第25話 階段の下で泣く弟
昼休みの終わりが近づくと、校舎の空気は少しだけ浮つく。
食事を終えた生徒たちが教室へ戻り始め、廊下は次の授業へ向かう足音で満ちる。
騒がしさと慌ただしさが混ざった、あの独特の時間だ。
俺はそのざわめきの中で、机の上の教科書を閉じた。
昼休みは比較的ましだ。
誰もが自分の会話や移動に気を取られていて、俺を意識する余裕が薄れるからだ。
もっとも、それは“誰も見ていない”という意味ではない。
双子の弟――瑠亜だけは別だ。
「――兄さん」
柔らかい声が頭上から落ちてきた。
顔を上げると、瑠亜が立っていた。
昼休みの終わり際でも、あいつの笑顔はきれいに整っている。
周囲にいた何人かの生徒がこちらをちらりと見てから、気まずそうに視線を外した。
「……何だ?」
「少しだけ話したいんだ」
「嫌だ」
「そんな事言わないでよ」
最近、何度か似たようなことがあった。
人目のある場所で穏やかに近づいてきて、二人きりになる場所へ誘う。
そこで兄の変化を探るように質問を投げてくる。
今回もその延長だろう、と最初は思った。
「……今じゃないと駄目なのか?」
「うん。すぐ終わるから」
声も表情も、文句のつけようがない。
ここで断れば、周囲にはまた兄が弟を邪険にした、と言う感じで映る。
面倒だが、それはいつものことだ。
俺は立ち上がった。
「すぐ終わらせてくれ」
「ありがとう、兄さん」
その言い方が妙に引っかかった。
瑠亜について階段の方へ向かいながら、嫌な予感が薄く背筋に張りつく。
ただ、今の時点で何があると断定できるほどの材料はない。
あいつは露骨すぎるやり方を好まない。
いつだって周囲からそう見える形を整えてくる。
――だから厄介なのだ。
校舎の端に近い階段は、人の行き来が多い時間帯だった。
上の階から降りてくる生徒、下の階から急いで上がる生徒。
完全な密室ではないが、短いやり取りをするにはちょうどいい。
瑠亜は踊り場の手前で立ち止まり、くるりとこちらを振り向いた。
「いつ、家に帰ってくる?」
やはりそこか。
俺は眉を寄せる。
「またその話か」
「だって気になるんだよ」
瑠亜は少しだけ困ったように笑った。
「兄さん、最近本当に変だから」
「何度も言わせるな。お前には関係ない」
「そんなのあるに決まってるじゃん」
一歩、距離を詰めてくる。
近い――だが、その距離感自体は不自然ではない。
兄弟が話しているように見えるぎりぎりの位置を、こいつはよく知っている。
「誰かに助けられてるの?」
「だとしたら何だ」
「……やっぱり、いるんだ」
答えていないのに、そう結論づける。
俺の言葉そのものではなく、反応を材料にしているのだろう。
階段の上から、何人かの生徒が下りてくる気配がした。
下の階にも人影がある。
この位置、このタイミング。
偶然にしては都合が良すぎる。
嫌な予感が、少しだけ濃くなる。
「兄さんのくせに、そんな顔しないでくれる?」
瑠亜が言った。
「最近、マシな顔してる……前みたいじゃない」
「お前に言われる筋合いはないぞ」
「あるって。僕の兄なんだから」
「都合のいい時だけ兄扱いしないでくれ、腹が立つ」
それはきっと、乃亜の言葉じゃない。
俺の、ノアの言葉だ。
目の前の少年――瑠亜に嫌悪感を抱いているのは間違いないから。
その言葉を聞いて、瑠亜の笑みがわずかに揺れた。
それでもすぐに整え直す。
「前の兄さんのほうが分かりやすかったのに」
「そうか」
「うん。今の兄さん、知らない人みたい」
そう言いながら、瑠亜の指先が俺の制服の袖へ軽く触れた。
まぁ、確かに別人だから当たり前だ。
俺は目の前の少年の兄ではないのだから。
ふと、その瞬間、脳裏で何かが繋がる。
近い距離。
人目のある階段。
最近続いていた探り。
そして、この不自然な接触。
来る――そう思った時には、もう遅かった。
瑠亜が、ほんのわずかに自分から体重を崩した。
俺が押したわけじゃない。
だが、こちらの袖を掴まれたまま相手だけが後ろへ倒れれば、外から見た時どう映るかは明白だ。
「……っ」
瑠亜の身体が階段側へ傾く。
転ぶというより、落ちる角度だ。
舌打ちしそうになるのを抑え、俺は反射的に腕を引いた。
巻き込まれないようにするのが精一杯だった。
瑠亜の指が袖から離れ、そのまま数段分派手な音を立てて転がる。
「瑠亜くん!?」
すぐに悲鳴が上がった。
上の階から下りてきていた女子生徒が口を押さえ、下にいた連中も一斉に足を止める。
瑠亜は踊り場の下で痛そうに身体を丸めた。
大怪我ではなさそうだが、見た目は十分にひどい。
制服の膝が擦れ、肘も打っている。
そして、絶妙だった。
俺と瑠亜の距離。
転げ落ちる直前の位置。
周囲の断片的な目撃。
全てが兄が弟を突き落としたかもしれない、と言う絵に整っている。
全く、見事なものだ。
「久城……っ」
「お前、何して――」
「違う」
何人かが口々に言いかけたのを、短く切る。
慌てて駆け下りるふりはしない。
叫びもしない。
ただ階段の上から瑠亜を見下ろし、状況を確認する。
動けるし、意識もある。
なら、今優先すべきは騒ぐことではない。
「おい、誰か教師を呼べ!」
そう言いながら、俺は階段を一気に駆け下りた。
下でうずくまっている瑠亜の顔は青い。
泣きそうに歪んだその表情は、端から見れば完璧な被害者の顔だった。
実際、肘や膝は擦っているし、打ちどころによっては厄介だ。
「ちが……っ、僕が勝手に、足……」
「いいか、喋るな話すな何も言うな」
短く言って、俺は瑠亜の身体へ手を伸ばした。
一瞬、瑠亜の目が見開かれる。
明らかな驚きだった。
――そりゃそうだろうな。
お前は多分、俺が階段の上で立ち尽くすか、感情的に否定するか、そのどちらかを想定していた。
まさかそのまま抱き上げて運ばれるとは思っていなかったはずだ。
「っ、兄さ――」
「大人しくしてろ。余計に痛めるぞ」
瑠亜の身体を抱き上げる。
十四歳の身体とはいえ、今の俺も同じ年頃の細い身体だ。
本来なら楽じゃないし、昔のような力なんてない。
ましてや乃亜の体は頑丈ではない。
だが異世界で染みついた身体の使い方がある以上、短距離ならどうにかなる。
周囲が一瞬、息を呑んだ。
「え……」
「久城、何して」
「保健室に連れて行くから道を空けろ!」
それだけ言うと、ざわついていた生徒たちが反射的に左右へ退く。
誰もが状況を飲み込みきれていない顔をしていた。
階段の途中で、瑠亜が小さく身じろいだ。
腕の中の身体がわずかに強張る。
「……下ろして」
「嫌だな」
淡々と返す。
「ここでまた落ちられても面倒だ」
「……っ」
その一言に、瑠亜の呼吸が乱れた。
痛みだけじゃない。予想を外された混乱も混じっている。
階段の上から、誰かの震えた声が飛ぶ。
「お前……押したのか?」
「俺は押していない」
「でも、今……」
「見たのか?」
「それは……」
押した瞬間を見ていないのなら、残るのは曖昧な印象だけだ。
そして今、周囲の目の前にあるのは弟を抱えて保健室へ急ぐ兄の姿だった。
そこへ、急ぎ足の教師が駆け込んでくる。
「何があった!」
「瑠亜くんが落ちて……」
「久城が……」
教師の視線がまっすぐ俺へ向いた。
最初から誰を疑うつもりか、分かりやすい目だ。
懐かしいな、と一瞬だけ思う。
異世界の法廷で見た視線によく似ていた。
だが今回は違う。
俺は教師を正面から見返した。
「俺は押していないが、階段から落ちたのは事実だ。これから保健室へ運ぶからアンタも邪魔しないでくれ」
「お前……!」
「責任の所在は後でいい。今は怪我の確認が先だろ?だからどけ」
教師だろうが関係ない。
ぶっきらぼうの言葉を吐き、教師が言葉に詰まる。
腕の中で、瑠亜がわずかに息を呑んだのが分かった。
こいつにとっても、この流れは想定外なのだろう。
もう一人の教師が慌てて近づき、「こちらへ!」と保健室の方を示す。
俺はそれに従って歩き出した。
その途中、瑠亜がそっと俺を見上げた。
泣きそうな顔。
痛みに耐える弟の顔。
その奥で、ほんのわずかに戸惑いが揺れている。
どうして。
なんで、こんなことするの。
そんな声が聞こえた気がした。
俺は何も言わない。
今ここで瑠亜の芝居を暴くことはできない。
証拠もないし、周囲の空気もまだ向こう寄りだ。
それでも、完全には成功していない。
俺が騒がなかったからだ。
叫ばず、取り乱さず、真っ先に運んだからだ。
今までなら“また兄がやった”で終わっていた空気に、わずかな引っかかりが生まれている。
保健室の前で教師に引き止められ、俺はようやく瑠亜をベッドへ下ろした。
その瞬間まで、あいつはずっとこちらを見ていた。
その目の中にあるのは、勝利でも安心でもない。
もっと不穏な、理解できないものを前にした時の揺れだった。
――乃亜は、ずっとこれを浴びてきたのか。
こうして仕掛けられ、悪者にされ、しかも周囲の視線が全部相手の味方に見える状況を、何度も。
胸の奥が、静かに冷える。
教師に肩を掴まれ、職員室へ来いと促されながら、俺は最後にもう一度だけ瑠亜を見た。
ベッドに横たわり、庇われる側の顔をしたまま、あいつはまだこちらを見ていた。
――次はもっとうまくやれよ、瑠亜。
今の乃亜は、もうお前の思い通りにはならない。
――殺していいですか、主?
うん、それはやめてほしいルクスーーそのように命令しておいた。
読んでいただきまして、本当にありがとうございます。
「面白い!」「続き読みたい!」など思った方は、ぜひブックマーク、下の評価を5つ星よろしくお願いします!
していただいたら作者のモチベーションも上がりますので、更新が早くなるかもしれません!
ぜひよろしくお願いします!




