第104話 月光と血界
大広間の全てが一瞬で赤黒く染まった。
床も、壁も、天井も。
そして、玉座も、棺も、血色のステンドグラスも――全てがエルヴィーラの夜に呑まれていく。
深紅の血霧が大広間を満たし、床に刻まれた月と薔薇の紋様が脈打つ。
まるで、この城そのものが一つの心臓になったようだった。
鼓動が響くたび、血霧は濃くなり、赤い月光はさらに重くなる。
どうやら、領域を作り出した魔術を、使ったらしい。先ほどよりも濃く。
エルヴィーラ・ルナ・ヴェルミリアという少女の姿をした吸血鬼が、自分の夜をこの場所へ押し広げている。
「……血界、か」
俺は短く呟いた。
前の世界にも似た術式はあった。
吸血種や夜属が使う、自身の血と魔力を媒介にした支配領域と言うものがあり、それは内部にいる敵の感覚を狂わせ、血を奪い、影を操り、再生点を無数に作る。
単純な結界ではなく、城そのものを主の身体に近づける術だ。
この大広間だけではない。
おそらくダンジョン全体が、少しずつエルヴィーラの夜へ近づいている。
「……面倒だな、だけど、わかりやすくてありがたいな、セレネ!」
「はい!」
「ここで押し返せなければ、外まで広がる」
「ええ、そのつもり……分かっています!」
セレネの声は静かで、既に覚悟を決めている。
そのまま彼女はエルヴィーラを見ていた。
逃げずに、過去から目を逸らさずに。
赤黒い夜の中心で、エルヴィーラが両手を広げる。
「見なさい、月影の巫霊」
その声は大広間全体から響いた。
「これが私の世界の夜……あなたが置いていったモノよ。あなたが封じ、あなたが忘れたフリをした、血に濡れた月よ」
「私は……忘れたフリなどしていません」
セレネが一歩前へ出る。
彼女の足元に白い光が灯る――赤い血霧の中で、それは小さな月のように浮かぶ。
「私は、忘れませんでした」
「なら、何故こんなにも冷たいの?」
エルヴィーラの瞳が濡れるように赤く輝く。
「なぜ今も、私を止める側にいるの?」
「あなたを止めなければ、あなたはさらに傷つくからです」
「……綺麗事よ、それは」
「ええ、そうですね」
セレネは彼女の言葉に対し、否定などしなかった。
静かに、真っ直ぐな瞳で、彼女は笑う。
「綺麗事ですよ……ですが、私はそれを捨てません」
その瞬間、セレネの周囲に白い月輪が広がった。
一つ、二つ、そして三つ。
淡い月光の輪が、彼女を中心に重なっていく。
白い衣がふわりと浮き、長い白銀の髪が光を含む。
淡い紫の瞳が、赤い夜の奥にいるエルヴィーラを真っ直ぐ射抜いた。
血界に対する、月輪。
白い光と深紅の霧が、大広間の中央でぶつかる。
音はないが、空間が軋んだ。
赤い夜が押し寄せ、白い月輪が押し返す。
床の紋様が半分は血のように赤く、半分は雪のように白く染まった。
大広間が一瞬にして、二つに割れる。
エルヴィーラの血界と、セレネの月光。
深紅と白銀が、互いの領域を奪い合う。
「――主」
ルクスが低く言った。
「血霧の中に再生点が複数あります」
「ああ、見えてる」
エルヴィーラは本体だけを倒せば終わる相手ではない。
血界の中では、霧、影、薔薇、蝙蝠、棺、ステンドグラスーーその全てが再生の足場になり得る。
セレネが正面から血界を押し返している間、俺は逃げ道と再生点を切る。
ちゃんとセレネは俺たちに役割を残している。
戦っているのは、彼女だけではないのだから。
「ルクス、右奥の棺……影を残して監視しろ」
「承知」
「本体を追うな。動いた再生点だけ潰せ」
「御意」
ルクスの影が右奥へ滑り、血霧の中へ潜り、俺はそのまま黒星を構える。
左側のステンドグラスには赤い月光を増幅している一点へ弾丸を撃ち込む。
硝子ではなく、その奥にある魔力の核を撃ち抜くと、赤い光が一瞬乱れた。
すぐに別のステンドグラスが補おうとする為、そこへ白雨を撃つ。
弾丸が壁と燭台を跳ね、角度を変えて血霧の結び目を貫いた。
「セレネ、左は薄くしておいた!」
「はい、助かります!」
「礼は後だ、正面が来るぞ!」
俺の言葉と同時にエルヴィーラが手を振る。
血霧が巨大な翼となって広がり、そこから無数の黒い蝙蝠が生まれてきており、さらにはその影が床へ落ち、細い刃となって跳ね上がる。
上から蝙蝠、下から影刃。
「セレネ、上は任せろ!下を払え!」
「はい!」
俺は深呼吸をした後、集中しながら白雨を天井へ撃つ。
白銀の弾丸が壁と天井を反射しながら、セレネへ届く軌道だけを潰していき、同時にルクスが抜けてきた蝙蝠を霧ごと裂き、同時にセレネの月光が床を走った。
影刃が白い光に触れ、音もなく砕ける。
「――まだ足りないわ」
エルヴィーラの声が響いたその時だった。
床に血の池が開き、赤黒い水面から、夜の一族の影が立ち上がった。
そこから現れたのは、老人、女、子供等――どれも本物ではなく、残響だ。
だが、セレネには効くだろう。
――姫を返して。
――月を返して。
――どうして止めた。
――どうして眠らせた。
セレネの月輪が、再度、わずかに揺れるのを見逃さなかった。
しかし、セレネは静かに言う。
「……わかっています、ノア、幻影だと、幻覚だと、そして、私の罪だと」
「……」
「だから、大丈夫です……あなたなら、私の背中を支えてくれるでしょう?」
彼女は笑う。
俺に対してなのかわからない――けど、先ほど以上に彼女の瞳に強い光があるように見えた。
俺はただ、静かに頷く事しか出来なかった。
「――月輪、展開」
幾重にも重なった月輪が、大広間全体へ伸びる。
赤い血界と真正面からぶつかり、血霧を押し返した。
「私は、あなたたちを忘れません……ですが、忘れませんが、私は前に進まなければならないのです」
その言葉に、影たちが薄れていく。
同時に、エルヴィーラの顔が歪んだ。
「勝手に進まないでよ……」
赤い月が膨らむ。
「私を置いて、進まないで!セレネ!!」
セレネの名を呼ぶと同時に血界がさらに濃くなる。
大広間の壁が消え、代わりに赤い夜の城が広がった。
高い塔に血に濡れた庭。
月へ向かう祭壇や、倒れた夜の一族たちの姿。
幻覚ではない――多分、血界が記憶を空間へ上書きしている。
「主、まずいです」
「ああ」
このままでは、エルヴィーラの記憶に呑まれる。
仕方がないと、俺は静かに”彼女”の名を呼んだ。
「リゼット」
俺は短く名を呼んだ。
足元に淡い光が浮かび、小さな魔導人形の影が現れる。
『記録補助、限定起動。血界主核、三箇所』
視界の端に、淡い光点が浮かんだ。
一つは玉座の背後の赤い月。
一つは白い棺。
一つはエルヴィーラ自身の影。
「助かる……」
『主様……負荷増大。長時間使用非推奨です』
そのように呟きながら、リゼットの気配が消える。
喉の奥に鉄の味が上がったが、まだ動ける。
「――ルクス、棺を。俺は月を撃つ。セレネ、お前は影を払え!」
「承知」
「はい!」
ルクスの影が棺へ走り、絡みついた薔薇を裂く。
俺は黒星を赤い月へ向け、白雨を重ねて撃った。
白雨が血霧の壁を反射し、黒星の弾道をわずかに変え、黒星は赤い月の中心から少し外れた一点を貫いた。
次の瞬間、赤い光が乱れた。
「セレネ!」
「はい」
セレネの背後に、巨大な月輪が広がった。
満月そのものを背負ったような、白く静かな光。
エルヴィーラの影が床から伸びる。
「させませんっ!」
セレネの白い月輪が回転し、影を削り取る。
次の瞬間――血界に亀裂が走り、白い月光が赤黒い夜を二つに割った。
「嫌……」
エルヴィーラが呟く。
「また閉じられるなんて、嫌よっ……」
血霧が彼女を包み、無数の槍となってセレネへ向く。
「私は、もう月の底へ戻らないわ!!」
次の瞬間、血の槍が放たれる。
俺は白雨で軌道を逸らし、ルクスが残りを裂く。
それでも抜けた数本を、セレネの月輪が受け止めた。
白い光が揺れ――だが、折れない。
今の一撃で見えた。
エルヴィーラが全力で血界を動かした瞬間、影の足元に小さな空白ができる。
「セレネ、次は足元を開ける……入れるか?」
「ええ、大丈夫です、入れます」
「封印か?」
「いいえ」
セレネの声は静かだった。
「――今度は、ただ閉じるだけでは終わらせません」
俺は小さく息を吐く。
覚悟は既に決まっていたのだ。
「なら、やれセレネ」
「はい、ご主人様」
彼女の言葉と同時に、俺は黒星と白雨を同時に構えた。
狙うのは、エルヴィーラの足元、血界と彼女の影が繋がる一点。
「ルクス、合わせろ!」
「御意!」
白銀の風が走る――ルクスが右から血霧を裂き、俺は左から白雨を撃つ。
弾丸が壁を跳ね、エルヴィーラの背後へ回った。
同時に、黒星を撃つ。
二つの弾道が、影の根元で交差した。
黒星が術式の芯を穿ち、白雨が逃げ道を塞ぐ。
エルヴィーラの足元に、一瞬だけ白い空白が生まれた。
「セレネ!」
俺が叫ぶより早く、セレネは動いていた。
巨大な月輪を背負い、赤い夜の中へ踏み込むと同時に長い髪が月光に溶け、白い衣が血霧を裂いた。
「エルヴィーラ」
「……っ」
セレネが彼女の名を呼ぶ。
エルヴィーラは静かに、セレネに目を向けた。
「私は、あなたを忘れません」
その両手に、白い月光が集まる。
「だから今度は、あなたの夜ごと受け止めます」
巨大な月輪が、ゆっくりと回転を始めた。
白い光が深紅の血界を裂きながら、エルヴィーラへ向かって降りていった。
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