第66話 帰ってきていない兄【久城瑠亜視点】
実習が終わる頃には、少しは気分が晴れると思っていた。
兄さんの班がどうなるのか、正直少し楽しみにしていたからだ。
あんな風に変わった兄さんが、集団の中でちゃんとやれるのかな、なんて思っちゃった。
また前みたいに浮くのか。
それとも、少しは取り繕って終わるのか。
どちらにしても、見ておきたかった。
でも、直接近づく気はなかった。
遠くから、いつものように眺めるだけでいい。
兄さんがどんな顔で戻ってくるのか、それを見れば十分だと思っていた。
でも、終盤になって空気がおかしくなった。
何か、ざわついている。
嫌な空気も混じっているように感じたのは気のせいかな?
最初は、誰かが少し怪我でもしたのかと思った。
ダンジョン実習なんて、多少のトラブルは珍しくない。
けれど、教師たちの顔が違った。
いつもの顔じゃない。
明らかに、想定外のことが起きた顔をしている。
周りの生徒たちも落ち着かなくなっていた。
小声で何か話している。
誰かが誰かに確認して、でもはっきりしたことは分かっていない、そういうざわめき方だった。
「え、何?」
「四班が戻ってないって……」
「嘘でしょ」
「いや、本当本当。まだ確認できてないらしい」
その言葉が耳に入った瞬間、足が止まった。
四班って確か、兄さんの班だ。
「……え」
喉がひどく乾く。
「兄さん……帰ってきてないの?」
気づけば、そんな声が口から漏れていた。
自分の声なのに、少し変だった。
擦れていて、妙に小さい。
何それ。
どうして?
兄さんが、帰ってきていない?
心臓が変な打ち方をする。
落ち着かない。胸の奥がざわざわする。嫌な感じだ。気持ち悪い。
もしかして、兄さんに何かあった?
そんな考えが浮かんだ瞬間、ぞっとした。
だって、それは嫌だ。
嫌に決まってる。
兄さんが壊れるのは、今までの兄さんなら分かる。
傷つくのも、削られるのも、黙るのも、全部そういう兄さんだった。
でも、いなくなるのは違う。
見えなくなるのは違う。
戻ってこないのは、もっと違う。
それじゃ、困るんだ。
僕が知らないまま、僕の手の届かないところで、本当にいなくなってしまうみたいで、それはひどく困る。
困る、だけじゃない――胸の奥が冷たくなる。
なのに、それだけでもなかった。
変な感情が、もう一つある。
兄さんに何かあったのかもしれない。
その不安の奥で、別のざらついたものが動く。
――それでも、兄さんなら戻ってくるんじゃないか?
――今の変な兄さんでも、簡単には消えないんじゃないか?
そんな風に思ってしまう自分がいた。
気持ち悪い――僕は何を考えてるんだろう。
周囲の教師たちは慌ただしく動いている。
生徒たちは待機させられ、勝手に動くなと何度も言われていた。
なのに、その場に立っているだけで落ち着かない。
兄さん。
どこにいるの?
何してるの?
どうして戻ってこないの?
その時、遠くの方で誰かが大きな声を上げた。
「いたぞ!」
空気が一気に揺れる。
視線がそっちへ向く。
僕も反射みたいに顔を上げた。
人の波の向こうで、教師たちが走っていく先。
その中心に、四人の姿が見えた。
最初は誰が誰だか分からなかった。
みんな汚れている。
埃まみれで、服が裂けていて、顔色も悪い。
でも、その中でも一番目を引いたのは、やっぱり兄さんだった。
すごく、ボロボロだった。
ひどく傷んだ制服。
足取りはまっすぐじゃない。
顔色は紙みたいに白くて、なのに目だけは妙に冷えていた。
あれが兄さん?
本当に?
一瞬、本気で分からなかった。
僕の知っている兄さんとは全然違う。
今の兄さんはまるで壊れかけている人形のように、まるでヒビが入っているかのように。
それでも、兄さんは立っている。
ボロボロなのに。
壊れそうなのに。
何それ、どうしてそんな顔をしてるの?
教師たちが駆け寄り、周囲が騒がしくなる。
何があったのか、誰も分かっていないのに、とにかく無事だったことだけでざわめきが大きくなる。
その中で、兄さんが何かを話していた。
口数は少なく、必要最低限だけ答えているように見えた。
それもまた、僕の知らない兄さんだった。
そして次の瞬間――兄さんの身体が、ふらついた。
「あ……」
思わず、声が漏れた。
兄さんの口元から、赤いものがこぼれる――血だった。
見えた瞬間、頭の中が真っ白になる。
――あの兄さんが、血を吐いた。
それだけで、何もかもが止まったみたいだった。
教師が叫ぶ。
誰かが駆け寄る。
班の三人も酷く焦った顔をしていた。
――でも、僕は動けなかった。
兄さんの膝が崩れる。
そのまま倒れていく。
まるで糸が切れたみたいに、あっさりと。
「……兄、さん」
やっと出た声は、情けないくらい弱かった。
あれは本当に兄さんなのか?
ボロボロで、血を吐いて、倒れて。
なのに、その直前まで誰よりも前に立っていたあの姿は、本当に僕の知っている兄なのか。
分からない。
分からないのに、目が逸らせなかった。
胸の奥がぐちゃぐちゃだった。
心配なのか、怖いのか、腹が立っているのか、それすら分からない。
ただ一つだけ、はっきりしていることがあった。
兄さんは、もう以前の兄さんじゃない。
その事実だけがずっと恐ろしかった。
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