第12話 噂と違う
翌朝、学校へ向かう足取りは、自分でも思っていたより軽かった。
別に気分がいいわけじゃない。
眠りは浅かったし、乃亜の身体はまだ本調子にはほど遠い。
起きた時から、どこか芯のあたりに鈍い疲れが残っていた。
それでも、あの家から通っていた時みたいな息苦しさはなかった。
帰る場所がない――その事実は本来、もっと重くのしかかるもののはずなのに、不思議なことに今は少しだけ胸が軽い。
戻りたくない場所も、もうないからだろう。
それだけで、世界はほんの少しだけましになるらしい。
校門をくぐると、相変わらず視線は集まった。
無視しきれない程度のひそひそ声。
遠巻きの興味。
それ自体は昨日までと大して変わらない。
――違うのは、俺の方だった。
教室へ入ると、何人かが一瞬だけこちらを見て、すぐに別の話題へ戻る。
その中心にいたのは、花宮澪だった。
「だからさ、あの召喚士の動き、絶対おかしいって!」
朝からよく通る声だった。
机に身を乗り出しながら、スマホの画面を友人たちに見せている。
「普通あんなふうに戦わないでしょ?ていうか、召喚獣にあんな指示出せる? 中身、絶対ベテランだって」
「でも声、若くなかった?」
「そこがまた気になるんじゃん」
配信の話だな、とすぐに分かった。
視界の端に映った画面には、昨日の切り抜きの一部が流れていた。
ルクスの一閃。
フェルの火。
俺の短い指示。
そして、匿名の召喚士――正体不明の配信者。
この学校の中で、自分自身の戦いが話題になっている光景は、妙にむず痒かった。
けれど、悪い気はしない。
少なくとも、あそこに映っているのは【久城乃亜】じゃない。
家でも学校でも勝手に決めつけられた誰かじゃなく、戦っているものとして見られている。
「その……久城」
名を呼ばれて、顔を上げる。
そこには朝比奈湊が立っていた。
相変わらず真面目そうな顔をしている。けれど、前みたいな強い決めつけは少し薄れて見えた。
「今日は、ちゃんと落ち着いてるんだな」
「……だから何だよ」
「いや、別に嫌味じゃない」
朝比奈は少しだけ気まずそうに言って、視線を逸らした。
「……最近、お前、前と違うな」
「そうか?」
「いや、その……変な意味じゃなくて」
言いながら、自分でも上手く整理できていない顔をしている。
こいつのそういうところは、嫌いじゃなかった。
少なくとも、自分の見ているものに迷うくらいの頭はある。
最初から答えを決めている連中より、ずっとましだ。
「前はもっと……」
「もっと何だよ」
「……いや」
朝比奈はそこで言葉を飲み込んだ。
荒れていたとか、危なかったとか、そういう言葉を口にしかけて、やめたのだろう。
俺はそれ以上追及せず、席についた。
少しして、花宮がちらりとこちらを見る。
その視線には、これまでみたいな面白がり半分の軽さに加えて、何かを確かめたがっている色が混じっていた。
「ねえ、久城くん」
「何だよ」
「昨日のあの配信、見た?」
「……見てない」
「ふーん……なんかさ、ああいう静かなタイプが急に強いとウケるんだよね。ギャップっていうか」
「……何が言いたいんだよ?」
「別に? ただ、最近の久城くんも前より静かだなって」
まるで、何かを探るような目で、彼女はそのように言ってきた。
でも、まだただの勘だ。そこに確信はない。
俺は肩をすくめる代わりに、視線を外した。
「……学校で騒ぐ事じぇねぇし」
「前はあったみたいな言い方だね?」
「お前たちが勝手にそう決めてただけだろ」
「でも――」
花宮が一瞬だけ言葉に詰まる。
何か返そうとしたところで、ちょうどチャイムが鳴った。
担任が教室に入ってきて、空気は一度切り替わる。
授業が始まれば、表向きは平穏だった。
けれど、それはあくまで表向きだけだ。
休み時間になるなり、いつもの連中が寄ってくる。
西園寺海斗、真田颯真、その取り巻き。
どいつもこいつも、瑠亜の近くにいるとやけに気が大きくなる類だった。
「よう、久城」
真田がわざとらしく俺の机の端に腰をぶつける。
置いていた教科書が少しずれた。
「最近おとなしいじゃん。家でも怒られた?」
「それとも、やっと自分が迷惑だって分かったか?」
西園寺が薄く笑う。
周囲も、見て見ぬフリをしながら耳だけはしっかりこちらへ向けていた。
今までなら、この空気はもう完成していたんだろう。
乃亜が何か言えば「ほらやっぱり」。
黙っていても「反省してない」。
どう転んでも悪者にできる流れ。
だが、今日は違う。
俺は真田の手を見た。
机に指をかけ、わざと揺らしている。
「それで満足か?」
自分でも驚くほど声は冷静だった。
「は?」
「くだらないことして、自分が強くなった気分になれるなら安いもんだな」
怒鳴りはしない。
立ち上がりもしない。
ただ、事実だけを置く。
真田の顔がぴくりと引きつった。
「何だよ、その言い方」
「お前が先に始めたんだろ」
「てめ……」
手が伸びかけたところで、朝比奈が割って入った。
「真田、やめろ!」
前なら、俺の方もまとめて止めていただろう。
でも今日は違う。朝比奈は真っ先に真田を見た。
「お前から絡んでただろうが」
「別に絡んでねーし」
「俺は見てたぞ」
朝比奈が睨みつけるようにしながら、短い言葉で言った。
でも、その一言だけで教室の空気が微妙に揺れる。
後ろの方で、花宮が小さく呟いた。
「……今の、別に久城くん悪くなくない?」
その一言は小さいのに、妙に耳に残った。
誰もすぐには否定しない。
今までなら、すぐに「でも前から――」と上書きされていたはずなのに。
真田は舌打ちした後、再度俺を睨みつけて、そして離れた。
西園寺も納得いかない顔をしながら、これ以上空気を悪くする前に引くしかなかった。
俺は何も言わず、ずれた教科書を静かに戻す。
その時、教室の入口に立つ瑠亜と目が合う。
周囲にはいつものように人がいる。
女子生徒が話しかけ、男子が笑い、誰もが瑠亜を中心に空気を作っていた。
その真ん中で、瑠亜だけが俺を見ていた。
笑っている――けれど、目は少しも笑っていない。
まるで、観察しているかのように。
俺がどう返すか、どう崩れるか、どう折れるか。
それを待っている目だった。
けれど俺は、もうその期待には応える気はなかった。
▽
昼休み、廊下へ出たところで透花とすれ違った。
三枝透花――幼馴染だという記憶は乃亜の断片にあるが、俺にとってはまだ他人に近い。
彼女が抱えていたプリントの束を落としかけ、俺は反射的に手を伸ばした。
「危な――」
「あっ」
数枚が宙に舞う前に押さえる。
そのまま手渡すと、透花は目を丸くしていた。
「……ありがと」
「別に」
それで終わるはずのやり取りだった。
なのに透花は、なぜか少しだけ戸惑った顔のまま俺を見ていた。
「乃亜く……じゃなくて、久城くん……」
「何だよ」
「……ううん」
言いかけて、やめる。
その代わり、透花はほんの少しだけ寂しそうに笑った。
「今のほうが、ずっといいよ。昔みたいだった」
その意味を聞く前に、透花は足早に去っていった。
残された言葉だけが、妙に耳に残る。
「……昔の、乃亜か」
正直、乃亜の記憶を全部見たわけではないので、昔の乃亜がどのような人物だったのか、俺には分らない。
しかし、もしかしたら、きっと透花に手を伸ばし、助けていたのかもしれないと考えながら、ため息を吐いた。
時間がたつのが早い。
放課後になる頃には、教室の空気は朝より少しだけ変わっていた。
劇的な変化じゃない。
相変わらず俺を遠巻きに見るやつは多いし、好意的な視線なんてほとんどない。
それでも、前と同じように扱えばいいという雑な空気だけは、少し崩れていた。
教室を出て、人気の少ない廊下を歩く。
階段へ差しかかったところで、背後から声がした。
「――兄さん」
俺は足を止める。
振り返るとそこには、瑠亜が立っていた。
誰もいないのを確認してから来たのだろう。
笑顔はいつものままだが、その奥の温度は薄い。
「何だよ」
「ここ数日、本当に変だね」
そのように言いながら瑠亜はゆっくりと近づいてくる。
その目は、困っている弟のものでも、優しい人気者のものでもない。
もっと粘つくような、説明しがたいものを滲ませていた。
「前はそんな顔、しなかったのに」
「……」
「もっと分かりやすかったよね。すぐ怒るし、すぐ傷つくし、すぐ黙るし」
そこで瑠亜は小さく首を傾げる。
「最近の兄さん、前より面白いよ」
面白い――そう来るか、と胸の奥が冷たくなる。
「でもさ」
瑠亜の声が少しだけ低くなる。
「――僕の知らない兄さんになるのは嫌だな。だって僕たち双子でしょう?」
その言葉に、背筋がひやりと冷えた。
こいつはまだ気づいていない。
俺が乃亜ではないことにも、魂が別だということにも。
けれど、それでも本能的には察している。
自分の知っている【兄】が、少しずつ壊れて、別のものになりかけていることを。
俺は短く返した。
「……勝手にしろ。俺はお前に合わせる気はない」
瑠亜の笑みが、一瞬だけ固まる。
でも、それもすぐに元へ戻った。
「そっか」
甘い声で、そして笑った。
けれどその奥で、何かがじわじわ濁っていくのが分かる。
「じゃあ、もう少し見てようかな」
その言葉を最後に、瑠亜は一歩引いた。
俺はそれ以上何も言わず、階段を下りる。
背中に刺さる視線は、最後まで消えなかった。
なんで――兄さんは、もっと分かりやすかったのに。
そんな声が、聞こえた気がした。
だが振り返るつもりはない。
今さら、あの弟の理解を得る必要はない。
必要なのは、乃亜の魂を取り戻すことだけだ。
既に、俺は家族たちとは縁を切っているつもりだ――これ以上かき回されたくない。
(それに、このままあそこにいれば、乃亜が壊れちまう)
俺は再度、聞こえないように舌打ちをした後、今後の事を考えなければならないと思った。
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