第113話 見て見ぬフリはしない
西園寺海斗が席へ戻ったあとも、教室の空気は濁ったままだった。
誰も大きな声では言わないが、視線と小声だけで十分にわかった。
同時に、聞こえてくるのは間違いなく、この声だ。
――久城乃亜が必ず、悪い。
――西園寺は瑠亜を庇っただけだ。
――あの態度は冷たすぎるんだよねぇ。
そんな声が、教室の隅々に薄く広がっていくのがわかった。
俺は窓の外を見たまま、残りのパンを口に運びながら、面倒と考えてしまった。
まぁ、俺自身はどうでも良い事なので気にしていなかった――のだが、予想をしていなかった行動をする人物もいる。
「……なあ、西園寺」
低い声がしたので視線を向けると、その声は理央だった。
止めていたはずなのに、どうやら限界が来たのかそれはわからない。
食べていたパンの動きを止めた。
理央の握っている拳が握りしめられているのが分かると同時、止めた方がいいだろうかと言う顔をしたが、理央の目を見て辞めた。
あれは、多分――いや間違いなくただ怒っている目ではなかったから。
「何だよ……榊原」
西園寺が振り返る。
さっきまで俺に向けていた怒りが、今度は理央へ向いた。
「……今の、違うだろ」
「何が?」
「お前、乃亜に謝れって言ったよな」
「言ったぞ、間違ってないだろう?瑠亜が傷ついてたんだから」
「それが違うって言ってるんだよ」
理央の言葉に対し、次の瞬間教室が静かになった。
一方、言葉を口にした理央は一度、息を吸った。
「瑠亜が傷ついて見えたから、乃亜が悪い……そう決めつけるのは違うんじゃないか?」
「決めつけじゃない。実際、あいつの言い方はひどかっただろう?」
「言い方の話なら分かる。でも、お前はそれ以上のことを言ってたじゃないか。昔からそうだとか、瑠亜に気を遣わせてるとか……」
理央の声が少し震える。
それは、怒りではなく別のものなのかもしれない。
「――お前、本当に見てたのか?」
西園寺の眉が動く。
「……何を?」
「乃亜のことだ」
理央は話を続ける。
「乃亜が何も言わなかった時、どういう顔をしてたか。瑠亜のために黙ってたのか、本当に何も思ってなかったのか。俺たち、ちゃんと見てたのかよ」
教室の空気が変わった。
そして、理央の言葉を聞いて、西園寺はすぐに言い返せなかった。
理央は苦しそうに唇を噛む。
「俺は……見てなかった」
その声は、教室の中でやけにはっきり響いた。
「昔から一緒にいたのに、乃亜がどんな顔してたかなんてちゃんと見てなかった。瑠亜が泣きそうな顔をしたら俺はいつもそっちばっかり見てた」
理央の言葉に対し、透花が息を呑み、花宮も黙っていた。
静かに息を吐きながら、再度答える。
「乃亜が悪いんだと思った方が楽だったんだよ、きっと……」
その話を聞いても、俺は何も言わなかった。
対し、理央は続ける。
「瑠亜は分かりやすく傷ついて見えるが、乃亜は何も言わない。だったら、乃亜が謝れば収まる……そう思っていたんだ」
その言葉は、西園寺に向けられていた。
だが、同時に理央自身へ向けられているようにも聞こえた。
「でも、それで乃亜が何を飲み込んでたか、俺は考えなかった……考えなかったんだよ」
理央はそのように言いながら拳を握りしめる。
そのまま教室の誰かが、小さく椅子を鳴らした。
西園寺は顔をしかめる。
「……それは、お前の話だろ」
「ああ。俺の話だよ」
理央は逃げなかった。
睨みつけるように西園寺に向けて。
「だから言っているんだ……俺は間違えた。見て見ぬふりをした。瑠亜の方が分かりやすかったから、乃亜を見なかった」
「だからって、今の久城乃亜が瑠亜に冷たくしていい理由にはならない」
「それも分かる」
理央は答える。
「でも、だからってお前が全部知った顔で責めていい理由にもならない」
理央の言葉を聞いて、西園寺が言葉を詰まらせる。
そのまま、理央は一歩前へ出た。
「謝れって言うなら、何に対して謝るのか言えよ。乃亜が何をしたのか、ちゃんと言えよっ!」
「る……瑠亜を傷つけた!」
「……どうやって?」
「だから、朝の態度だろ!」
「……本当に、それだけか?」
さっき俺が言ったのと同じ問いだった。
そのまま、西園寺は顔を歪める。
「お……お前まで、何なんだよ!」
「俺は、今度は……見ないフリをしたくないだけだ!!」
理央の声が、叫ぶように答える。
本当は殴りたくてしょうがないのかもしれない――理央の拳が震えているのが分かった。
「俺は一回、間違えた……乃亜を助けられなかった!だから今度は、空気だけで誰かを悪者にするのを見過ごしたくないだけだ!」
理央のその言葉に、教室のざわめきが消えた。
再度、理央は俺の方を見なかった――それが、逆によかった。
俺のために言っているというより、自分の中にある後悔を吐き出しているように見えたから。
理央は話を続ける。
「西園寺……お前が瑠亜を心配するのは勝手だ……でも、それで乃亜を殴るな。言葉でも、空気でも」
「俺は殴ってなんか――」
「殴ってるんだよ、西園寺」
「は?」
「瑠亜が可哀想だって言葉で乃亜を責める空気を作ってる。それがどれだけきついか、俺は今さら分かった」
西園寺はそのまま黙った。
怒っているが、納得はしていない。
だけど、すぐに言い返す言葉はない。
その時、教室の端で誰かが小さく言った。
「……でも、理央くんだって前は瑠亜くん側だったじゃん」
その子言葉を聞いて、理央の肩がわずかに揺れた。
どうやら、痛いところを突かれたのだろう。
それでも、理央は逃げなかった。
「わかっているから、言ってるんだ」
理央は、はっきり答えた。
「俺は間違えた……だからこそ、同じことをしたくない」
その言葉に、俺は少しだけ目を細めた。
処刑されてから、俺は人間は嫌いだ。
間違え、流される。
俺の周りにいた人間たちもそうだった――俺は別に何も悪い事をしていないのに。
そして、乃亜も悪い事をしていない。
していないからこそ、タチが悪いのだ。
西園寺は再度、理央に視線を向けながら、舌打ちをした。
「……勝手にしろよ」
西園寺は吐き捨てるように言った。
「でも俺は、瑠亜が傷つくのを黙って見てる気はないからな!」
「俺もだ……乃亜が一方的に責められるのを黙って見てる気はない」
二人の視線がぶつかると同時に、教室の空気が張り詰めた。
そこで、花宮がわざとらしくため息をついた。
「はいはい、そこまでだよ二人共ー昼休み終わるし、先生来るし、これ以上やると全員まとめて面倒なことになるよ」
笑いながらそのように答える。
だが、目はまったく笑っていなかった。
透花も小さく立ち上がる。
「私も……見ていただけだよ……でも、もう見ないふりはしないから」
震える唇で、そのように答えう彼女は、西園寺を見る。
透花は怯えたように一瞬肩を揺らしたが、それでも視線を逸らさなかった。
理央だけではなく、透花も、花宮も――少しずつ、乃亜の周りの空気が変わろうとしている。
それを瑠亜がどう見るかは、考えるまでもない。
――チャイムが鳴る。
西園寺は何か言いたげに口を開き、結局何も言わずに席へ戻った。
理央もゆっくり座る。
それを見て、俺は小さく息を吐いたと同時に、声をかける。。
「理央」
「……何だよ」
「余計なことをしたな」
「……悪い」
「――だが」
俺は窓の外を見たまま言う。
「……悪くはなかった」
理央が驚いたようにこちらを見る。
俺はそれ以上何も言わなかった。
謝罪も、感謝も、今は必要なく、ただ、ひとつだけ分かったことがある。
久城乃亜が立っていた場所は、少しだけ変わり始めている――それが救いになるか、別の火種になるかは分からない。
だが少なくとも、もう全員が見て見ぬフリなど、出来ない。
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