第63話 時間切れ
バハムートが現れてからの一分は、異様な密度で流れた。
広間の空気がまるごと塗り替わっている。
同時に裂け目から流れ込んでいた前の世界の気配すら、今はバハムートの存在感に押し返されていた。
小さな少女の姿をした最上位竜は、見た目だけなら幼い。
だが、その一挙手一投足に宿る圧は、ヴィーシャですら笑みを深めるほどの本物だった。
「いいねえ……!」
ヴィーシャが歓喜に喉を震わせる。
「そうだ、それだよ!やっぱりお前、そこまで出してこそだ!」
褐色の身体が一気に踏み込む。
金色の紋様を纏った王虎の戦姫が、裂けるみたいな速度で距離を詰める。
だが今度は、それを迎え撃つ側にも絶対的な質量があった。
すると、バハムートが軽く片手を上げる。
「――だめよ」
それだけで、空間が軋んだ。
ヴィーシャの爪が、目に見えない圧へぶつかって止まる。
真正面から押し通ろうとしていた勢いが、一瞬だけ鈍る。
「ガルド、右から押せ!ルクス、下を取れ!」
声を飛ばすと、二体が即座に動いた。
漆黒の盾が横合いから押し込み、白銀の爪が床すれすれを滑るようにして脚を狙う。
ヴィーシャは笑ったまま、ほとんど勘だけでそれを捌く。
だが、さっきまでとは違う。
受け流しの角度がわずかに深い。
踏み込みの最後に、ほんの少しだけ遅れがある。
違和感は、戦い始めてすぐにあった。
ヴィーシャは本来なら、もっと暴れられる。
異世界で戦っていた頃のあいつなら、ここまで本気を上げた時点で、広間の半分くらいはもう崩れているはずだ。
なのに今は――圧倒的に強い。
それでもどこか、限界を抱えたまま無理やりこちらへ出てきている感覚があった。
『――存在維持限界が近い』
リゼットの声が内側で響く。
『接続崩壊まで時間わずか』
『長期現界不可』
――やはりか。
裂け目を見る。
最初に現れた時より、明らかに輪郭が揺らいでいるのがわかった。
壁面に走るノイズじみた亀裂も広がっていて、ヴィーシャの背後の空間そのものが不安定に脈打っている。
徐々に、接続が崩れ始めている。
この世界へ無理やり出てきた経路が、もう保たないのだろう。
「……もう時間かっ」
小さく吐き出した声は、自分でも驚くほど冷静だった。
ヴィーシャも気づいているはずだ。
それでもあいつは、悔しがるどころかますます楽しそうに笑っていた。
「は、そうかよ!」
バハムートの放った光条を、尾を犠牲にして逸らしながら笑う。
「時間切れか!」
血が散り――だが、その顔に悔しさはほとんどない。
「――でも見つけたぞ、ノア」
金の瞳が、まっすぐ俺を射抜く。
「なら今日はこれで十分だ」
その言葉に、胸の奥がひどく嫌な形で沈む。
今日“は”。
つまり、終わりじゃない。
バハムートが小さくこちらを振り返った。
その顔に、普段通りのやわらかな笑みが浮かぶ。
「ノア」
声は優しい。
だが、その輪郭もわずかに揺れ始めていた。
一分――本当に、限界まで使わせた。
乃亜の身体の中が焼けるように痛む。
魔力回路は軋み、指先には細かい痺れが走っている。
今この瞬間にも、強引に契約を維持しているだけだ。
俺は息を吐いて、小さく言った。
「……いつも悪いな、姉さん」
バハムートはぱちりと目を瞬かせて、それからふわりと笑った。
「だいじょうぶ」
光が少しずつ解けていく。
「わたし……わたしたちは、いつもノアのみかただからね」
その言葉だけを残して、最上位竜の姿は淡い粒子となって消えていく。
光が消えると同時に、身体へ一気に負荷が返ってきた。
「っ……」
膝が揺れる。
倒れはしないが、長くは保たないだろう。
ルクスが低く唸る。
「主っ!」
「っ……まだだ」
まだ、終わりではない。
ここで気を抜けば終わる。
ヴィーシャの輪郭も、今はさっきより不安定だった。
肩口から先がわずかにノイズ混じりに揺れ、金の尾の先端は半透明になりかけている。
裂け目との接続が崩れ始め、存在そのものがこの場へ留まりきれなくなっているのだ。
それでも、ヴィーシャは美しいくらい楽しそうだった。
「はぁ……最高だったぜ、ノア」
唇の端を吊り上げる。
「やっぱお前、そうやって守るもん背負ってる時が一番いい」
「……全然、嬉しくない感想だな?」
「ハハッ!だろうな!」
ヴィーシャは変わらず笑っている。
悔しがるでもなく、焦るでもなく、楽しい感情をむき出しにしながら。
理央たちの方からは、もう声も出ていなかった。
理解が追いつかないまま、それでもこの戦いが今すぐ終わるわけではないことだけは感じ取っている。
『接続崩壊、加速』
リゼットが告げる。
『残存時間、わずか』
なら、退くのが合理的だ。
今のヴィーシャも、それを分かっているはず――そう思った瞬間、あいつの気配がもう一度だけ鋭く凝縮した。
「でもよ……帰る前に、一発くらいはちゃんと入れとかねえとな」
そのように言ってきたヴィーシャに、俺は構える。
思考より早く、足を踏み出す。
ルクスも動く。ガルドも盾を持ち上げる。
だが、ヴィーシャはそれより早かった。
消えかけた輪郭のまま、最後の一撃だけを置きにくる。
爪でも牙でもない。全身のばねを乗せた、ただ一点を殺すためだけの突撃。
「ノア!」
歓喜に満ちた声と共に、王虎の戦姫が飛び込んでくる。
俺は歯を食いしばって、その一撃を正面から受けた。
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