第65話 帰還
ヴィーシャがまるで結晶のように消えた後も、終わった気はしなかった。
裂け目が閉じたはずの空間は、まだ不安定に揺れている。
広間の壁面を走っていた黒い亀裂は完全には消えず、遅れて崩れるように光を漏らしていた。
床もところどころ軋み、空間そのものが無理やり形を保っているような嫌な感触が残っている。
このままでは、自分たちも危ない。
長居できない。
「っ……動こう」
声を出した瞬間、喉の奥が焼けるように痛んだ。
バハムートを呼んだ反動が、今になって一気に回ってきている。
魔力回路は軋みっぱなしで、身体の芯が熱いのに手足だけが妙に冷たい。
身体中が悲鳴を上げている。
一歩一歩動くたびに、ヒビが入っているかのように、痛みが広がる。
それでも、ここで立ち止まるわけにはいかなかった。
すぐさま理央がすぐに反応する。
「おい、乃亜……歩けるのか?」
「こ、このままじゃ、俺たちも死ぬ」
「そうだが……」
「今は出口に行くのが先だ……それから俺の事は話す」
とにかく、今はこの場から離れなければならない。
理央に対しそのように言いきると、彼はため息を吐き、それ以上何も言わなかった。
前みたいに噛みついてはこなかったが、ただ、俺の顔色を見て、何か言いたそうにしている。
透花はまだ青ざめていた。
それでも自分の足で立っている。
花宮も震える指で端末を握り直し、ぎりぎりのところで意識を保っていた。
「……マップは?」
俺が聞くと、花宮がはっとしたように端末を見る。
「……完全には死んでない。すごい雑だけど、反応戻ってきてるよ」
「出口方向は?」
「多分、こっちだよ」
「理央、最後尾」
「は?」
「透花と花宮を見てくれ。俺が前を切る」
「お前その状態で――」
「悪いが頼む」
「……っ、分かったよ」
理央は不満そうな顔をしたが、従った。
その素直さが少し意外だ。
だが、ここまで来ればもう空気で反発している場合じゃないと分かっているのだろう。
俺は先頭に立つ。
再度、一歩ごとに足元が鈍く痛む。
視界の端が時々ぶれ、息を整えようとしても、肺の奥に熱い棘が引っかかるみたいでうまくいかない。
それでも前へ出る。
いや、前に出なければならない。
こういう時、誰かの後ろには立てない。
立てる性分なら、そもそも前の世界では生き残れていない。
崩壊しかけた隠しエリアの通路は、来た時と形を変えていた。
壁面はざらつき、ところどころが裂け目の残滓みたいに揺れている。
浅層の整えられたダンジョンとは、もう完全に別物だった。
「の、乃亜くん」
透花の声が、後ろから小さく飛ぶ。
いつの間にか”久城くん”ではなく、”乃亜くん”と名前呼びになっている事に気づいた。
「何だ」
「その……大丈夫?」
「大丈夫に見えるなら眼科へ行った方が良いぞ、透花」
「はは、そうだね……そうなんだけど……」
唇を噛みしめるようにしながら少し黙った後、透花は突然乃亜の手を握りしめる。
傷だらけの手を、小さな手で包むように。
「……透花?」
「ごめんね、何も出来なくて」
「それは――」
「……私、もう乃亜くんから目をそらさない。例え、あなたが私の知っている乃亜くんじゃなくても」
「……」
――俺は、お前たちの知っている”久城乃亜”ではない。
あの時の戦いで三人は既に気づいている。
俺は、彼らを騙しているのだ。
だけど、何故か不思議だった。
俺は、いつの間にか透花の目を逸らす事が出来ず、小さな手をいつのまにか握りしめてしまっていたのだ。
『――ノア、私は絶対にあなたを見捨てない』
嘗て、信じていた”あの人”を思い出させるぐらい。
「……シンシア」
「え?」
静かに呟いた名前に透花は一瞬驚いた顔をしていたが、俺はそのまま唇を噛みしめ、嘗ての”気持ち”を思い出していた。
舌打ちをして、すぐにいつもの顔に戻る。
俺は透花から視線を逸らし、離れた後、花宮に目を向ける。
花宮は花宮で、怖がりながらも周囲を見ていた。
さっきから端末を離していない。
微かに震えているのに、彼女は今までも出来事をなるべく早く、記録し続けようとしている。
「花宮」
「な、なに」
「足元だけ見てろ。全部拾おうとしなくて大丈夫だ」
「……無理」
「無理じゃない」
「いや、だって、こんなの見たら普通に覚えちゃうでしょ……」
掠れた声で、そのように言ってきた。
それでも、あいつは逃げることも泣き崩れることもしない。
理央は後ろで二人を庇いながら、何も言わず歩いていた。
多分、今のこいつは、言葉より先に考えることが多すぎるのだろう。
やがて通路の先に、見覚えのある淡い光が見えてくる。
管理された浅層側の灯りだ。
その瞬間、後ろで花宮が短く息を呑み、透花が小さく「……あ」と漏らした。
理央もようやく肩の力を抜く。
出口だと言う証拠だ。
そこから先は、むしろ騒がしかった。
「いたぞ!」
「四班だ!」
「こっちだ、急げ!」
教師たちの声が飛ぶ。
実習用の浅層通路に戻った途端、さっきまでの異常な静けさが嘘みたいに人の気配と足音が押し寄せてきた。
そのまま何人もの教師が走ってくる。
顔色は悪く、焦りと安堵と混乱が全部混ざった顔だ。
「無事か!?」
「怪我人は!」
「四人ともいるな!?」
問いが一気に重なる。
理央が一歩前へ出て答えようとしたが、その前に俺が口を開いた。
「……異常な魔物に遭遇した」
「何?」
「その後、隠しエリアのような場所に流されてしまった」
「隠しエリア……だと?」
「ああ、詳細は分からない。空間が不安定で、気持ち悪かった」
とりあえず、教師たちには必要最低限だけ話す。
本当のことは言わない。言ってはいけない――裂け目も、異世界も、ヴィーシャの事も。
すると、教師の一人が明らかに動揺した顔をした。
「そんな報告は……いや、まず保護が先だ。全員、地上へ戻す!」
教師のその判断は正しい。
だが、彼らたちの顔を見れば分かる。
何が起きたのか、誰一人ちゃんと把握できていない。
実習ダンジョンで想定外の異常が起きた。
生徒が四人、行方不明になり、戻ってきた。
しかも全員、顔色が違う。
まずは生徒の保護。
次に、学校側への報告。
そして、おそらく口止めみたいなものがあるかもしれない。
だが、そんなの俺には関係なかった。
地上へ出た時の空気は、やけに薄く感じた。
ダンジョン入口周辺は封鎖しかけの空気になっていて、教師だけでなく学校職員らしき大人たちまで慌ただしく動いている。
生徒たちは別区画へ集められ、不安げにざわついていた。
四班が戻ったと分かった瞬間、その視線が一気に集まる。
だが、その騒めきはすぐに教師たちに押し込められた。
「見たこと、聞いたことを勝手に喋るな!」
「学校側で確認するまで待機だ」
「SNS等への書き込みも一切禁止だぞ!」
口止めが早い――まあ、そうなるか。
事情聴取のためか、教師の一人がこちらへ近づく。
「久城、あとで詳しく――」
「ぐっ……は」
「……乃亜っ!」
そこまで聞いて、視界が一度大きく揺れた。
同時に理央の声が響く。
――むりさせちゃったね、ごめん。こわれちゃだめだよノア。
姉さんの声が微かに聞こえたような気がした。
まずい、と思うより先に、喉の奥が熱くせり上がる。
「っ、」
堪えきれない。
血が口の端からこぼれた。
赤い――妙に鮮やかで、現実感がない。
「乃亜くん!」
透花の声が聞こえる。
それから理央、花宮の声。
「おい!」
「ちょ、ちょっと待って、嘘でしょ」
負荷が来るのは最初から分かっていた。
一分が限界――この身体では保たないと。
それでもここまで持たせたのだから、むしろ上出来なくらいだ。
膝が崩れ、地面が近づく。
誰かが支えようとした気配がしたが、その前に身体の方が先に落ちる。
『主っ!』
微かにルクスの声が聞こえた気がした。
それを最後に、意識が落ちた。




