第02話 久城乃亜という地獄
鏡の中の少年としばらく見つめ合ったあと、俺はようやく息を吐いた。
混乱していないと言えば嘘になる。
いや、正確には、混乱しすぎて逆に頭が冷えていた。
異世界で処刑され、目を覚ましたら見知らぬ少年の身体にいた――全く、意味が分からない。
分からないが、分からないまま座っていても状況は変わらない。
俺はまず、自分が立っているこの場所を見回した。
狭い部屋だった――寝台は軋み、机は端が欠けている。
壁紙は一部が剥がれ、窓際には読まれていない本や紙束が雑然と積まれており、衣服も畳まれず、隅に押し込まれている。
生活感はあるのだが、人が丁寧に扱われている気配はない。
家の一室というより、使っていない物置に無理やり寝具を置いたような空間だ。
「これは……ひどいな」
思わず声に出てしまった。
戦場の野営地のほうがまだましだ。
少なくとも、あれは必要があって粗末なのだと分かる。
ここには違うものがある――意図的な冷たさを感じた。
机の上に、板のように薄い黒い物が置かれている。
手に取ると、表面がぴたりと光る。
「っ……」
一瞬、魔道具かと身構えた。
だがそこに映ったのは魔法陣ではなく、文字と絵だった。
奇妙な道具だ。
触れると画面が切り替わる。
知らない言葉も混じっているが、不思議と読むことはできた――いや、この身体に残った知識が勝手に意味を結んでいるのかもしれない。
表示された名を見て、俺は目を細める。
――久城乃亜
「……これが、この身体の名か」
俺はさらに探ってみる。
学生証と呼ばれる札には、制服姿の同じ少年の顔写真が載っている。
生年月日と、学校名――十四歳。やはり俺ではない。
机の引き出しには教科書の類と、一冊のノート。
乱れた筆跡で書かれた文字を追いかけるうち、断片的に状況が見えてくる。
――結論からして、ここは俺のいた世界ではない。
魔王軍も王国もない代わりに、ダンジョンというものが存在する世界。
探索者という職業があり、人々は機材を使ってダンジョンの攻略を配信し、金や人気を得るらしい。
魔物がいること自体は変わらないのに、街並みも暮らしもまるで違う。
奇妙な箱、灯り、画面、見たこともない文明の気配が部屋の隅々にまで満ちていた。
そして、この世界の俺――いや、この身体の持ち主、久城乃亜は、十四歳の少年。
そこまで把握したところで、扉の向こうから声がした。
「――乃亜、いつまで引きこもってるの」
女の声が聞こえたのだが、柔らかいようでいて、底に苛立ちを隠していない。
「朝ごはん、冷めるわよ?」
返事を待たずに足音が遠ざかる。
俺は小さく息を吐き、部屋を出てみることにした。
廊下に出た瞬間、分かる――この家は広く、整っている。
俺のいた部屋だけが異様に粗末だった。
磨かれた床。飾られた写真。清潔な壁。
それらを見ただけで、あの部屋の扱いが家の限界ではなく、その子だけへの雑な扱いなのだと分かってしまった。
胸の奥が、妙にざらついた。
階段を下りると、食卓にはすでに四人が揃っていた。
父と思しき男は新聞のようなものを広げ、こちらを一瞥しただけで興味を失う。
母は穏やかな笑みを浮かべているが、その目は少しも歓迎していない。
年上の少女――姉だろうか?彼女は気まずそうに目を伏せる。
そして最後に、俺を見た少年が笑った。
「おはよう、兄さん」
柔らかな声――よく通る、感じのいい声だった。
顔立ちも整っていて、人好きのする微笑みを浮かべている。
だが、なぜだろうな。
そいつを見た瞬間、背筋に薄い寒気が走った。
「瑠亜、乃亜に構わなくていいのよ」
母が困ったように笑う。
まるで、手のかかる厄介者を前にしているような口ぶりだった。
「朝から刺激しないでちょうだい。また機嫌を悪くされたら大変なんだから」
機嫌を悪くする?
俺はまだ何も言っていない。
父が新聞を畳みもせず、低い声で言った。
「座って黙って食え。余計なことはするな」
それは命令だ。
家族へ向ける口調ではない。
俺は黙って席についた。
ここで感情的に動くのは得策ではない。状況を知らなすぎる。
目の前に置かれた食事は、他の皿に比べて明らかに質素だった。
少ないし、冷めている。
だが、それ自体はどうでもいい。
大事なのは、誰もそれをおかしいと思っていないことだ。
「今日、学校では問題を起こさないでよね?瑠亜は大事な時期なんだから。あなたがまた騒ぎを起こしたら、この子まで迷惑するでしょう?」
俺は顔を上げた。
「……俺が、何をしたのか?」
その瞬間、食卓の空気が止まった。
父が露骨に眉を顰める。
姉が気まずそうに視線を泳がせる。
母は、まるでこちらのほうが困らせているかのような顔をした。
「何をした、じゃないだろう」
父が冷たく言う。
「昨日のことも覚えていないのか」
「兄さん、やめなよ」
口を挟んだのは瑠亜だった。
優しい声に庇うような声音。
外から見れば、問題児の兄を気遣う出来た弟そのものだ。
「お父さんもお母さんも、心配してるだけだよ。僕は平気だから」
「瑠亜……」
母が感動したように息を漏らす。
父の表情もわずかに和らぐ。
(ああ、なるほどな)
短いやり取りだけで十分だった。
この家ではすでに話が完成している。
――久城乃亜は問題児。
瑠亜は優しくて出来た弟。
父は手を焼かされ、母は困っていて、姉は巻き込まれたくない。
何が実際にあったのかは知らない。
だが重要なのはそこじゃない。
この家では、最初から答えが決まっている。
俺が何を言おうと、何を弁明しようと、聞く前から結論が出ている。
あまりに見覚えのある構図だった。
――罪人ノア。
――慎む必要があるのはどっちだ。
異世界の処刑台が脳裏をよぎる。
胸の奥が冷えていく。
こんなところまで同じなのか。
「聞いてるの、乃亜?」
母の声で現実に引き戻される。
俺は食事に視線を落としたまま、短く息を吐いた。
「聞いてる」
それだけ言って終わらせるつもりだった。
だが、口はその先を勝手に続けた。
「……いつも、聞くだけで終わるんだな」
一瞬、食卓の空気が止まる。
母が小さく目を見開いた。
父の眉がぴくりと動き、姉は気まずそうに視線を伏せる。
瑠亜だけが、わずかに興味を深めたようにこちらを見ていた。
「何?」
「別に」
俺は顔を上げずに答える。
「こっちの話は誰も聞かないのに。そっちは聞いたことにするんだなと思っただけだ」
それを聞いて、母の口元が引きつった。
困ったように笑おうとして、うまく笑えなかった顔だった。
「乃亜、そういう言い方――」
「なら、違うのか?最初から決まっているだろう?」
そこでようやく俺は顔を上げたと同時に答えた。
とりあえず、母の目を見てみるが、何も見ていない目だ。
同時に父の気配が鋭くなるのを感じたが、もう止まらなかった。
短い沈黙のあと、父は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「減らず口を叩くな」
「……ふんっ」
なるほど。
やはり否定はしないらしい。
それだけで十分だった。
俺はそれ以上何も言わず、残った食事へ視線を戻した。
父は「ならいい」と興味を失い、母は何か言いたげにしながら結局黙り、姉も口を開かない。
瑠亜だけが、じっと俺を見ていた。
食事を終え、学校へ向かう支度をする。
制服は身体に馴染まない。鏡に映る少年の姿も、まだ自分のものとは思えなかった。
玄関を出る直前、ふと背後に気配を感じた。
「――兄さん」
振り返ると、瑠亜が立っていた。
家族の前で浮かべていた笑顔は、そこにはなかった。
整った顔が無表情になり、妙に温度のない目で俺を見ている。
「今日は静かだね」
囁くような声で、彼は言った。
「やっと諦めたの?」
その瞬間、ぞわりとしたものが背を這い上がった。
責めるでもない。怒るでもない。
ただ確認するように、相手の傷口を指でなぞるように、そいつは言った。
――こいつだ、と直感した。
この家の空気を形作っている中心。
優等生の仮面の下で、何かを飼っている存在。
俺は瑠亜を見返した。
すると一瞬だけ、相手の目が揺れた。
今までの乃亜なら返ってこなかった視線なのだろう。
だが瑠亜はすぐに微笑んだ。
何事もなかったように、完璧な弟の顔に戻る。
「行こうよ兄さん。遅れちゃうよ」
俺は何も答えなかった。
この弟は危険だ。
理由はまだ分からない。だが、本能がそう告げていた。
その時、ふと微かな声が聞こえた。
『……ぼくの、からだ』
幼い声、怯えと、縋るような願いが混じっている。
思わず声がする方に視線を向けたがそこには何もいない。
俺はただ静かに息を吐く事しか出来なかった。
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