第46話 実習前日
実習前日に、部屋でのんびりとしながら机の上には学校から配布された実習資料を見ていた。
その横に、リゼットが整理した実習ダンジョンの地図と既知情報が並んでいる。
「第三管理区域、初級指定ダンジョン。教師複数名が引率。通常であれば危険度は低です」
リゼットはいつもの無機質な声で報告する。
薄い青の瞳に魔法陣じみた光を浮かべながら、空中へ簡易投影した地図を指し示した。
「――ただし」
「ただし?」
「過去三か月の出現傾向に、わずかな乱れが見られているようです」
「乱れ?」
リゼットはそのまま地図の一角が拡大される。
通常なら浅層に留まるはずの魔物が、一時的に深度をずらしていた記録。
出現頻度の微妙な偏り。
どれも単体で見れば誤差だ。だが、まとめると気持ちが悪い。
「断定はできません。ですが、きれいすぎる安定ではありません」
「学校側は把握してるのか?」
「公表情報にはありません」
つまり、ただの揺らぎか、見落としか、そのどちらかだ。
「はぁ……だから言ったでしょう」
窓際に寄りかかっていたシオンが、面白くなさそうに口を開く。
シオンは、相変わらず人間に対する不信を隠そうとしない。
「人間に混ざる必要なんてないんだよ。しかも未熟で鈍い連中に囲まれて、決められた道を歩かされるなんて最悪じゃないか」
「…・・お前はいつも最悪しか言わないな」
「主の周囲に人間が多い時は、だいたい本当に最悪なんだよ」
言い返しかけたところで、別の低い声が重なる。
「それは同感だ」
ルクスだ。
壁際に立ったまま、腕を組んでこちらを見ていた。淡い金の瞳はいつも以上に冷たい。
「人間との集団行動など、不要です。主の守りに集中できない」
「……それは前にも聞いた」
「今も変わりません……しかも今回は班行動だ。主が未熟な人間どもの速度に合わせる必要がある」
「合わせるつもりはないぞ、必要な範囲で動くだけだ」
「それでも邪魔です」
相変わらずだなと思いながら、思わずため息を吐いてしまった。
まぁ、気持ちは分からないでもない。
俺だって実習そのものを歓迎しているわけではない。
ソロの方が楽だし、信頼していない相手と足並みを揃えること自体が面倒だ。
そもそもまだ俺は、乃亜の周りに居る人間たちを信用していないし、班になった奴らの事も信用していない。
そんな事を考えていると、ベッドの縁に腰掛けたセレネが、静かな声で言った。
「私は別の意味で気になるわ」
白銀の髪を指先で払う仕草は穏やかだが、表情はわずかに真剣だった。
「乃亜の魂よ」
「……」
「人と長く関わる予定がある日は、あの子の揺れ方も少し変わるの」
胸の奥が、わずかに引く。
乃亜は今、深いところで眠るように沈んでいる。
完全に消えていないからこそ、時々こうして反応が返ってくる。
「……悪い方か?」
「一概には言えないわ」
セレネは首を横に振る。
「怖がっているのも本当。けれど、逃げようとしているだけでもない」
「実習が“人と関わる場”だからなのか?」
「ええ。あの子にとって学校も、家も、人間関係も、あまりいい記憶じゃないもの……何度も見てしまったけれど、本当に酷いわ」
それはそうだろう。
この身体の持ち主は、長く削られてきた。
家で、学校で、周囲の空気で。
だから人と関わること自体が、魂にとって負荷になっていてもおかしくない。
シオンが吐き捨てるように言う。
「ほら見ろ。余計に行く理由がない」
「だからといって欠席はできないぞ、そうしたら乃亜が大変になる」
「主は真面目だねえ」
「真面目じゃない。必要だから行くんだ」
そう返すと、シオンは肩をすくめた。
「必要、ね」
「乃亜の立場をこれ以上悪くしないためだからな」
「人間の制度なんて」
「その人間の制度の中で今は生きてるんだ」
言い切ると、部屋が少しだけ静かになった。
それは、事実だ。
ここは異世界じゃない。
こちらにはこちらの仕組みがあって、今の俺はその中で久城乃亜として立っている。
無視して暴れれば、傷むのは俺だけじゃなく乃亜の立場だ。
ルクスがわずかに眉を寄せる。
「主は、あの班の人間どもを信用していないんですよね?」
「していない」
「ならば」
「だが見捨てるつもりもない……特に、幼馴染二人は乃亜にとってある意味大切な存在……なのかどうかわからないが、多分そうだと思う」
自分で口にして、妙にしっくりきてしまった――そういうことだ。
理央も、透花も、花宮も、信用はしていない。
今まで見てきた人間の中で、簡単に信用に値する存在なんていない。
しかも、あいつらは乃亜が苦しんでいた時間を完全に無関係で通ったわけじゃない。
それでも、必要なら守る。
目の前で死なせる気はない。
切り捨てるには、こっちの気分が悪すぎる。
ルクスはそれを聞いて、少しだけ目を伏せた。
「相変わらず……主らしいですね」
「褒めてないだろ」
「ええ」
きっぱりしている。
リゼットが静かに続ける。
「実習中は通常より制限行動を推奨します」
「理由は?」
「人前での召喚規模です。露出が増えれば、学校側観測リスク上昇」
「必要になれば使うぞ」
「承知しています。ですが、可能な限り段階的に」
機械的な物言いだが、内容は正しい。
今の時点で余計に目立つ利点はない。
セレネがふわりと立ち上がり、こちらへ視線を向け、そのまま後ろから優しく抱きしめる。
「ノア、お願いだから無理に一人で抱え込まないで」
「抱え込むつもりはない」
「そう言う時ほど危ないのよ……あなたは昔からそう」
「お前も智明と同じことを言うな」
「正しいからでしょう?」
反論できないのが癪だ。
制服を椅子の背から取って、皺を軽く伸ばす。
明日のための持ち物も再度、確認する。
実習資料、記録端末、筆記具、最低限の装備。
学校指定の範囲に合わせた、ひどく窮屈な準備だ。
この世界の生徒というものは、本当にいろいろ背負わされる。
「――主」
ルクスが名を呼ぶ。
見ると、いつもより少しだけ表情が硬い。
「異常があれば、躊躇しないでください」
「何をだ」
「守るために壊すことを、です」
その言葉に、シオンがくすりと笑う。
「おお、珍しく意見が合うね」
「お前と一緒にするな」
「はいはい」
険悪な空気が流れたが、今夜はそこまで激しくはならなかった。
多分、二人ともそれだけ警戒しているのだろう。
明日の実習に、人間そのものに、そして主を制限された状況へ出すことに。
部屋の明かりを少し落とす。
資料を閉じ、端末の画面も消えると、夜の静けさが戻ってくる。
「……明日は、どうなるだろうか?」
「あら、もしかして楽しみなの、ノア?」
「……」
「フフ、本当は楽しみなのね。少し顔が真っ赤よ?」
そのように言ってくるセレネに舌打ちをしながら目を閉じるのだった。
ふと胸の奥が揺れた。
深いところ――暗い水の底みたいな場所で、何かがかすかに動く。
――乃亜だ。
恐怖だけではない。
不安と、緊張と、少しの戸惑い。
人と関わる場へ向かう前の、言葉にならない揺れ。
「……起こしたか」
「いいえ」
セレネが静かに言う。
「でも、明日のことを感じているのかもしれないわね、もしかしたら」
目を閉じると、微かに沈んだ気配が伝わる。
まだ静かに、遠い。
だが、完全な無ではない。
この身体の奥で、乃亜もまた、明日の研修というものに反応している。
彼らを信用はしていない。
だが見捨てるつもりもない。
それで十分だと、自分に言い聞かせる。
明日を越えればいい。
そう思った時点で、たぶん越えられないのだろうとも、どこかで分かっていた。
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