第45話 叔父と実習準備
実習の詳しい内容を話したのは、夕食の後だった。
食器を片づけ終えた智明が、リビングのソファへ腰を下ろしたところで、俺は学校から持ち帰った資料をテーブルへ置いた。
部屋の中には、食後特有のゆるい空気がまだ少し残っている。
シンクからは水の音がかすかに聞こえ、窓の外はもうすっかり暗い。
こういう時間の流れ方には、まだ少し慣れない。
「何だそれ」
「さっき帰りに言ってた学校の実習資料」
「実習……ああ、言ってたやつだな」
智明は紙を手に取って、ざっと目を通す。
最初は軽い顔だったが、内容を追ううちに眉が少しずつ寄っていった。驚きと呆れと、少しの警戒が混じったような顔だ。
「……ダンジョン実習?」
「そういう授業らしい」
「学校ってそこまでやるのか……めんどくさいな」
率直な反応と、あと嫌そうな顔をしながらその資料を眺めていた。
久城家なら、こんな時は多分、違うだろう。
“当然だろう”
“お前もそのくらいやれ”
このどちらかだ。
驚く前に評価が来る。相手の都合や危険を測るより先に、結果をどう出すかの話になる。
だが智明は、まず本気で驚いていた。
「第三管理区域内の初級ダンジョン……班行動。教師引率つきだ」
「それでも中学生だろ?」
「まぁ、そうだな」
「……いや、いやいや、普通はないだろ、攻めすぎじゃないか?」
呆れたように言ってから、智明は資料をもう一度見下ろした。
軽く流してはおらず、きちんと読んで、危険度を測っている顔だった。
その慎重さが、妙に新鮮に見える。
その時、壁際にもたれていたルクスが低く言う。
「――不要だ」
白銀の狼王と呼ばれているルクスは最初からこの話を気に入っていなかった。
腕を組み、金の瞳を細めて、露骨に不満げな顔をしている。
人型を取っていても、本質的には牙を隠していない。
「人間の集団行動など、主には不要です、絶対に不要です」
「お前の意見は聞いてないが?」
「聞くべきです、絶対に聞いてください」
「お前が出席するわけじゃないだろ……おい、目が怖いぞ」
智明が即座に返し、同時に睨みを利かせている感じに意見をする。
その言い方に、ルクスの眉がほんの少しだけ動いた。
「必要なら俺が代わる」
「代われるなら代わってこい」
「行けと言うのなら行きますが……」
「行くのかよ……」
それを聞いて、智明が頭を押さえた。
言葉の応酬は軽いのに、内容は軽くない――この男は本気でそれを言っている。
そのやり取りを、窓際に座っていたシオンがフフっと鼻で笑う。
「だから言っただろう。人間に混ざる必要なんてないって」
毒花の妖姫は、笑いながら智明と俺を見ていた。
長い脚を組み、いかにも退屈そうにこちらに視線を向けており、その目の奥にはいつもの人間嫌いが濃く滲んでいる。
「主がわざわざ未熟な人間どもに歩幅を合わせる理由が分からない」
「お前は黙ってろ」
「ひどいな。僕は主を案じているだけだよ」
「口先だけならいくらでも言える」
「君よりは素直だと思うけど?」
空気が少しだけ張る。
ルクスの足元に薄い冷気が走り、シオンの周囲には甘ったるい花の匂いが滲んだ。
ほんの小さな変化だが、分かる人間ならすぐ逃げる類のやつだ。
見えない刃が、部屋の中で静かに突きつけ合っている。
「――やめろ、二人共」
俺が言うと、二人とも止まる。
止まるが、視線だけはまったく止まらない。
相変わらず、互いを不快そうに見ている。
「主」
ルクスがすぐにこっちを向く。
「このような集団実習、断るべきですよ、間違いなく」
「断れたら苦労しない」
「成績ごとき――」
「その“ごとき”で乃亜の立場がさらに悪くなる」
そう言うと、ルクスは口を閉ざした。
完全に納得したわけではない。
ただ、俺がその線を引いたから黙っただけだ。
シオンは肩をすくめる。
「じゃあ何?真面目に学校行事に参加するの?」
「そうなるな」
「似合わないねえー」
「お前に言われたくないぞ?」
「僕だってそう思うよ」
いちいち癇に障る言い方だ。
智明がため息をついて資料をテーブルへ戻した。
紙が木の天板に触れる乾いた音が、少しだけ場を現実へ引き戻す。
「……で、実際どのくらい危ないんだ」
「学校側の想定なら、大したことはない」
「お前の基準で言うな」
「……初級ダンジョンだ。教師もつく」
「それでも顔が面倒くさそうなんだよな」
「……」
「おい、そっぽ向くな」
――見抜かれていた。
実際、実習そのものより班行動の方が問題だった。
未熟な人間と組むことも、足並みを揃えることも、こちらからすれば制約でしかない。
動きが鈍る。判断が増える。守る範囲も無駄に広がる。
「……ソロの方が動きやすい」
「だろうな」
「……だが学校ではそうもいかない」
「欠席は?」
「避けたい、成績に関わる」
成績と周囲の目。
叔父宅で生活している今、これ以上“問題児”として目立つのも得策ではない。
乃亜の社会的な立場を、これ以上悪くするわけにはいかなかった。
智明はその辺りを、俺が言葉にしきる前に理解したらしい。
腕を組み、少しだけ考えてから言う。
「はぁ……無茶するなよ?」
「分かってる」
「本当に分かってる顔じゃないな」
「いつもそう言われる」
「いつも言われるなら、たぶんいつも危なっかしいんだろ」
それは否定しづらかった。
久城家では、無茶をするなという言葉はほとんど結果の話だった。
失敗するな。面倒を起こすな。恥をかかせるな。
そういう意味の“無茶するな”だ。
しかし、智明のそれは少し違った。
結果より先に、こっちの身を気にしてくれている――そのことが妙にまだ落ち着かない。
慣れない種類の言葉だった。
「まぁ……休めとは言わない」
智明が続ける。
声の調子は軽いままだが、内容は軽くない。
「学校の都合もあるんだろうし、お前なりに考えて動いてるのも分かる」
「……」
「でも、やるなら考えてやるんだぞ、いいな?」
その言い方が、少しだけ胸に引っかかった。
命令でもない。
諦めでもない。
ただ、やるならちゃんと考えろと言うだけだ。
智明は本当に心配してくれている――久城家の人間の人達ではなくて。
すると、ルクスが不満げに低く言う。
「主はすでに考えている」
「だろうなぁ……」
智明はあっさり返した。
「でも考えてるやつほど、たまに一人で勝手に詰めるだろ」
「……」
「お前らもそう思ってんじゃねえの」
その言葉に、ルクスがわずかに黙る。
シオンも一瞬だけ笑みを薄くした。
図星だったのだろう。
あいつらは俺を過剰に守ろうとする。
だが同時に、俺が自分一人で無茶へ踏み込む人間だということもよく知っている。
だからこそ、あれだけ口うるさい。
「文句あるなら代わりに出席しろ」
智明が軽く言う。
「フフ、できるならね」
「…………本当にやりそうなのが怖いんだよ、お前らは」
シオンの言葉を聞いて、智明は俺の方を見た。
「班の連中は信用できるのか」
「……できない」
「即答だな」
「事実なんだ」
「でも組むんだろ」
「組まされるだけだ」
そこでシオンがくすりと笑う。
「ほら。やっぱり人間って面倒だ」
「お前は黙ってろ」
「君、さっきから僕に当たりが強すぎない?」
「普段の行いだぞ」
「理不尽だねえ」
「当然だ」
また空気がぴりつく。
ルクスとシオンは本当に相性が悪い。
どちらも主のためと言いながら、相手のやり方が気に入らないのだ。
守るという一点では同じでも、そこへ向かう形があまりにも違いすぎる。
だが今は、その小競り合いが妙に人間臭く見えた。
皮肉なものだと思う――人間を嫌い、人間を信用しない連中の方が、時々よほど率直に感情をぶつける。
智明がソファにもたれ直し、最後に言う。
「危なかったら逃げろ、ないぞ、ノア」
その声は、さっきまでより少しだけ低かった。
軽口ではなく、大人が年下へ言う本当の忠告の響きがあった。
「危なくなる前に考えて、行動しろ……気を付けるんだぞ?」
智明の言葉に、俺は静かに頷いた。
とても、優しく、強い言葉だ。
俺にとって、そして乃亜にとって、これまで向けられてきたどんな言葉とも少し違っていた。
俺はしばらく黙ってから、小さく答える。
「……分かった」
それを聞いて、智明はそれ以上何も言わなかった。
ルクスはまだ不満げで、シオンは相変わらず気に入らなさそうだったが、それでも場はそこでいったん落ち着いた。
リビングに、夜の静けさが少しずつ戻ってくる。
資料はテーブルの上に開かれたまま、次の面倒を予告するようにそこにある。
実習は面倒――班行動も、人間も、信用する気はない。
それでも、行くしかない。
なら、せめて考えて動く。
俺は拳を握りしめ、息を静かに吐いた。
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