らかい毛並みが指先に沈む。
「分かってる」
「ほんとに?」
「少しな」
「すこしじゃだめ」
「注文が多いな……流石猫」
「ノアにはいっぱいあるよ」
甘えるみたいに言ってから、ミュールは小さく喉を鳴らした。
夢の中の静けさが、少しだけ柔らかくなる。
だが外ではまだ、いろいろなものが動いている。
学校も、病院も、ダンジョンの異常も、たぶん終わっていない。
そして、ヴィーシャが現れた以上、異世界とこの世界の繋がりも、もう見ないフリはできない。
乃亜を戻す道は、思っていたよりずっと危険だ。
だが、だからといって止まる気もなかった。
「ミュール」
「ん」
「もう少し、外を見ておけ」
「いいの?」
「ただし余計なことはするなよ?」
「ゆめをちょっとかじるくらいなら?」
「駄目だ」
「けち!」
文句を言いながらも、ミュールは楽しそうだった。
結局、こいつはこうして役目をもらうのが好きなのだろう。
黒猫の身体が、俺の膝の上でゆっくりと溶けるみたいに薄れていく。
夢の終わりが近いらしい。
「ノア」
最後に、ミュールが小さく呼ぶ。
「つぎは、ちゃんとねてね、」
その言葉だけを残して、黒い影は夜の水面へ溶けた。
残された静けさの中で、俺は少しだけ目を閉じる。
――たしかに、無理はしている、戦い以外の意味でも。
だが今は、まだ止まれない。
ダンジョンと異世界の関係。
ヴィーシャが来た理由。
そして、乃亜を戻すための道。
考えるべきことは山ほどあった。
それでも、夢の中で撫でた黒猫の柔らかさだけは、妙に長く手に残った感じがした。
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