第109話 めんどくさい学校生活が始まる
一カ月ぶりに見る学校は、ひどく普通だった。
普通なら、何も変わっていないように見える。
けれど、俺には分かった――空気が変わっている。
視線や声が明らかに違う。
こちらに気づいた瞬間、ほんの少しだけ小さくなる会話――すぐに俺は瑠亜が何かしたんだろうなと思った。
それとも、余計なモノを言ったのだろうかと考えつつ、思わず欠伸をしてしまった。
既に、興味がないのだ。
面倒だな、と俺は内心でそう呟きながら昇降口で靴を履き替えた。
「乃亜、おはよう」
「……ああ」
理央が挨拶をしてきたので、挨拶を返す。
それと同時に不機嫌そうな顔になった。
「……お前、大丈夫か?」
「何が」
「いや……空気」
「気づく程度には、お前も少しはまともになったな」
「……お前なぁ」
理央は一瞬だけ眉を寄せたが、すぐに教室の方へ視線を向ける――その表情は硬い。
透花も、少し後ろで鞄の紐を握りしめていた。
視線を伏せがちにしながらも、周りの目から逃げてはいない。
花宮はいつも通り軽い顔をしているが、指先はスマホの側面を何度か叩いていた。
緊張している時の癖なのかもしれない。
「まあ、予想通りっちゃ予想通りだね……実習であんな事があってー四人まとめて休んでーしかも詳しい説明なし……そりゃ噂にもなるよ」
「噂で済めばいいがな」
「うん。済まない可能性高めなんだけど、どうする久城君?」
「……嬉しそうに言うな」
「私はね、笑ってないとやってられないだけなのよ」
花宮はそう言って、少しだけ肩をすくめる。
俺はそのまま廊下を歩く。
すれ違う生徒たちの視線が、俺たちへ向くような感じがする。
あの実習ダンジョンで何があったのか、学校側は詳しく説明していないらしい。
当然だ――説明できるはずがない。
説明できる大人がいるなら、逆に見てみたい。
――だから、空白が生まれるんだ。
空白があれば、人間は勝手に物語を作る。
都合よく、面白く、誰かを悪者にしやすい形で。
そしてこの学校には、その悪者にされやすい人間がいる。
――久城乃亜、この身体の本来の持ち主だ。
多分、想像はつくだろう。
そんな事を考えながら、俺は教室についた。
扉の前で、透花が小さく息を吸う。
「……行こう」
自分に言い聞かせるような声だった。
「ああ」
俺は扉に手をかけ、開けた瞬間教室のざわめきが一拍だけ止まった。
全員がこちらを見たわけではない。
だが、見ていないふりをしている者も含めれば、ほとんどの意識がこちらへ向いた。
席へ向かうまでの数秒が、やけに長く感じるが、俺は気にせず歩いた。
理央が隣を歩き、透花は少しだけ俺の後ろ花宮は最後尾で、教室の空気を観察するように目を動かしていた。
そのまま俺は自分の席に鞄を置き、静かに欠伸をした。
その時、前方から声がした。
「――兄さん」
久々に聞いた、久城瑠亜の声だった。
いつものような、柔らかい声。
少し心配そうで、少し遠慮がちで、周りに聞こえるくらいの大きさ。
俺はゆっくり顔を上げる。
瑠亜は席から立ち上がり、こちらを見ていた。
表情は不安そうに整えられて、目元には薄く疲労の色もある。
周囲の生徒たちが、すぐに反応した。
瑠亜が乃亜を心配している構図――そう見える場面だ。
「体調、大丈夫なの?ずっと休んでたから心配してたんだ」
「そうか」
俺はそのまま、短く返す。
それ以上でも以下でもない。
教室の空気が、わずかに固まった。
瑠亜の表情が一瞬だけ揺れ、だがすぐに困ったような笑みに戻った。
「うん。よかった。兄さんが無事なら、それで」
「……」
「でも、無理しないでね。兄さん、いつも一人で抱え込むところがあるから」
その言葉で、周囲の視線が少し変わった。
乃亜は一人で何かを抱え込み、周囲に心配をかけ、瑠亜に気を遣わせている。
そういう形に、自然と誘導されるかのように感じた。
「――瑠亜」
俺が口を開こうとすると、近くにいた理央が口を開いた。
声が少し低い。
「今はその話、やめてくれないか?」
理央の言葉に、教室の空気がさらに固まった。
瑠亜が理央を見る。
「理央……僕、ただ兄さんが心配で」
「分かってる。でも今ここで言うことじゃない」
「……そう、かな」
「ああ、そうだ」
理央ははっきりと言った。
以前の理央なら、ここまで強く言えなかったのだろう。
少なくとも、瑠亜に向かってこんな声を出すことはなかったはずだ。
瑠亜もそれに気づいたらしい、目の奥がほんの少しだけ冷えた。
だが、それもすぐ消える。
「……ごめんね。僕、余計なこと言ったかも」
瑠亜は小さく笑った。
その謝罪は、理央へのものに聞こえる。
けれど同時に、教室全体へ向けたものでもあった。
――僕は悪気がなかった。心配していただけで……それなのに、止められた。
そういう形だ。
近くの席で、西園寺海斗が眉を寄せたのが見えた。
白石玲奈は不安そうに瑠亜を見ている。
二人共、目が鋭い。
――始まっているな。
いや、もうずっと前から始まっていたのだろう。
俺が知らなかっただけで。
「……別に、心配する必要はない」
俺は再度、欠伸をしながら答える。
そのまま、瑠亜がこちらを見る。
「兄さん……」
「俺は俺で動く。お前はお前の心配だけしていた方が良いぞ……興味ないからな、”俺は”だが」
その瞬間、瑠亜の唇がかすかに止まった。
周囲から、小さなざわめきが起きる。
「……今の、冷たくない?」
「瑠亜くん、ただ心配してただけだよね?」
「なのに、あの言い方はないでしょ」
「……やっぱり噂、本当なのかな」
小さな声だったが、誰も正面から俺に言っているわけではない。
俺にも聞こえるぐらい。
瑠亜は困ったように俯く。
その仕草ひとつで、周囲の視線がさらに俺へ集まっていく。
言葉を出すのは瑠亜ではない、周りが勝手に言ってくれる。
そのまま、透花が一歩前に出かけたが、俺は視線だけで止める。
今ここで何か言えば、透花も巻き込まれる。
そして瑠亜の周りの連中は、それを材料にする。
花宮も黙っているが、スマホには触れず、教室全体を観察している。
理央は拳を握っていたが、踏みとどまっている。
ああ、とりあえずはそれでいい。
感情で動けば、こちらが悪者になる。
こういう場所では、剣よりも視線と噂の方が面倒だ。
ふと、教室の扉が開き、担任が入ってきた。
「席につけー。ホームルーム始めるぞ」
ざわめきが少しずつ収まり、瑠亜は最後にもう一度だけ俺を見た。
心配そうな顔――だが、その奥にあるものを、俺は見逃さなかった。
苛立ちと、不安。
そして、こちらが以前の乃亜のように反応しなかったことへの、薄い怒り。
やはり、相変わらず瑠亜は変わっていない。
いや、もしかしたら変わったのは、周りの方かもしれない。
ホームルームが始まる。
担任は実習ダンジョンの件について、簡単にだけ触れた。
「先日の実習については、現在学校と協会で確認中だ。余計な憶測を広げないように。体調を崩していた生徒も戻ってきている。各自、落ち着いて行動すること」
余計な憶測を広げるな、と言う便利な言葉だ。
だが、そう言われて止まる噂なら、最初からここまで空気は濁らない。
俺は興味なさそうに、窓の外へ視線を向けた。
空は晴れている。
この前智明の実家に起きたダンジョンの赤い夜など、最初からなかったような青空だった。
それでも、俺の中にはまだあの夜の気配が残っている。
最後に、夢の中で告げられた忠告。
――猛獣の片割れが、瑠亜を壊す。
俺は瑠亜の背中を見る。
教室の中で、瑠亜は周囲に気遣われながら座っている。
誰かが小声で話しかけ、瑠亜は困ったように笑っていた。
弱く見せるのが上手い、可哀想に見せるのが上手い。
――だが、あの穴は危うい。
「……片割れ、か」
ふと、俺は一人の男を思い出す。
ヴィーシャと同じ、猛獣の男を――特にシオンが嫌っていた男だ。
そのまま、チャイムが鳴る。
ホームルームが終わると同時に、教室の中にまたざわめきが戻ったのだった。
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