第7話:裏波
大聖堂から響く鐘の音が午後の時間を告げた。
王の書斎は、開きかけの本がそこかしこに置かれている。城の大書物庫から運んできた本もあるせいで、まるで部屋そのものが本棚のようだ。
「えっと、すみません。散らかっていて」
ルシッカは物書き机の上に積み重なっている本の上に、さらに本を置いた。
ヴェシメロニは「いいえ」とだけ答える。その落ち着いた低い声と精悍な佇まいを間近にすると、ルシッカは自分で呼びつけておきながら圧倒されてしまう。
「あの、兄……前国王の件で、騎士団に嫌疑が向いているという話を耳にしたのですが……大丈夫ですか?」
ルシッカは口ごもりながら言う。大臣たちから「国王らしく威厳が感じられる話し方をするように」と言われているが、とてもできない。特に、幼い頃から知る人物が相手では難しい。
「お気づかいいただき、ありがとうございます。信頼回復に向けて最善を尽くしております」
ヴェシメロニは折り目正しく頭を下げた。
やっぱり、ペルナを呼べばよかった……。ルシッカは言葉に詰まる。騎士団の序列を考えて、先の暗殺で命を奪われた団長の代理を務めている――副団長のヴェシメロニを呼んだものの、どうにも緊張してしまい話しにくい。
「あの……城のことなのですが。ヴェシメロニ殿は、城内のことはすべて知っているのですか?」
それでも、呼びつけたからには話さないわけにはいかない。
「はい。警備に必要な情報は、すべて把握しております」
「王座の間のことも……ですか?」
それならば、話が早い。ヴェシメロニの返事を聞いて、ルシッカは少しだけ安心した。それでも、慎重に話を進める。しかし、その言い方が曖昧すぎたのか、ヴェシメロニは眉間にしわを寄せた。
数秒、二人の間に微妙な沈黙が落ちる。
「隠し通路のことでしたら存じております」
ややあって、ヴェシメロニが口を開いた。
「そ、そうです! そのことが言いたかったんです。その通路のことは、騎士団ならば誰もが知っていることなのですか?」
「いいえ。団長と副団長のみが知ることを許されております」
ルシッカは「そうなんですね」と安堵の息をついた。
もしも、敵を手引きしようとするならば、王座の間の通路は最適だ――と考えていた。疑っているわけではないが、あの通路のことを知らないのならば、隊長たちが内通者である可能性は低い。つまり、信じるに足る根拠が欲しかった。これで、大臣や貴族たちの噂話にも自信をもって対抗できる。
「あ、すみません。あの通路のことですが、隊長たちにも伝えてください。もちろん、最高機密の扱いは、今まで通りで。それと、王座の間とその周辺の警備を強化してください」
ルシッカの表情が少しだけ和らぐ。
その瞬間、ヴェシメロニは僅かに眉根を寄せた。
「承知いたしました」
しかし、すぐに頭を下げる。
「食事の準備が整いました」
ほどなくして、侍従が昼食の時間を伝えにきた。
調理場から漂う煮込み料理の香りに誘われて、ルシッカの腹がぐうと鳴る。
「もうそんな時間……」
思わぬ恥ずかしさに慌てて立ち上がった途端、足元の本につまずき、派手にひっくり返った。その衝撃で、物書き机の上に積んであった本が崩れ落ち、見事に埋もれる。
それには、さすがにヴェシメロニも表情を動かした。
――遥か頭上でアーチを描く天井の下、ミュルキス国の王妃はドレスの裾を軽やかに揺らしながら歩いている。美しく豪華な装飾品が並ぶ廊下を、規則正しく鳴り響くヒールの音に合わせて、すれ違う衛兵や使用人たちは頭を垂れる。
「お待たせいたしましたわ。ジュエリーを選ぶのに手間取ってしまいましたの」
やがて評議の間の扉が開かれれば、バラの重い香りが室内に流れ込んだ。
……台無しだ。メロニエルは穏やかな表情のまま、手元の紅茶を僅かに遠ざけた。
部屋の奥へと進むヒールの音が、室内の空気を冷たくかき混ぜる。その空気に触れて、軍務関係の大臣や騎士団長などという、普段は強面で鳴らしている者たちの顔が緊張にこわばった。
「メロニエル。話は、どこまで進んでいるのかしら?」
王妃は、国王の隣の席に慣れた様子で腰を下ろした。
「たわいない雑談の類のみでございます」
メロニエルが恭しく返せば、王妃は満足そうに頷く。
「その後、タイヴァスの様子はいかがかしら?」
「団長亡き後、騎士団の足並みは乱れているとの報告が届いております」
王妃が誰にともなく尋ねれば、騎士団長が即座に答える。
「そう。であるならば、一枚岩ではない今こそが仕掛け時ということかしら? ねえ、陛下?」
「メロニエル。どう思う? そなたは直に目にしたのであろう」
王妃に小さく頷いてから、国王は視線を部屋の中ほどへと向けた。
「現在、あちらは騎士団長が不在の状態が続いており、ヴェシメロニ副団長が指揮しておられます。確かに……足並みには、多少の乱れが見受けられます。しかしながら、完全に結束を欠いているとは申し上げかねます」
向けられた視線に淡々と返す。攻めるなら今――という考え方もできるが、それは相手次第だとも言える。
「あら。随分と思慮深くいらっしゃるのね」
嫌味なのか、本気なのかわからない王妃の口ぶりに、メロニエルは笑みだけを返した。
「いつまでも、タイヴァスに主導権を握らせておくわけにはいくまい。均衡は、我がミュルキスの手で保つ。そのためにも、この機を逃してはならぬ! そうではないか?」
「陛下。その通りですわ」
国王の手に、王妃は自らの手を重ねた。その指先でルビーが鮮烈な赤をきらめかせている。
その通り? 馬鹿な。メロニエルも、他の者たちと同様に賛同に手を叩く。手を叩きながら、頭の中では国王の望みを叶えるための攻めどころを探る。
しかし、ふと思考が止まった。
「恐れながら申し上げます」
出入り口に近い席のローブ姿の男が、つと顔を上げた。目深にかぶったフードの奥で白い髪が揺れる。
「弟君の国に攻め入れば、王の徳を曇らせることになるやもしれませぬ」
自らに集まる視線など気にも止めず、しゃがれた声で異を唱えた。
メロニエルは眉をひそめる。それは自覚と無自覚の間の反応。
「ミュルキスのためだ」
国王は用意されていたかのように強く返した。
「ご覚悟、しかと承りました」
男は恭しく頭を下げる。そのフードの下、愉快そうに唇の端を持ち上げた。
その後、いくつかの議案を審議してから形式ばかりの会議は終わった。
評議の間には、国王とメロニエルだけが残っている。
「気が乗らぬようだな?」
国王は不満げに言う。
「そのようなつもりはございません。ただ……あの者が信頼に足る人物かどうか、私には測りかねます」
先ほどのような人前での発言とは違い、メロニエルの口調には率直さがある。
「まあ、そう言うな。今や、あの者の助言は頼もしき道しるべとなっている。何より、王妃が連れてきた者だ。疑念は不要と言えよう」
国王は苦笑いを隠さない。
「私も、王妃も、お前を信頼している。お前の鋭い見識や思慮深さが必要なのだ。わかってくれ」
だが、反論は認められないとやんわりと示す。
「御意。我らが国のためとあらば、謹んでお役立ちいたします」
我が国のためならば……。メロニエルは丁重に頭を下げた。
不意、評議の間の扉が静かに開いた。
そうかと思えば、衛兵たちが押さえる扉を通り抜け、フードの男が入ってきた。黒灰色のローブは床に擦れるほど長い。そして、コツコツ――歩くたびに硬質な音が床を鳴らす。
「それでは、これにて失礼いたします」
メロニエルは退散するつもりで、改めて頭を下げた。下を向いた瞬間、冷たいほど整った顔立ちが歪む。あの音、耳障りだ。
「メロニエル殿。お待ちください」
男に引き止められ、メロニエルは背を向けかけた体を元に戻す。言葉はない。
「王妃様から言伝がございます」
「王妃から?」
男の言葉に反応したのは、国王が先だった。
「はい。今一度、タイヴァス王国に向かってほしいとのことでございます」
国王に向かって深く頷きを返してから、男は言った。
「タイヴァスに?」
何のために? メロニエルは僅かに眉をひそめる。
「ミュルキスとタイヴァスの間にヤルヴと呼ばれる小さな集落がございます。現在はタイヴァスの保護下となっておりますが、そちらの土地を王妃様がご所望されております」
男は、その反応を予測していたかのように、伝えた。
「ヤルヴ……獣人の土地を? 何故? そもそも、獣人たちの土地の多くは先住権により不可侵と取り決められているはず」
「不可侵であるにもかかわらず、タイヴァスの保護下にある、というのはいかがなものかしら?」
メロニエルは自分の疑問に答えた声に顔を向けた。開かれたままになっている扉の前、王妃が立っている。
「あの場所は湖の景色が、とても美しいの。離宮を設けるのにふさわしい場所。そうでしょう?」
王妃に同意するように、国王は「その通りだな」と頷いている。
「そちらは……先々代国王陛下が手放された土地と記憶しておりますが」
だから、タイヴァスの保護下になった。メロニエルは咎め立てたい思いを抑えて、努めて平静に言葉を選ぶ。獣人たちを敵に回しても得になるようなことはない。歴史の教訓から見ても明らかだ。
「ええ。祖父様の悪手は知ってるわ。だから、何? 返してもらいましょう。我が王家の土地なのだから」
王妃は悪びれる様子もない。
「メロニエル。わたくしは、あなたのことが好きよ。美しくて、賢くて、上品で律儀。その非凡さの全てを好ましく思っているわ。けれど、忘れないでちょうだい。身のほどを知らぬ言動は災いの元となりかねませんわよ」
それどころか、冷淡な微笑みで静かに釘をさす。
「失礼いたしました」
メロニエルは頭を垂れた。
「まあまあ。詳細は追って命ずる。下がってよいぞ」
王妃の機嫌を損ねないように、国王が取り成す。
言われるままに、メロニエルは退室する。翌日には命令が下るだろうが、嫌な予感しかしない。
「あら。振り向きもしなかったわ」
扉の向こうへと消えた白い長衣の背中に、王妃は口を尖らせた。
「そういう男なのだ。意に沿わぬやもしれぬが、見逃してやってくれ」
国王は宥め、そのまま肩を抱き、二人揃って評議の間を後にした。
その後を追うわけでもなく、フードの男は国王の椅子に腰を下ろす。
「他の椅子と変わらんな」
つまらなそうに鼻で笑う。
誰もいなくなった室内は、明かりが灯されていても温もりはない。
不意、男は指をクルリと回す。すると、室内の右半分の燭台の灯火が消えた。
「だが、まずはタイヴァス……そこからだ」
薄暗い部屋の中、ローブの裾から覗いた左足が溶けない氷のように光を淡く映している。




