第106話 終わりと、予言
崩れ落ちるダンジョンを、俺たちは走った。
背後で天井が砕け、壁に嵌め込まれていた血色のステンドグラスが割れていき、赤と白の光が破片になって降り注ぐ。
床に刻まれていた月と薔薇の紋様は、ひび割れた端から砂のように崩れていった。
もう血の匂いは薄い。
代わりに、終わった夜の残り香のようなものが漂っていた――冷たくて、苦くて、どこか寂しい匂い。
「主、右です!」
ルクスの声に従い、俺は崩れた柱を避ける。
まだ、俺の身体が重いし、足が思うように上がらない。
黒星と白雨はすでに消しているが、魔力を使った反動は確実に残っていた。
胸の奥が熱い、喉に鉄の味が絡む。
だが、倒れるほどではない。
しかし、倒れるわけにはいかない。
「セレネ、遅れるな」
「それはこちらの台詞ですよ、ノア」
返ってきた声は、いつもより少しだけ弱い。
だが、確かだった。
セレネは胸元に紅い結晶を抱いている――エルヴィーラ・ルナ・ヴェルミリア、吸血姫を封じた、小さな紅い結晶。
決着はついたのだが、終わったわけではない。
それはセレネの表情を見れば分かった。
勝者の顔ではなければ、救済者の顔でもなかった。
これは、彼女の罪であり、そして吹っ切れた彼女自身の姿だ。
前方に白い光が見える――出口だ。
「走れっ!」
俺が言うまでもなく、ルクスが先に飛び出し、続いてセレネが飛び出す。
最後に俺が、崩れかけた石畳を蹴った。
視界が白く弾けた次の瞬間、湿った夜気が頬を打った。
戻ったのは、祖父母宅から少し離れた林の奥だった。
月はまだ空にあるが、ダンジョンに入る前と比べて赤くはない。
いつもの白い月が、雲の切れ間から静かにこちらを見下ろしている。
背後で空間が歪む。
さっきまで入口だった月光色の裂け目が、音もなく縮んでいく。
血の匂いも、赤い霧も、崩れ落ちる城の気配も、何もかも全て夜の奥へ吸い込まれるように消えていった。
最後に、小さな硝子の割れるような音がした。
――ダンジョンは完全に閉じた音のように。
「……終わったか」
俺は息を吐く。
その瞬間、膝から力が抜けかけた。
「主、大丈夫ですか?」
ルクスがすぐに手を出し、俺の体を支える。
腕を掴まれ、どうにか倒れずに済んだ。
「……平気だ、多分」
「平気な顔ではありませんけど」
「……多分だからな」
「なら、そんな事言わないでください」
ルクスの言葉に対し、俺は既に言い返す気力もなかった。
ふと、セレネがこちらへ歩み寄る。
紅い結晶を片手に抱いたまま、もう片方の手を俺の胸元へかざした。
淡い月光が染み込んでくる。
「応急処置をさせてただきました。しかし今はこれ以上……無理に魔力を動かせません」
「ああ」
「戻ったら休んでいただきます」
「分かってる」
「本当でしょうか?」
「…………多分、うん」
「――ノア」
珍しく、セレネの声が低くなったので俺は視線を逸らす。
「分かった。休むから」
「ええ、そうしてください」
その返事は穏やかだった。
けれど、どこか疲れていた。
俺はセレネの胸元にある紅い結晶を見る。
「それは――」
「……消えることはないでしょう。それが、私の望んだ事ですから」
「そうか」
「はい」
セレネは指先で結晶を包む。
「彼女はまだ、ここにいます、ここで……また眠りにつきましたから」
小さな結晶の奥で、深紅の光がかすかに揺れた。
エルヴィーラが眠っているのか、こちらを見ているのかは分からない。
彼女自身、完全に消えたわけではない――それだけは確かだった。
すると、林の向こうから足音が聞こえた。
「乃亜!」
聞こえてきたのは理央の声だった。
続くように、透花と花宮が顔を見せる。
少し遅れて智明と祖父と、そして祖母の姿も見えた。
俺の姿を見て、全員こちらへ駆けてくる。
普通なら夜中に林へ飛び込むような面々ではない――だが、今さら普通を期待する方が無理だと感じながら、思わず目を見開いた。
「無事か!?」
理央が息を切らして叫ぶ。
「――ああ」
「本当に?」
透花が泣きそうな顔で近づいてくる。
「血、吐いてない?倒れてない?どこか痛いところは?」
「質問が多いぞ、大丈夫……だと思う」
「それって大丈夫じゃないじゃん!うわ、顔色悪っ!?」
花宮が俺の顔を覗き込みながら叫んだ。
そのまま呆れた顔をしながら言ってきた。
「「それを無事って言い張るのかなり久城君って感じだよ、うん」」
「うるさい」
言いながら、少しだけ息が抜けた。
息を静かに吐くと、そのまま智明が近くまで来て俺の肩を鷲掴みにした。
「……本当に大丈夫なんだな?顔色めちゃくちゃ悪いが」
「大丈夫……とは言い切れないが、とりあえずもうダンジョンは現れないし、色々とカタはついた」
「……」
智明は黙ったまま、俺に視線を向けながら、再度ため息を吐き、そして祖父に目を向ける。
祖父も智明を見た後、静かに頷く様子が見られている。
そんな二人の姿を見た瞬間、突然体が揺れる――どうやら今回はまだ病み上がり程度だったこともあり、無理しすぎたらしい。
体が言う事を聞かない。
「っ……」
「乃亜っ!」
「主っ!」
智明とルクスの二人が俺の体を支えてくれる。
ふらつきながらも、何とか立つ事が出来たので、俺は静かに笑う。
「悪い、ふらついた……」
「やっぱ大丈夫じゃないじゃん!」
花宮が叫ぶように言った。
すると祖父の隣にいた祖母が俺の近くまで行き、静かに笑いながら言った。
「話は後よ、まずは家に帰りましょう……それに、この子を休ませないといけないから」
祖母はそのように言いながら、いつもの笑顔を見せてくれた。
それと同時に、俺は静かに目を閉じた。
「ノア!」
セレネの声が聞こえる。
どうやら本当に俺はマジで限界だったらしい――いつの間にか俺は夢の中に連れていかれてしまった。
▽
夢の中で見たのは、黒い世界だ。
そこに、一人の少女が姿を見せる。
先ほど、セレネと戦っていた一人の少女――エルヴィーラが怒ったような顔をしながら俺に目を向けている。
確か彼女は封印され、寝ているはずなのに――それが分かっているかのように、彼女は俺の疑問に答えた。
「あなたの夢の中に、私が入り込んだだけよ」
「……そんな事が出来るのか?」
「出来るけれど、やったことがなかっただけ。初めてだったけれど、成功してよかったわ」
静かに、まるで何処かの令嬢のように、彼女は綺麗なお辞儀を見せる。
そして再度、不機嫌そうな顔をしながらエルヴィーラは答える。
「あなたに一つだけ、忠告しなければならない事があるわ……それを言いにあなたの夢の中に入ったの」
「忠告?」
「私は夜の巫女とも呼ばれていた事があるの……だからこそ、眠る最後の一瞬で見た事を教えます」
「俺に何を?」
「あなた、魂と体が合っていないけれど……その体は別の?」
「……この身体は借りものだ。俺はお前たちがいた世界で処刑され、殺された存在だ」
「そう……」
そのまま、彼女は険しい表情を見せながら、再度言った。
指を指し、まるで何かを宣言するかのように。
「――その体の持ち主に対となる存在……双子の片割れが吞まれます」
「……は?」
双子の片割れと言うのはまさか、乃亜の弟、瑠亜の事か?
彼女は全く、まるで預言者のように告げた。
「気をつけなさい――猛獣の片割れが、あなたの弟を壊すでしょう……あなたとあなたの借り物の身体を持つ魂を壊す為に」
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