第110話 優しい弟の顔【久城瑠亜視点】
兄さんが学校へ戻ってきた。
実習ダンジョンで倒れて、しばらく休んでいた兄さんが無事に登校できた。
なら、僕は安心するべきなのだと思う。
実際、学校で兄さんの姿を見た時、胸の奥が少しだけ緩んだ。
――また、同じ教室にいる。
その事実に、ほっとしたのは本当だ。
でも、それと同じくらい、別の感情もあった。
兄さんが、いつも以上に僕を見なかった。
僕が声をかけても、心配しても、以前のようには反応しない。
ただ冷たい目でこちらを見て、短く返事をしただけだった。
――俺は俺で動く。お前はお前の心配だけしていた方がいいぞ。興味ないからな、”俺”は。
あの言葉が、ずっと耳に残っていた。
兄さんなのに、僕の兄さんなのに――どうしてあんな顔をするのだろう。
昼休み、教室はいつもより少し騒がしかった。
僕はもう一度、兄さんに視線を向ける。
兄さんは窓の外を見ながら、パンを食べており、こちらを見る気配はない。
「……瑠亜、大丈夫か?」
海斗くんが、僕の席の前に立っていた。
海斗くんは、いつも真っ直ぐな性格をしている――正しいと思ったことを疑わない。
誰かのために怒れる人だと思う。
だから、僕のことも本気で心配してくれているのだと思う。
「うん……大丈夫だよ」
僕は笑った。心配をかけないように。
でも、無理をしていることだけは、少し伝わるように。
「本当に?」
「うん。兄さんも学校に来られたし、よかったなって思ってる」
「……瑠亜は優しいな。俺なら、あんな態度取られたら普通に腹立つけど」
「兄さんも、まだ体調が戻ってないんだと思う。だから少し余裕がないだけだよ」
兄さんを庇う言葉。
でも、兄さんの態度が悪かったことは否定していない言葉。
自分でそう分かっていても、口は自然に動いた。
「余裕がないからって、瑠亜にあの言い方はないだろ?」
海斗くんの声が少し低くなる。
それを聞いて声をかけてきた人物がいた。
「うんうん、私もそう思う」
近くにいた玲奈さんが、椅子を引いてこちらを見た。
「瑠亜くん、朝からずっと気にしてたよねー」
「え……そんなこと――」
「分かるよ、瑠亜くん……無理して笑ってる時あるから」
玲奈さんは心配そうな顔をしていた。
その顔を見ると、胸の奥が少しだけ温かくなる。
僕を見てくれている、僕が我慢していると、気づいてくれている。
それは、嫌な気分ではなかった。
「兄さんは……悪い人じゃないよ。ただ、最近少し変わっただけで」
「変わったっていうか、別人みたいじゃない?」
玲奈さんの言葉に、心臓が少し跳ねた。
――別人。
僕も、そう思っていた。
今の兄さんは、僕の知っている兄さんじゃない。
弱くて、泣き虫で、いつも絶望した顔で僕を見ていた兄さんではない。
「……そんなことないよ」
だから、僕は否定した。
「兄さんは……兄さんだから」
けれど、声は少しだけ弱くなった。
「瑠亜、お前さ。そうやってまた我慢してないか?」
「してないよ」
「大丈夫な奴は、そんな顔しないからな」
そんな顔――僕は今、どんな顔をしているのだろう。
困った顔や傷ついた顔。
それでも兄を庇う、優しい弟の顔をしているのだろうか?
周りがそう見てくれているなら、きっとそれでいいんだろうと思う。
「でも、兄さんのこと悪く言わないで」
僕は言う――言わなければいけないと思った。
だって、僕は兄さんを悪者にしたいわけじゃない。
ただ、前みたいに戻ってほしいだけだ。
僕を見て、僕に気を遣って、僕を置いていかない――ただ僕だけの兄さんに。
「瑠亜くんは本当に優しいね」
「そう?」
「うん……でも、優しすぎるよ。あんな態度取られても庇うなんて」
「別に、そういうんじゃないよ」
「そういうことだよ。瑠亜くんが言えないなら、周りがちゃんと言わなきゃ駄目だと思う」
「それは……駄目だよっ」
僕は慌てたように言った。
「大ごとにしないで。兄さんにも事情があると思うし……お願い」
そう言うと、玲奈さんは黙った。
海斗くんも、少しだけ言葉を飲み込む。
僕はちゃんと止めた。
兄さんを責めないでと言った。
大ごとにしないでとお願いした。
だから、もし二人が何かをしたとしても、それは僕が望んだからではない。
――僕は何もしていないのだから。
そう思うと、ほんの少しだけ胸が軽くなった。
「でもさ、瑠亜。本当に何かあったら言えよ」
「うん。ありがとう!」
「お前、言わないだろ。何でも自分で飲み込むし」
「別にそんなことないよ」
「あるって」
「何回も言うけど、兄さんは悪くないよ。今は体調も良くないし、きっと余裕がないだけだから」
「けどなぁ……」
海斗くんの声が低くなる。
明らかにイライラしたような顔をしながら僕を見ている。
「……だって、瑠亜はただ心配してただけなのに」
「うん……でも」
「でもじゃない。瑠亜がそうやって庇うから、みんな分かんないんだよ。久城乃亜がどれだけお前に気を遣わせてるか――」
「違うよ。兄さんは僕に気を遣わせようとしてるわけじゃないよ」
「じゃあ、何でお前がそんな顔してるんだよ」
返事が詰まった。
「本当に、大ごとにしないでね。兄さんと喧嘩したいわけじゃないから」
「……瑠亜はそう言うと思った」
海斗くんは悔しそうに息を吐く。
「でも、俺は黙って見てる気はないから」
「私も。瑠亜くんが言えないなら、周りが気づいてあげなきゃ駄目だと思う」
「そんなこと……」
「あるよ。瑠亜くんは優しすぎるから」
また、その言葉だ――優しい。
その言葉を向けられると、胸の奥が少しだけ温かくなる。
同時に、どこかが冷える。
本当にそうなのかと、誰かが奥で聞いてくるかのように、僕はその声を聞こえないふりをした。
チャイムが鳴った。
二人が席へ戻り、午後の授業が始まる。
僕はノートを開いたんだけど、文字はほとんど頭に入ってこなかった。
視線だけが、兄さんの席へ向かう。
兄さんの周りには、いつの間にか人が居た。
理央が時々何かを言い、花宮さんが小さくメモを取り、透花ちゃんが心配そうに兄さんを見る。
(……前は、そんなことなかったのに)
なんか、嫌だ。
胸の奥に、黒いものが沈んでいく。
兄さんは僕を置いていく――僕の知らない人たちと一緒に、僕の知らない顔で前へ進んでいく。
――そんなのは嫌だ。
兄さんは、僕の兄さんなのに。
そんな事を考えながら僕は机の下で、ぎゅっと手を握った。
僕は何もしていない。
海斗くんが心配してくれた。
玲奈さんが怒ってくれた。
二人が僕を見てくれた。
それは全部、みんなが自分で決めたこと。
僕は止めた、ちゃんと止めたよ。
なのに、胸の奥で小さな声がする。
――本当に?
僕はその声を聞こえないフリをする。
いつもと変わらない日常の中で、僕は優しい弟の顔をしたまま兄さんの背中を見つめ続けていた。
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