第119話 気晴らし①
夜――智明が風呂に入ったタイミングを見計らって、俺は静かに玄関へ向かった。
上着を羽織り、音を立てないように靴を履く。
今回、窓ガラスにヒビを入れてしまった事に対して、色々と考えさせられた。
あの時は本当に制御できなかった――全部が、胸の奥に残っていた。
何気に自分自身の気持ちがはっきりしない。
ただ、このまま眠れば余計な夢を見そうだった。
「……主」
背後から低い声がした。
振り返ると、銀髪金眼の青年――ルクスが立っていた。
「悪い、ルクス」
「全くだ……主が夜にこっそり外へ出ようとして、私が気づかないとでも思いますか?」
「思ってはいないし、お前なら面倒だがついてきてくれると信じていたからな」
「……はぁ」
ルクスの目が細くなり、ため息を吐いた。
「智明に見つかれば、もっと面倒になりますよ?」
「だから見つからないように行くさ……ばれないばれない」
「そういう問題ではありません」
「気晴らしだから、ちょっとだけ動くだけだ……良いだろう?」
「主の気晴らしは、どうして毎回危険を伴うのですか?」
「安全な気晴らしを知らないだろう……”あの時”はそんな事すら考えられなかった」
ルクスが深くため息を吐くと同時に、嘗てあの頃を思い出していたのかもしれない。
頭を抱えるようにしながら、ルクスと一緒に外に出ようとしたその時、廊下の影から甘い香りが漂った。
黒紫の花弁が一枚、床へ落ちる。
「ふふ……相変わらずだね、ノア」
影の中から現れたのは、中性的な美貌を持つ男だった。
艶やかな髪に細く笑った目元、そして、人ならざる毒を含んだ空気――シオンが楽しそうに笑いながら立っていた。
「……シオン、いつの間に?」
「まぁ、強制召喚を使っただけ」
「あはは……」
俺が名を呼ぶと、シオンは嬉しそうに目を細めた。
同時にルクスが嫌そうな顔をしている。
シオンは柔らかく笑い、その笑みは優しいようで、傷口の形を確かめているようでもあった。
ルクスが一歩前に出る。
「主に近づきすぎるな、毒花」
「嫌だな、狼。僕はただ主のそばに咲いているだけだよ」
「その花粉が不快だ」
「君の獣臭さよりはましだと思うけど」
次の瞬間、空気が一瞬で刺々しくなる。
ルクスは静かに怒り、シオンは笑いながら煽る――相変わらず相性が悪いなと思いながら二人に声をかけた。
「……やめろ」
俺が言うと、二人は同時にこちらを見た。
「主がそう仰るなら」
「ノアがそう言うなら、やめるよ」
二人の返事だけは素直だった。
だが、視線はまだぶつかっている。
「ついていくなら行くぞ……場所は中級者向けのダンジョンだ。夜間開放区域を使う」
「ふうん。家の人間に黙って?」
「見つからなければ問題ない」
「悪い子だね、ノアは」
「……お前に言われたくない」
「そうだね、僕は悪い花だからね」
シオンは楽しそうに笑った。
玄関を出ると、夜風が頬を撫でた。
冷たい空気を吸い込むと、胸の奥の熱が少しだけ薄まるのだが、消えない。
「……人間の街は騒がしいね」
歩きながら、シオンがぽつりと言った。
「夜なのに、まだこんなに匂いがするんだから」
「……嫌なら戻れ」
ルクスが冷たく返す。
いつの間にかシオンに対して冷たく、睨みついている。
対し、笑いながらシオンは答えた。
「嫌だよ。今日はノアが行くなら僕も行く」
「なら黙っていろ」
「人間は嫌いだけど、ノアの選んだ場所なら我慢するよ」
そのように言いながら、シオンは俺を見て笑う——その言葉には、妙な重さがあるように感じてしまった。
シオンは昔から、人間が嫌いだ。それは今でも変わらないだろう。
だが、俺が選んだものなら、シオンは渋々でも受け入れる。
受け入れながら、気に入らなければ平然と毒を撒く――そういう奴なのだ。
「我慢だけにしておけ」
「もちろん。ノアが止めるならね」
「……止めなければ?」
「その時は、僕が好きにする」
「頼むからやめてくれ……」
「なんだ、残念」
夜間開放されている民間管理のダンジョン施設に入り、端末で認証を済ませる。
『入場処理完了。案内を開始します』
耳元の通信魔道具から、無機質な声が流れた。
「リゼット」
『はい、マスター。現在地より第三ゲートへ。推奨ルートは中級下層手前まで。体調を考慮し、戦闘負荷は召喚獣に委任してください』
「分かっている」
『マスターの“分かっている”は信用値が低いです』
「……リゼット」
『事実です』
シオンがくすりと楽しそうに笑う。
「よく分かっている子だよねーリゼットは」
「シオン……お前も余計なことを言うな」
「余計じゃないよ。僕もそう思っただけ」
そのように言ってくるシオンを無視しながら、ダンジョンの中に入る。
第三ゲートを抜けると、景色が変わった。
そこは、青鉱の迷宮だった。
薄暗い石造りの通路や、壁に走る青白い鉱石の光がある。
そして湿った空気を肌で感じる事が出来た。
――ここには俺の知る人物たちはいない。
小声も、噂も、正義の顔をした刃もない。
いるのは、倒すべき敵だけだ――それが、少し楽だった。
『前方、魔力反応三。狼型魔物です』
灰色の狼型魔物が、通路の影から現れる。
俺が命じる前に、ルクスが前へ出た。
「主は下がってください」
「おい、雑魚だぞ」
「雑魚でも、主が戦う必要はありません」
「それじゃあ気晴らしに——」
次の瞬間、ルクスの姿がぶれた。
気晴らしにならないだろうと言う前に、ルクスが倒しに行ってしまった。
銀の爪閃が走り、狼型魔物の首がほとんど同時に宙を舞うと同時に黒い粒子となって消えるまで、ほんの数秒だった。
「力任せだね」
「効率的と言え」
「雑に刈っただけでしょ」
「……毒で腐らせるより清潔だ」
「……花に失礼な狼だな」
「お前を花扱いする方が花に失礼だ」
ああ、また始まった。
俺は黙って二人の背を見る。
ルクスは俺を守るために前へ立ち、シオンは俺の近くで毒を張り巡らせる。
どちらも頼もしい、そして、どちらも危うい。
俺のためなら、こいつらは迷わないだろう。
人間を傷つけることにも、敵を壊すことにも、自分が悪者になることにも——迷わない忠誠は強い。
だが、時に俺自身より先に俺を守ろうとする。
『マスター、前方、天井より蟲型魔物五』
リゼットの声と同時に、青白い羽を持つ蟲型魔物が降ってきた。
今度はシオンが指を鳴らす。
「フフ、汚い虫だね」
そのように言った瞬間、床の隙間から黒紫の蔓が伸びる。
小さな花が咲き、甘い匂いが通路に満ちた。
蟲型魔物たちは羽ばたきを止め、糸が切れたように落ち、地面に触れる前に内側から崩れて黒い粒子になった。
「やりすぎだ」
「しょうがないだろう、僕は虫は嫌いなんだ」
「毒を残すな。主に触れたらどうする」
「ノアに触れる毒を、僕が撒くと思う?」
「信用していない」
「僕も君を信用してないよ」
二人の声がまた冷える。
俺は壁にもたれ、息を吐き、同時に少し落ち着いた自分がいるなと感じていた。
二人を見ていると、真田の件の事がバカらしくなってきた、そんな気がした。
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