第20話 居場所のあるところ
叔父の家で迎える朝は、思っていたより静かだった。
久城家でも朝は静かだった。
だがあれは、誰も余計なことを言わないように息を潜めている静けさだ。
どこかで何かを間違えればそのまま空気ごと責め立てられる類の、ひどく冷たい静けさだった。
――ここは、本当に違う。
台所から食器の触れ合う音がする。
叔父が適当に淹れたらしいコーヒーの匂いが微かに流れてくる。
窓の外では車の音が遠く響き、街がもう動き始めていることを知らせていた。
それだけのことなのに、目を開けた時の息苦しさが少ない。
起き上がった瞬間、少しだけ身体が重かった。
乃亜の身体はまだ本調子にはほど遠い。
魔力の流れも不安定だし、昨日までの緊張や疲労が完全に消えたわけでもない。
それでも、久城家の朝よりはましだ。
「――起きましたか、主」
窓際に立っていたルクスがこちらを見る。
銀髪を朝の光が淡く縁取っていた。
相変わらず気配は鋭いままだが、その目つきは昨夜よりわずかに柔らかい。
「ん……ふぁあ……ああ、おはようルクス」
「顔色は昨日より良いな」
「そうか?」
「ええ。ですがまだ不安定です」
やはりそこは甘くない。
体調が良く見えたならそれで済ませる叔父と違って、ルクスは容赦なく現実を突きつけてくる。
「魂と器の接続も安定しきっていない。睡眠は取れたが、万全には程遠い」
「……朝から厳しいな、お前」
「甘やかして良くなるならいくらでもします」
真顔ではっきり言うから困る。
こいつは本気でそう思っている。
思わず嫌そうな顔をしてしまった。
寝台から降りると、扉の向こうからセレネの気配がした。
穏やかな足音のあと、彼女が部屋へ入ってくる。
「おはようございます、主」
「ああ、おはよう」
「ルクスはまた必要以上に心配しているのね」
「必要以上ではありません」
即座に反論するルクスに、セレネは小さく笑った。
「ええ、ええ。でもそれでも、前よりましよ」
「まし?」
「少なくとも、沈み込む気配が少し薄いわ」
その言い方に、俺は無意識に胸の奥へ意識を向ける。
そこにはまだ、乃亜の存在がある。
深いところで眠る、壊れかけた魂の灯。
昨夜セレネが少しだけ落ち着いていると言った、その気配だ。
「主自身もそうよ」
そのように、セレネは言葉を続けた。
「ここへ来てから、身体の力の抜いているように見えるわ」
「……そんなつもりはないぞ?」
「つもりがなくても、そういうものなのよ、まったくそこは変わらないのね主」
セレネの言葉を言い返しかけて、やめた。
たしかに昨日までより、胸の内側に張りついていた棘のようなものが少しだけ薄い気がする。
消えたわけではない。
人間への不信も、久城家への嫌悪も何も変わっていない。
だが、それとは別のところで、常に全身を緊張させていなくていい時間が生まれている。
それだけで、身体は多少違うらしい。
「おい、ノア!朝飯できてるぞー」
外から叔父の声が飛んできた。
それに続いて、こんな声が聞こえた。
「今日は増えてないよな?」
そのような、半分本気の確認まで聞こえる。
思わず息が漏れた。
笑ったのかもしれない。
ほんの僅かだったが、ルクスがそれを見て少しだけ目を細めた。
朝食は簡素だったが、十分だった。
叔父は食パンを焼きながらスマホをいじり、俺が制服姿で居間に入ると、ちらりとこちらを見た。
「昨日より顔はマシだな」
「そんなにひどかったか?」
「かなりな」
「寝る場所があるだけで人間ちょっとは違うらしい」
「……そうかもな」
叔父はそれ以上踏み込まない。
その距離感がありがたかった。
食卓には俺と叔父だけしかいないが、見えないところでは召喚獣たちがうろついている。
ルクスは当然のように近くにいるし、セレネは静かに様子を見ている。
シオンは今朝に限ってまだ表へ出てこない。
出てこないなら出てこないで、それはそれで少し不安になるのが腹立たしい。
「……今日は普通に学校だろ」
「ああ」
「無茶すんなよ?」
「……努力する」
「はぁ……約束だぞ」
呆れたように言われ、パンをかじりながら視線を逸らした。
外の世界では慎重に、と昨夜言われたばかりだ。
ここで変に感情を見せる必要もない。
そのまま食事を終えて支度を整える。
制服の襟を直し、鞄を持つ。
玄関を出る時、叔父が靴箱にもたれながら言う。
「よし、行ってこい」
「ああ、ありがとう」
「無理なく、何かあれば帰ってこい」
その言葉を聞いて一瞬、足が止まりかけた。
だが振り返ることはせず、短く「分かった」とだけ返して外へ出る。
冷たい朝の空気が頬に触れる。
久城家から学校へ向かう道とは違う駅前の通りを歩きながら、俺は小さく息を吐いた。
背後には帰る場所がある。
それを自分の“家”と呼ぶにはまだ早い。
だが少なくとも、戻りたくない場所ではないと実感する事が出来た。
▽
学校へ着くと、いつものように視線が集まった。
露骨な好意はない――けれど悪意だけでもない、あの曖昧で湿った空気だ。
変わっていないようでいて、少しずつ変わり始めてもいる。
最近の俺が以前の乃亜と同じようには崩れないせいで、周囲もどう扱えばいいのか決めかねているのだろう。
教室へ入ると、花宮澪が真っ先にこちらを見た。
「……あれ」
小さく漏らした声に、周囲の女子が何気なく反応する。
「どうしたの、澪」
「いや、なんか……最近、雰囲気違くない?」
その一言で、教室の空気が微妙に揺れる。
以前ならそんな事は言わない。
だが今の花宮の声音には、もっと単純な違和感があった。
「そう?」
「うーん……上手く言えないけど。前より暗くないっていうか、変に尖ってないっていうか」
花宮は考えながら言っている。
噂を面白がっていただけの頃とは違って、ちゃんと今の俺を見て違いを拾っているらしい。
「気のせいじゃないか?」
そう返して席へ向かうと、花宮は「いやでもなあ」とまだ何か考えている顔だった。
朝比奈湊もまた、席に着いた俺を見て一瞬だけ視線を止めた。
学級委員らしいまっすぐな姿勢は相変わらずだが、俺を見る目つきは前より少し柔らかい。
声をかける事はなく、静かに見つめた後、授業の準備をし始めた。
授業の合間や休み時間にも、周囲の視線は昨日までと少し違っていた。
まだ警戒もあるし、好奇心や面倒ごと扱いも消えていない。
人は一度作った認識をなかなか変えない。
それでも、ほんの少しずつならズレは生まれる――今はその程度で十分だった。
だが、そんな中で一人だけ、俺を見つめる目の質が明らかに違う奴がいる。
――瑠亜だ。
あいつは周囲の人気者らしい顔を崩さない。
話しかけられれば柔らかく返し、教師の前でも友人の前でも完璧な弟を演じている。
だが、その視線は何度もこちらへ向いていた。
昨日まで以上に細かく、執拗に。
単なる観察じゃない。
まるで、何かを探している目だった。
昼休み、廊下ですれ違った時も同じだった。
瑠亜の目線が俺の制服の袖口で止まる。次に鞄。靴。顔色。
まるで些細な違和感を拾い集めるみたいに、細部を見てくる。
「――兄さん」
柔らかい声で呼ばれ、足を止める。
人目がある場所だからか、その笑顔は完璧なままだ。
「何だ」
「最近、ちゃんと寝てる?」
「急にどうしたんだよ」
「いや、前より顔色ましだから」
言いながら、瑠亜の目は笑っていなかった。
「よかったね、兄さん」
その声音に乗る温度の薄さを、たぶん周囲は気づかないだろう。
だが俺には分かる。
こいつは喜んでいるんじゃない。
確認しているだけだ。
何が変わったのか、どこで変わったのかを。
「別にお前に心配される筋合いはない」
「そう?」
「ああ」
「でも、最近の兄さん、本当に違うから」
それだけ言って、また人の輪の中へ戻っていく。
周囲から見れば、兄を気遣う優しい弟だ。
だが実際には、その内側でじわじわと不気味な違和感を育てている。
放課後、教室が空き始める頃には、その視線の意味が少しだけ分かってきた。
俺の制服の皺の付き方。
鞄に入っている物の量。
靴の汚れ方。
どれも些細な変化だ。
だが家から通っている人間と、別の場所を拠点にしている人間では、積み重なると微妙に違ってくる。
瑠亜はそれに気づき始めている。
(……気味が悪いな)
思わずそんな事を考えてしまった。
それに、教室を出て廊下を歩く途中、背後からまた視線を感じた。
振り返らずにそのまま歩き続ける。
追ってくる気配はない。
校門を出る直前、ガラス窓に反射した向こう側で、瑠亜が立ち止まっているのが見えた。
視線は俺ではなく、俺の手にした鞄と、袖口と、靴元あたりへ落ちている。
そしてその唇が、ほんのわずかに動いた。
「ねぇ……どこにいるの?」
小さすぎて、直接聞こえたわけじゃない。
けれどその口の形で分かった。
瑠亜は、ようやく疑い始めている。
自分の知らない”居場所”を持ち始めたのではないか、と。
その事実が、あいつには耐えられないのだろう。
俺は振り返らない。
今さら瑠亜に居場所を知られるつもりはない。
あいつがどれだけ違和感を抱こうと、俺の行く先はすでに決まっている。
叔父の家へ戻り、生活基盤を整え、配信を重ね、ダンジョンへ潜る。
その先で乃亜を取り戻す。
――やるべきことは、もう見えている。
だからあいつの執着に付き合う必要はない。
それでもなお、瑠亜の視線だけは、校門を出るまでずっと肌に張りついていた。
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