第16話 叔父が見たもの【篠宮智明視点】
正直に言えば、最初に違和感を覚えたのは顔じゃなかった。
顔は乃亜だった。
疲れて痩せてはいたが、間違いなく姉の息子の顔だった。
小さい頃から何度か会ってきた、あの子の面影もある。
――だけど、中身が違った。
玄関を開けた時から、空気が妙だった。
立ち方、視線、言葉を選ぶ間。どれも十四の子どものものじゃない。
怯えているわけでもなく、ただ静かに周りを測っている目だった。
それでいて、限界まで張りつめてもいた。
追い返したら、そのままどこかで倒れるんじゃないかと思うくらいには。
だからひとまず中へ入れた。
寝る場所だけでいい、家には帰りたくない、迷惑はかけない。
そう言った時の声も不自然だった。
これは、子どもが助けを求める声じゃない。
もっと切羽詰まっているくせに、妙に整っている。何かを諦めた後の声だ。
それでも、全部が全部、乃亜から遠いわけじゃなかった。
帰りたくない、と言った時だけは確かにあの子の顔になった。
限界まで耐えて、でももう無理だと認めた子どもの顔だった。
だから、余計に分からなかった。
何が起きているのか。
目の前にいるのは誰なのか。
勢いで「お前は一体誰なんだ」と聞いた時、部屋の空気が凍った。
――あれは勘違いじゃない。
見えなかったはずの何かが、確かに動いた。
喉元に刃を突きつけられたような感覚。
長く生きてきてそれなりに修羅場も見たが、あそこまで本能が死を確信したのは初めてだったかもしれない。
なのに、乃亜の顔をした少年が「待て」と言った瞬間、それが止まった。
出てきたのは銀髪の男と、青白い目をした人形みたいな少女。
どっちも人間には見えなかった。
見えるわけがない。
あんな気配をした生き物を、人間の枠に入れたらそれこそ頭がおかしい。
それでも、自分でも妙なくらい落ち着いていた。
怖くないわけじゃない。
ただ、あまりに現実離れしすぎると、逆に取り乱す暇もないらしい。
目の前の存在が“異常”であることは分かった。
そして、あの二体が揃って守ろうとしている相手が、乃亜の顔をした誰かだということも。
そこから先の話は、常識で測るのをやめた。
異世界。
召喚士。
処刑。
魂。
沈んだ乃亜。
借り物の身体。
返すためにダンジョンへ潜る。
普通なら信じられるわけがない。
だが、信じられないから嘘とも言い切れなかった。
何より、あの少年は自分をよく見せようとしていなかった。
寧ろ信じてもらえないことも前提にして、それでも必要なことだけを言っているようだった。
多分、久城家の中では誰もあんな風に話を聞かなかったんだろう。
姉貴の家の空気がおかしいことは知っていた。
義兄さんが体裁ばかり気にするのも、姉貴が困った顔で切る人間なのも知っていた。
瑠亜が賢すぎることも、詩織が一歩引きすぎることも。
でも知っていた程度だ。
見ていたとは言えない。
そこを突きつけられた気がして、少しだけ胃が痛かった。
――乃亜をもう一回見捨てることになるんだろ。
自分で言った言葉が、思った以上に重く残っていた。
その夜、乃亜……いや、ノアが隣の部屋で眠りについたあとも、俺はしばらく居間から動けなかった。
照明を一つ落とした部屋は静かで、さっきまでの異常な会話が嘘みたいだった。
だが嘘じゃない証拠に、まだ部屋の隅に気配が残っている。
「――隠れる気、ないんだな」
そう声をかけると、窓際の影がゆっくり動いた。
銀髪の男――ルクスが姿を現す。
人の形を取っていても、目だけで分かる、こいつは猛獣だ。
しかも飼い慣らされていない種類の。
「――隠す必要がないと判断しました」
鋭い声で、ルクスは言った。
礼儀正しく聞こえるのに、少しでも気を抜けば喉を裂かれそうな圧がある。
もう一方、テーブルの上に置かれていた小型端末みたいなものが青く光った。
それがほどけるように形を変え、白い少女――リゼットになる。
「主は睡眠状態へ移行。周辺警戒は継続中です」
こいつもやっぱり人間じゃない。
声は機械みたいに平坦で、表情も薄いくせに、言ってることだけが妙に物騒だ。
「……お前ら、ほんとにあいつの召喚獣なんだな」
「疑問の余地はありません」
リゼットが即答する。
ルクスは俺を見たまま、静かに言った。
「あなたを信用したわけではない」
「だろうな」
「主がここに留まると決めたから、従っているだけです」
真っ直ぐすぎて、逆に清々しい。
遠回しな言い方をしないだけ、久城家の連中より分かりやすいかもしれなかった。
「ノアは……昔からああなのか?」
「どういう意味ですか」
「……あそこまで、自分を後回しにしてでも他人を返そうとする感じだよ」
自分でも上手く言えなかった。
ただ、借り物だから返す、とあまりに当然のように言ったあの声が耳に残っていた。
ルクスの金の目が、わずかに細められる。
「……主は昔から、そういう方です」
「損な性分だな」
「ええ」
あっさりとした回答だった。
そこに否定も迷いもないあたり、本気でそう思っているらしい。
「ですが、だからこそ我らは仕えている」
静かな声でルクスはそのように言った。
感情を荒げるわけでもないのに、妙に重い。
「主は誰より傷つきやすく、誰より見捨てない。だから何度でも、世界に利用される」
「……」
「それでもなお、他者を見捨てない」
そこで初めて、ルクスの声にわずかな熱が混じった。
「乃亜も同じです。主が見捨てないなら、我らも見捨てない」
それを聞いてなるほどな、と思った。
こいつらはただ従ってるだけじゃない。
ノアの在り方ごと、抱え込んでいる。
「……乃亜は、本当に戻せるんだろうな」
聞くと、リゼットが一歩前へ出た。
「可能性は高いです」
「高い、か」
「確定と断言できないのは、深層資源の取得と魂固定の工程に未確定要素があるためです」
「もっと分かる言い方しろ」
「……必要なものを手に入れれば、戻せます」
少し間を置いてから、リゼットは続けた。
「ただし、主への負荷は大きい」
「身体が持たないとか、そういうことか?」
「はい。現在の器は脆弱です。無理な召喚、高位顕現、深層戦闘の継続は危険」
危険――その言葉に、思わず隣の部屋の方を見る。
眠っているのは十四の子どもの身体だ。
中身が何者であろうと、器そのものは乃亜のものだ。
そして乃亜もまた、その奥で生きている。
「主は止まりません」
ルクスが低く言う。
「乃亜を返すまで、必ず進むでしょう」
「……分かってる顔だな」
「当然です。最初に選ばれたのは俺だ」
その言い方に妙な棘があって、少しだけ笑いそうになる。
こいつ、見た目ほど無機質じゃない――かなり重いぞおい。
「で、お前らはそのためなら何でもするって?」
「はい」
「物騒すぎるだろ……」
「否定しません。主に有害と判断すれば、監視、制限、排除は合理的です」
「おい」
「ただし、主が望まない場合は抑制します」
「ギリギリ理性あるな」
「あります」
少しの間、沈黙が落ちる。
不思議と居心地の悪い沈黙じゃなかった。
化け物と話しているはずなのに、人間相手の会話よりよほど真っ直ぐだ。
「……久城家のこと、どう思ってる」
「嫌いです。特にあの双子の弟が気に喰わない」
「即答だなおい、しかも殺気かかってんぞ」
「主を傷つけた世界も、乃亜を壊した人間も、どちらも許していない」
その声音には飾りがなかった。
本気だ――こいつは必要なら本当に噛み砕く。
リゼットも淡々と告げる。
「久城家構成員の行動傾向は有害寄りと判定。継続観測対象です」
「継続観測って」
「必要なら対策を講じます」
「……穏やかに頼む」
「主が望む範囲で実行します」
それならいいのかよくないのか、判断に困る。
だが少なくとも分かった。
この二体は、ノアに対して冗談みたいに重い。
信仰に近い執着で守っている。
だからこそ、あいつが一人で全部抱えないようにする人間が必要なんじゃないか、と少しだけ思った。
「――俺にできることはあるか」
気づけば、そんなことを聞いていた。
ルクスがわずかに目を細める。
試すような視線だった。
「なぜそう思う?」
「放っといたら、あいつ一人で全部やるだろ」
「ええ」
「だったら、せめて倒れない場所くらいは必要だ」
それは綺麗事じゃない。
乃亜に対する後ろめたさも多分混じっている。
知っていて、何もしなかった大人の一人なのだから。
するとリゼットが即座に返す。
「現時点で必要なのは、安定した居住地点、外部からの干渉遮断、主の身体維持」
「住む場所と、休ませることか……」
「概ね正解です」
「余計な詮索をしすぎず、ただ居場所を与えるだけでも意味はある」
「上からの命令みたいだな」
「事実を言ったまでだ」
まったく可愛げがない。
だが嘘はなさそうだった。
「分かった。少なくとも、あいつが自分から出ていくと言うまでは置いとく」
「感謝はしません」
ルクスがそう言う。
言葉の内容の割に、気配はさっきよりわずかに緩んでいた。
「――しなくていいよ」
肩をすくめると、今度はリゼットがこちらを見た。
「追加確認事項」
「何だ」
「主の正体に関する情報は秘匿を推奨します。久城家、学校、協会、その他外部存在への漏洩は非推奨」
「言わない。言っても信じられんだろうしな」
「賢明です」
そこで会話は途切れた。
しばらくして、リゼットの身体が淡く光り始める。
青白い輪郭が薄れ、粒子のようにほどけていく。
「……消えるのか」
「顕現維持効率の最適化です。必要時、再出現します」
相変わらず言い方が固い。
最後にリゼットは、寝室の方を一度だけ見た。
「主の休息を妨げないようお願いします」
「分かってる」
「乃亜の魂安定にも寄与するため、睡眠環境は重要です」
「そこまで含めて気をつけるよ」
短く頷くと、リゼットの青い瞳がわずかに明滅した。
それが肯定なのか、ただの機構反応なのかは分からない。
「――では、失礼します」
その言葉を最後に、リゼットの身体は完全に光へほどけ、音もなく消えた。
残ったのは静かな部屋と、窓際に立つ白銀の狼だけだ。
「……お前は消えないのか」
「俺は残る……主が眠っている間は、俺が守らなければならないからな」
「――だろうな」
妙に納得してしまって、小さく息を吐く。
異世界だの召喚獣だの、まだ全部を受け入れたわけじゃない。
むしろ、これから頭を抱えることの方が多いだろう。
でも今夜だけは、一つだけ分かる。
あの子――乃亜の身体で眠っている誰かは、少なくとも一人じゃない。
それだけは、久城家にいた時よりずっとましだった。
俺は照明をさらに落とし、ソファから立ち上がった。
「おやすみ」
「……変わった人間だな、あなたは」
「今さらかよ」
そう返すと、ルクスは初めてほんの少しだけ目を細めた。
笑ったようにも見えたが、たぶん気のせいだ。
そのまま俺は自室へ戻る。
背後では白銀の気配が、変わらず静かに夜を見張っていたことを考えながら。
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