第04話 借りものの身体
靴箱に入っていた紙をポケットへ押し込み、俺は校門を出た。
夕方の光が街を斜めに染めている。
行き交う人間たちは忙しそうに足を動かし、誰も彼も、他人のことなど気にも留めていない顔をしていた。
その無関心は、ある意味では救いだった。
家では疎まれ、学校では悪者として扱われる。
ならせめて外の人間くらいは俺を知らないままでいてくれた方がいい。
……いや。
違うな、とすぐに思い直す。
知らないから、どうでもいいのだ。
知った所で、きっと大差はない。
人は自分の見たいものを見る。信じたいものだけを信じる。そのことは、もう嫌というほど知った。
ポケットの中の紙が、歩くたびに衣服越しに指先へ触れた。
あの乱暴な文字。
――次は階段で落ちろ。
あれを書いたのが誰かなんて、考えるまでもないのかもしれない。
あるいは、誰が書いたかすら重要ではない。
あの教室では俺に向けてああいう悪意を投げても構わない、という空気が出来上がっている。
それ自体が問題なのだ。
ため息を吐こうとした時、不意に視界が揺れた。
「……っ」
頭の奥に、鋭い痛みが走る。
脳を内側から焼かれるような、嫌な痛みだった。
思わず足を止め、近くの電柱に手をつく。
こめかみを押さえても意味がない。
痛みは表面ではなく、もっと深いところから湧き上がっていた。
何だ。
この身体の不調か。
それとも、まだ処刑の後遺症でも残って――次の瞬間、視界が白く弾けた。
違う景色が流れ込んでくる。
俺の記憶ではない。
俺のものではないはずの感情が、熱を伴って胸の内へ押し寄せてきた。
――そこは食卓だった。
今朝見た久城家の食卓よりも、少しだけ幼い頃のものらしい。
椅子が大きく見える。
テーブルの高さも違う。
そこに座っているのは、小さな子どもだ。目線の高さからして多分六つか七つ。
――乃亜。
直感的に分かった。
これは、この身体の持ち主の記憶だ。
『る、瑠亜が、さきに――』
か細い声が聞こえる。
けれどその言葉は、途中で泣き声にかき消された。
『ごめんなさいっ、おかあさん……っ、おにいちゃんが、ぼくのを……』
机の向こうで泣いているのは、幼い瑠亜だった。
頬に涙を浮かべ、震える肩で母親に縋りつく。
いかにも傷ついた弟の顔だ。
次の瞬間、女の声が落ちてくる。
『乃亜、あなたお兄ちゃんでしょうっ!』
『でも、ちが――』
『言い訳しないの!!』
怒鳴った声が響き渡る。
だからこそ厄介な、逃げ場のない声だ。
『瑠亜は繊細なんだから、あなたが我慢してあげなさい』
それで終わり――何があったのか確認する者は誰もいない。
乃亜が何を言おうと、その時点でもう意味はない。
記憶が切り替わる。
今度は学校の廊下。
誰かの体操着がなくなったらしい。ざわつく教室の中、教師が困った顔で乃亜を見ている。
『久城、お前、また何か知ってるんじゃないのか』
『し、知らないです』
『でも前にも似たようなことがあっただろ』
『それは……』
周囲の子どもたちの視線。
疑い。
決めつけ。
その中で、幼い乃亜は縮こまるように立っている。
反論したいのに、言葉が喉に引っかかって出てこない。
さらに場面が変わる。
少し年上の姉が、廊下の向こうに立っている。
乃亜は泣きそうな顔でそちらを見ていた。
多分助けを求めていたのだろう?
けれど姉は目が合った瞬間、気まずそうに視線を逸らし、そのまま友人たちの方へ歩いていってしまう。
また変わる。
『なんでお前は瑠亜みたいにできない?』
低い男の声――父親だ。
『同じように育てているのに、どうしてこうも差が出る?』
『……ごめんなさい』
『謝るくらいなら最初から迷惑をかけるんじゃない』
比較。
失望。
ため息。
冷えた目。
断片的な記憶なのに、それだけで十分だった。
この身体の持ち主は、長い時間をかけて追い詰められてきたのだと分かる。
誰か一人が、露骨に痛めつけたわけじゃない。
もっと日常的で、もっと否定しづらい形で。
泣く弟、困ったように笑う母、そして失望する父と見て見ぬふりをする姉。
学校で当然のように向けられる疑いの目。
そんなものを何度も何度も浴び続ければ、人は自分の方がおかしいのではないかと思い始める。
悪いのは相手じゃなく、自分なのではないか。
自分がちゃんとできないから、信じてもらえないのではないか。
自分が我慢すれば丸く収まるのではないか。
――そうやって、少しずつ壊れていく。
「……っ、は……」
気づけば、俺は歩道の端に膝をついていた。
息が荒くなっている。
額に汗が滲んでいる。通り過ぎる人々の足音がひどく遠く感じた。
記憶の奔流はそれで終わらなかった。
今度は、光の届かない暗い場所だった。
何もない――ただ、冷たく静かな闇だけが広がっている。
その隅で、小さな子どもが膝を抱えていた。
最初は年齢が分からなかった。
けれどよく見れば、それは今の身体より幼い乃亜ではない。
十四歳の乃亜――痩せて、怯えた目をしたまま、闇の中にうずくまっている。
俺に気づいたのか、その顔が上がる。
びくり、と肩が震えた。
怯えている、こんな俺に。
いや、正確には、この身体を動かしている知らない【誰か】に、だろう。
『……あ』
声はひどくかすれていた。
長い事誰とも話していなかった人間のように。
俺は何も言えなかった。
どう声をかけるべきか分からなかったからだ。
――お前の身体を借りている。
――気づいたらここにいた。
――返すつもりはある。
そんなことを言ったところで、相手にとっては恐怖でしかないだろう。
乃亜はしばらく俺を見ていた。
逃げるでもなく、近づくでもなく、ただ怯えながら、必死に何かを確かめるような目で。
やがて唇が震えた。
『……ごめん、なさい』
その声は、ひどく弱々しかった。
責める響きはない。
怒りも、恨みもない。
ただ怯えながら、震えながら、泣くのをこらえきれない子どもの声だった。
目の前の乃亜は、小さく身体を縮めたまま、何度も何度も謝ろうとしている。
何に対して謝っているのかも分からないまま、ただそうしなければならないみたいに。
胸の奥が、ひどく軋んだ。
こんな風に謝るしかなかったのか。
誰にも信じてもらえず、誰にも庇ってもらえず、最後には自分が悪いのだと思い込むしかなかったのか。
『……ごめん、なさい……ごめ、んなさい……』
乃亜の声は途切れ途切れで、泣き声に飲まれそうだった。
もういい、と咄嗟に言葉が出た。
『謝るな』
自分でも驚くくらい、声は静かだった。
乃亜がびくりと肩を震わせる。
怯えた目でこちらを見る。
その顔が、痛いほど幼く見えた。
『お前は悪くない』
乃亜の目が大きく揺れる。
信じられない、と言いたげな顔だった。
『でも……』
『悪くない』
はっきり言い切る。
曖昧にしたくなかった。
俺はゆっくりと乃亜の前に膝をついた。
触れられるのかも分からない、曖昧な場所だったが、それでも少しでも近い位置にいたかった。
『――聞け』
乃亜は泣きそうな顔のまま、こちらを見ている。
『俺も何が起きたのか、まだ全部は分からない』
『……』
『どうして俺がここにいるのかも、お前がこんなところに沈んでる理由も、全部はまだ分からない』
そこで一度言葉を切る。
軽々しく約束するつもりはなかった。できないことを言うのは、裏切りと同じだ。
だから、今言えることだけを言う。
『でも、筆頭だけは分かる』
乃亜の細い肩が、まだ小さく震えている。
『俺はお前を押しのけるためにここに来たんじゃない』
『……』
『お前の身体を奪って生きるつもりもない』
乃亜の唇が震える。
泣きながら、必死に何かをこらえているのが分かった。
『だから、大丈夫だ』
その言葉は、自分に言い聞かせるみたいでもあった。
『俺はお前の敵じゃない』
『……』
『味方になる』
乃亜の目から、とうとう涙がこぼれた。
それは大きな嗚咽じゃない。
むしろ、泣く事すら怖がっているみたいな、静かな涙だった。
『ひとりで謝らなくていい』
『……っ』
『もう、そんなふうに怯えなくていい』
支えたいと思った。
この子を――何度も見捨てられて、もう助けを求めることすら諦めかけている、この子を。
俺はそっと手を伸ばし、乃亜の背に触れるようなつもりで空を撫でた。
本当に触れられたのかは分からない。
けれど乃亜は少しだけ目を見開き、それから、ほんのわずかに身体の力を抜いた。
『……だから、今は休め』
泣いていいとも言えなかった。
たぶん乃亜は、そんな言葉すら受け止めきれない。
だからせめて、今はここで折れきらないでくれと、それだけを願った。
――景色が途切れる。
次に気づいた時、俺はまだ歩道の脇にいた。
沈みかけた夕日が、視界を赤く染めている。
呼吸を整えながら、ゆっくり立ち上がる。
膝が少し笑っていた。
「……そういうことか」
呟きは、自分でも驚くほど低かった。
この身体には、まだ持ち主がいる。
完全に消えたわけじゃない。
眠っているのか、閉じ込められているのか、それは分からない。だが確かに“いる”。
そしてあいつは、壊れかけている。
なら、これは借り物だ。
生きる場所を失った俺が、偶然流れ着いただけの器。
胸の奥が、妙にざわつく。
異世界で裏切られ、処刑され、何もかも失った。
ようやく手にしたと思っていた居場所も、絆も、国も、全部偽物だった。
そんな俺が、今度は誰かの人生を奪う側に回るのか。
「……冗談じゃないっ」
久城家に戻る道すがら、空はすっかり暗くなっていた。
家の窓から漏れる明かりを見ても、そこに帰属意識のようなものはまるで湧かない。
あれは他人の家だ。
俺にとっても、乃亜にとっても。
夕食の席では、誰ともほとんど会話をしなかった。
向こうも家族たちも全く声をかけようとしなかった。
朝よりは面倒くさそうにしながらも、それ以上深くは関わってこない。
瑠亜だけが何度かこちらを見ていた。
あの整った顔で、笑っているようにも、探っているようにも見える目を向けてくる。
だが今は、それに構う余裕がなかった。
部屋へ戻り、鍵をかける。
薄暗い物置のような部屋の中央に立って、俺はしばらく何もせずにいた。
乃亜の記憶。
あの闇の中の姿。
泣きながら謝る声。
『……ごめん、なさい』
耳の奥に残って離れない。
ここの人間たちは信じない。
それはもう決めた。
この世界でも、あの世界でも、人は都合よく他人を捨てる。
見たいものだけを見て、弱い者を悪者に仕立て上げる。
だから信じない、二度と。
けれど――俺はゆっくりと目を閉じ、静かに息を吐いた。
「人間は信じない」
声に出すと、言葉は冷たく部屋に落ちた。
「でも、お前の味方にはなるから」
それは乃亜に向けた誓いだった。
あるいは、自分自身に向けたものでもあったのかもしれない。
「お前を、ひとりにはしない、絶対に」
呟いた次の瞬間、空気が変わった。
ぴん、と張りつめるような感覚。
部屋の温度が一瞬だけ下がった気がした。
俺ははっとして足元を見る。
床に、淡い光が走っていた。
「……は?」
細い線が円を描く。
幾重にも重なる記号。
見間違えるはずがない。
――召喚陣だ。
異世界で、俺が何度も何度も描き、発動させてきた契約術式。
この世界にあるはずのない形。俺の魂に刻み込まれた、召喚士ノアの術式が、今、薄汚れた床の上に淡く浮かび上がっている。
心臓が大きく鳴った。
まさか。
そんなはずはない。
身体は変わったし、世界も違う。
契約だって、あの処刑の時に断ち切られたはずだ。
なのに、目の前の光は嘘ではなかった。
円陣の中心で、魔力が集まる気配がある。
懐かしい、焼け付くほど懐かしい感覚だった。
俺は無意識に一歩、後ずさる。
「なんで、ここに……」
答える者はいない。
ただ、陣の光だけが静かに脈打っているように見えたのだった。
読んでいただきまして、本当にありがとうございます。
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