第118話 兄さんのクセに【久城瑠亜視点】
家の中は、いつも通り静かだった。
今日の夕飯の匂いがする。
そのままリビングから聞こえるテレビの音が聞こえる。
ふと、母さんが誰かと電話をしている声が聞こえた。
何も変わっていないはずなのに、僕だけが少しずつ置いていかれている気がした。
僕は自分の部屋に戻る途中で、廊下に立ち止まった。
リビングの扉が少しだけ開いており、そこから母さんの声が聞こえた。
「……はい。学校から連絡は受けています。廊下の窓ガラスにヒビが入ったと」
窓ガラス——僕は静かに息を止めた。
今日、放課後に何かあったらしい事は聞いていた。
真田先輩が兄さんに話しかけた事、そして兄さんがまた冷たく言い返した事。
それから、なぜか窓にヒビが入った事に対しては詳しい事はわからない。
けれど、みんな言っていた。
――久城乃亜が怖い、と。
実習の件も、やっぱり兄さんが原因だったんじゃないかと言う噂もあった。
電話の中で母さんの声が少し低くなる。
「ええ。乃亜が関わっているなら、こちらでも確認します。ただ……今、乃亜は私どもの家には戻っていませんので」
その言葉に、胸が痛んだ。
兄さんは、僕たちの家には既に暮らしていない。
兄さんは、叔父さんの所にいる。
母さんはそれを、仕方がないことみたいに話している。
「智明……私の弟に連絡しました。あの子が今、乃亜を見ていますから……はい。学校側にも、こちらから改めて確認します」
――どうしてなんだろう?
いつの間にか、兄さんはこの家にいなくて、叔父の所に暮らして、周りに助けられてて。
不思議と、最近色々と考えるようになった。
兄さんは僕の兄さんなのに。
久城家の人間なのに。
どうして、叔父さんのところにいるのが当たり前みたいになっているのだろう?
「……いいえ。瑠亜には詳しく話していません。あの子も心配していますから」
母さんの声が、少し柔らかくなった。
きっと、僕の事を言っているのだろう。
「はい。瑠亜は大丈夫です。ただ、乃亜の変化に戸惑っているようで……」
変化――その言葉に、僕は手を握った。
そうだ、兄さんは変わった。
前の兄さんは、あんな風に人を睨まなかったし、冷たい言葉なんて言わなかった。
いつも怯えて、いつもそばに居て、最後には「ごめんなさい、僕が悪いです」と謝ってくれる人だ。
それが、僕の知っている兄さんだった。
なのに、今の兄さんの周りには、人がいるんだ。
僕じゃない、他の人達が。
兄さんは、僕の知らないところで守られている。
僕が心配しても、兄さんは僕を見ない。
僕が傷ついた顔をしても、兄さんは戻ってこない。
――兄さんのくせに。
――僕の兄さんのくせに。
リビングの中で、母さんがため息を吐いた。
「……ええ。私は、乃亜にも一度きちんと話を聞きたいと思っています。ただ、智明が少し過敏になっていて」
過敏――叔父さんが?
いや、違う。
おかしいのは兄さんだ。叔父さんじゃない。
みんな、どうして分からないのだろう。
兄さんが変わったから、こうなっている。
兄さんが僕を見なくなったから、全部おかしくなった。
なのに、周りは兄さんを守ろうとする。
透花ちゃんまで、兄さんの隣に立った。
――もう見て見ぬフリはしない。
あの言葉が、耳の奥に残っている。
どうして、透花ちゃんがそんなことを言うのだろう――まるで、僕が何か悪いことをしていたみたいに。
違う、僕は何もしていない。
僕は兄さんを心配しているだけだし、前みたいに戻ってほしいだけなんだ。
弱くて、優しくて、僕を見てくれる兄さんに。
僕は静かに自分の部屋へ戻った。
扉を閉めると、リビングの声は遠くなっていくのがわかった。
机の上に鞄を置き、ベッドへ腰を下ろす。
スマホを開くと、通知がいくつも並んでいた。
『瑠亜くん、大丈夫?』
『今日の放課後の件聞いたよ』
『真田先輩、瑠亜くんのために怒ったんだよね?』
『お兄さん、ちょっと怖くない?』
『瑠亜くんは悪くないよ』
悪くない――その言葉を見て、少しだけ息が楽になる。
そうだ、僕は悪くない。
僕は何もしていない。
何もしていないのだから、別に大丈夫なのだ。
僕は止めた、大ごとにしないでと頼んだ。
――だから、僕は悪くない。
なのに、胸の奥がざわつく。
兄さんの周りに人がいて、僕の知らない人たちが、兄さんを守ろうとしている。
兄さんは、もう僕の後ろにいない。
僕はスマホを握りしめた。
「……兄さんのくせに」
声に出すと、思ったより暗い響きだった。
おかしい、そんなの僕の兄さんじゃない。
視線を向けた先にある鏡に映る自分の顔は、少し歪んでいた。
泣きそうな顔ではなければ、怒っている顔でもない――まるで、空っぽみたいな顔。
ため息を吐きながら、スマホの画面を見たその時だった。
暗くなったスマホの画面に、僕ではないものが映った気がした。
――金色の瞳。
『歪んでいるな、お前の心……僕と同じだ』
「……え」
獣のように細く、なのに人間みたいに笑っている瞳と突然響き渡るような声。
僕は息を呑んだ。
画面を瞬きせずに見つめ――けれど、次の瞬間には何もなかった。
映っているのは、僕の顔だけ。
少し青ざめた、いつもの僕の姿。
「……今の、何」
声が震えたが、部屋は静かだった。
窓の外では、夜の街灯がぼんやり光っている。
家の中からは、母さんが夕食の準備をする音が聞こえる。
普通の夜で、いつもの家だ。
なのに、胸の奥に知らない熱が残っていた。
――怖い。
そう思ったはずなのに、どこかでもう一度見たいとも思ってしまった。
あの金色の瞳は、僕を見ていた。
僕はスマホを伏せる。
「……僕は、何もしてない」
そう呟いた。
でも、その言葉は部屋の中で小さく沈んでいくだけだった。
兄さんが離れていくから。
僕だけが、知らないところに置いていかれている。
そんなのは嫌だ。
嫌だ。
嫌だ。
兄さんは、僕の兄さんなのに。
暗いスマホの画面には、もう金色の瞳は映っていなくて、それでも僕はしばらく画面から目を離せなかった。
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