第103話 姫の本音
セレネの月光が、赤い夜を押し返した。
大広間の中央に白い道が伸びると同時に床を這っていた血霧が薄れ、絡みついていた影がほどけていくと共に赤い月光の中に小さな空白が生まれる。
そこだけが、彼女の”夜”ではなくなっていた。
ただ静かに、セレネはその中心に立っている。
セレネは白い衣を揺らし、淡い紫の瞳でエルヴィーラを見据えていいる――彼女自身の痛みは消えていないし、迷いも、後悔も、きっと残っている。
だが、もうそれに足を取られてはいなかった。
俺はその背中を見ながら、黒星と白雨を握り直す。
今、前に立っているのはセレネだ。
俺はその道を崩させないためにいる。
セレネのその姿を見て目を見開くと同時、エルヴィーラは、白い道の先で静かに笑った。
「逃げない、ね」
赤い月光を背負い、血霧の翼を広げた小さな姫だがその声は相変わらず冷たい。
冷たいのだが、それでも彼女の瞳は諦めていない。
彼女の瞳から怒り、寂しさ、そして、もっと深いところにある拗れた願いがあるかのように。
「そういう所、好きではないわ」
「そうですね、あなたならそのように言うと思いました」
「……ああ、腹が立つ。」
エルヴィーラの深紅の瞳が、俺へ一瞬だけ向いた。
「今は、隣に誰かがいるからなのね」
その視線には、明確な敵意がある。
だが、俺を敵として見ているというより、セレネの隣にいる存在として憎んでいるようだった。
エルヴィーラの感情はある意味面倒だ。
しかし、分からないわけではない。
置いていかれた者は、置いていった者の今を憎み、そして自分の時間が止まったままなら、なおさらだ――セレネだけが進んだように見えているのかもしれない。
「エルヴィーラ様」
セレネが彼女の名を呼んだ。
姫ではなく、名で。
その瞬間、エルヴィーラの表情がわずかに揺れた。
「……その名を呼ぶのね」
「呼ばせていただきました、あなたの名を」
「……呼んでほしかったわけではないわ」
「そうですか?」
「ええ」
エルヴィーラは薄く微笑む。
「でも、私の名前を、あなたは忘れていなかったのね?」
彼女の声が少しだけ小さくなった。
それは戦場で聞くにはあまりに弱い音――だからこそ、俺は撃たなかった。
ルクスも動かず、セレネも月光を構えたままただ彼女の言葉を待っている。
血霧が大広間を静かに回るのだが、彼女は襲ってこない。
赤い夜と白い月光が、互いに押し合ったまま止まっていた。
「……私は、あなたを憎んでいるわ」
エルヴィーラは言った。
けれど、その声は静かに聞こえるような気がした。
そのまま、彼女は話を続ける。
「あなたが私を止めた事を、封じた事を……そしてあの夜を終わらせた事を……私の一族を、私の月を、私の未来を、勝手に閉じた事を、赦す事はありません」
「……はい」
「憎んでいます……」
「はい」
「――ずっと」
彼女の言葉を、セレネは受け止めるように頷いた。
その姿を見て、エルヴィーラの瞳がさらに細くなる。
怒りだけではなく、受け止められる事すら痛いのかもしれない。
「でも――」
エルヴィーラの声が、そこでわずかに途切れる。
彼女の棺に絡む薔薇が赤い花弁を一枚落とし、花弁は床へ触れる前に霧へ変わっていくと同時に、赤い月光の中へ溶けた。
「私は……本当は、滅びたかったわけではなかった」
その言葉で、大広間の空気が変わっていくと同時に、セレネの月光が、ほんの少しだけ揺れた。
だが、今度は崩れない、崩れる事はない。
まっすぐと、エルヴィーラはセレネを見つめている。
「血に酔っていた、渇いていた、月へ届くと信じていた……けれど、どこかで分かっていたのよ」
エルヴィーラは自分の胸に手を当てる。
「――私たちは壊れている、と」
深紅の瞳が、過去を見るように遠くなる。
「一族は笑っていたわ。祈っていたわ。血を捧げ、月を讃え、これこそ祝福だと叫んでいた。でも、その声の奥で、みんな泣いていた」
彼女の言葉と同時に血霧の中に影が浮かぶ。
それは、膝をつく人々や杯を掲げる女や赤い薔薇の中で眠る少女とステンドグラスに描かれていたものと同じ景色――だが、硝子の絵よりもずっと醜い。
彼らは祈りながら震えており、そして笑いながら涙を流していたり、笑いながら涙を流す口元、血を飲み、吐き、それでも杯を求める者たち。
――狂気だ。
だが、その狂気の奥に確かに助けを求める声があった。
「誰かに止めてほしかった……でも、終わらせてほしかったわけではないの」
これはまるで彼女の叫びのように、それを見てセレネの表情が痛みに歪む。
「姫……」
「セレネ、そう呼ばないで」
エルヴィーラの声が少しだけ鋭くなった。
「今さら優しく呼ばないで」
「……エルヴィーラ」
深紅の瞳がセレネを射抜く。
その瞳は、明らかに拒絶を表しているかのように。
「私の前に立てた、私の目を見た、そして、私が壊れかけていることも、どこかで止めてほしいと思っていたことも、あなたなら分かったはずよ」
セレネは否定しなかった。
それは、本当の事なのだから。
「ええ、わかっておりました」
「なのに、あなたは私を閉じ込めた」
「……はい」
「あなたはただ、月の底へ沈めた」
そのように言いながら、唇を震わせている。
セレネはそれでもまっすぐに、彼女を見つめるのみ。
「――私は、あなたに止めてほしかった」
エルヴィーラの声が震えた。
初めて、はっきりと。
「だから、置いていってほしくはなかった」
その瞬間、俺はようやく彼女の核を見た気がした。
彼女の恨み、怒り、復讐――それらは本物だ。
だが、その奥にあるのは、大切な人に見捨てられたという痛みだった。
救ってほしかった、止めてほしかった。
けれど、閉じ込めさせられる、それは彼女の意志ではなかった。
自分の選択も、痛みも、狂気も抱えたまま、それでも誰かに傍にいてほしかった。
セレネはそれができる位置にいた、少なくともエルヴィーラはそう思っている。
だからこそ、憎くてたまらない。
誰かが悪で、誰かが正義で、それで終わる話ではない。
救えなかった者と、救われなかった者が、長い夜の果てに向き合っている。
「私は――あなたを救えるほどの力などありませんでした」
セレネが静かに口を開いた。
その言葉を聞いても、エルヴィーラは笑わなかった。
ただ、セレネを見ている。
「あの時の私は、あなたの痛みに気づいていました。あなたが完全に壊れていない事も、まだ戻れる場所を探していた事も、分かっていたのだと思います」
「なら……なぜ?」
「私は、怖かったのです」
セレネの声は、静かだった。
だが、そこにははっきりと痛みと言うモノがある。
「あなたの一族は、もう限界でした。血の呪いは広がり、夜は歪み、月の祝福はほとんど届かなくなっていた。私が一瞬でも迷えば、さらに多くの命が呑まれていた」
「だから、私を切り捨てた?」
「切り捨てたくはありませんでした」
「それは……いえ、それでも、結果は同じよ」
「……はい、そうですね」
セレネは頷く。
ただ静かに笑いながらそのように頷く事しか出来なかった。
「ごめんなさい、エルヴィーラ」
セレネの謝罪を聞いて、エルヴィーラの表情が歪む。
セレネは、言い訳もしなかった。
だからこそ、姫の怒りは行き場を失っていく。
「私は、あなたを手放しました」
セレネは続ける。
「止めるしかなかった。封じるしかなかった。それは今でも変わりません。あの時の私に、あなたの手を取り、あなたの一族を全て救う力はなかった」
「……」
「けれど」
白い月光が、静かに揺れる。
「私は絶対に、あなたを忘れたことはありません……今でも後悔しておりましたから、何度も」
「……嘘」
「嘘ではありません」
「なら、なぜ来なかったの?」
「私は、来る資格がないと思っていました」
「そんなもの、私が決めることよ」
「はい」
セレネは目を伏せる。
「それすら、私はあなたから奪ってしまったのですね」
セレネの言葉と同時に、大広間に沈黙が落ちた。
赤い夜と白い月光が、互いにぶつかり合ったまま揺れている。
二つとも、どちらも退かない。
けれど、どちらも相手を完全に消し去ることができない。
――似ているのかもしれない、セレネも、エルヴィーラも。
片方は救えなかった罪を抱えてしまい、片方は救われなかった痛みを抱えている。
そして、どちらもまだ、あの日の夜から抜け出せていない。
「……あなたは、ずるいわ」
エルヴィーラが言った。
「今さらそんな顔で、今さらそんな声で、私を忘れていないなんて言うの」
「……」
「そんなことを言われてしまったら――」
赤い霧が、彼女の周囲で震える。
「また、期待してしまうじゃない……っ!」
その声は、小さかった。
だが、次の瞬間には掻き消され、エルヴィーラが顔を上げた。
深紅の瞳に、押し殺していた感情が一気に滲んでいる。
そこから怒り、悲しみ、そして寂しさ――今さら救いを求めてしまった自分への憎しみを宿しながら。
「嫌……っ」
彼女が呟く。
「そんなの、嫌よっ!!」
叫ぶと同時に、赤い月光が爆ぜた。
大広間の床が脈打つと同時に、空間全体が、彼女の夜へ塗り潰されていく。
「私はあなたを憎む!」
エルヴィーラの声が、今度は震えていた。
「憎んでいるの。憎んでいなければ、耐えられなかった。あなたを待っていたなんて、そんな惨めな事……認められるはずがないでしょう!?」
怒りを露わにしながら叫ぶ彼女に対し、セレネの月光が押される――白い道が狭くなっていった。
「セレネ!」
俺は叫ぶように彼女を呼ぶが、彼女は変わらない笑顔で俺に視線を向ける。
その顔は変わらない。
「っ……大丈夫、分かっています」
本当に大丈夫なのかわからないが、俺はそれでもセレネを信じなければならない。
対し、エルヴィーラが両手を広げる。
その背後で、赤い月が大きく膨らんだ。
それは、偽物の月――だが、この空間においては本物の支配者に等しい。
血霧が翼となり、影が城の壁を覆い、蝙蝠の群れが天井から黒い雨のように降り始める。
彼女の夜が、完全に目を覚ます。
「なら、見て!」
エルヴィーラがセレネを見た。
だけどその目は泣いているように見えた。
「これが!あなたが置いていった私の夜よ!」
次の瞬間、大広間のすべてが赤黒い夜に染まった。
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